寝ても覚めても
(濱口竜介監督)
「寝ても覚めても」(濱口竜介監督)
昨日、濱口竜介監督の「寝ても覚めても」をMovix 京都で見てきました。
一番印象に残ったのは、ヒロイン朝子が東京へ出てから、大阪で同棲していて自分の前から消えた恋人「麦」(ばく)と生き写しの亮平に出遇い、彼は次第に朝子に惹かれていくけれど朝子がまだ彼を避けているとき、朝子とルームシェアをしている舞台女優マヤのはからいで、朝子の得意なお好み焼きを食べさせるからと誘われて、亮平と同僚の串橋がマヤと朝子の部屋を訪れる場面でした。
ここでマヤの舞台の録画ビデオを関心なげに見ていた串橋が不機嫌そうに帰る、と言い出し、明らかに観ていたマヤの演技が気に入らないようなので、串橋が自分から見たいと言ったから見せたのに、気に入らないならはっきり言ってほしい、とマヤが詰め寄ると、串橋は突然マヤが演じていたイプセンの戯曲の一節を朗々と朗誦しはじめ、マヤの演技が中途半端で、なんでこんなことをやっているのか、意味がない、と激烈な言葉でこきおろし、出て行こうとします。それまで一人クールに奥のキッチンでお好み焼きの用意をしていた朝子が、マヤのやっていることは中途半端なんかじゃない、わたしはその演技に感動してきたし、それは嘘じゃない。彼女は一所懸命努力していい演技をめざそうとずっと持続している姿を見てとても自分にはできないな、と思って来た、と言います。それでも出て行こうとする串橋を、今度は亮平が必死でひきとめ、いまここを出て行けば、お前は二度とマヤさんに会えなくなるぞ、そしてこれからもずっと今日のことをひきずって生きることになるんだぞ、それでいいのか、と諭します。串橋はマヤの前に跪いて自分の発言を詫び、自分がかなえられずに諦めてしまった夢をマヤが全力を挙げて追い続けているのが妬ましかったのだと告白します。
このシーンは、朝子と麦、および亮平との恋の物語であるメインストリームから言えば脇道に入ったエピソードで、原作にはまったくなかった場面です。しかし、この映画の中では圧倒的な強度をもって観る者に迫ってくる力のこもったシーンです。登場人物であるそれぞれの事情と思いを抱えた4人が、一人一人、明確な個性とそれぞれの想いや主張をもち、それを論理的な言葉で堂々と明瞭に表現する強さ、逞しさを持っていて、それぞれこの場での異なる立場に随った異なる役割をみごとに果たしていて、どの一人をとってみても、それぞれに圧倒的な存在感を持って輝いています。
ここまでは映画を観ていても、ただ目の前で起きることの流れを距離を置いて、どうなっていくんだろう、とストーリーを追って眺めていただけの感があった観客の私も、この場面へきて、はじめて作品の世界の中へいやおうなく引き込まれ、その緊張感に満ちた4人の間の透明で硬質な言葉のやりとりが構成する言説の空間に精神を張り詰め、固唾を呑んで彼らのやりとりに立ち会うような体験をしました。このコンパクトな空間と時間に詰め込まれたエピソードは、その強烈なテンションの高さで、この作品全体の空間のひろがりと時間の流れのなかでも、ほとんど不釣り合いなほど突出して感じられるほどでした。
メインストリームから外れた脇道と書きましたが、実際には、このエピソードを転回点として、朝子が磁石の同極どうしのように近づこうとする亮平を斥け避けるぎこちない関係が、N極とS極が引き合うようにひとつになっていくし、マヤと串橋も男女として結ばれていくことになるので、物語の中でも大きな転機となる場面だったと思います。
前日に柴崎友香の原作を読んで、これは恋愛小説というよりも「ひとめ惚れ小説」であって、現実の男女の間の恋愛は描かれておらず、ヒロイン朝子のひとめ惚れ症候群による後遺症としての「麦」幻想を通した語りのバイアスが読者には伏せられたまま、本当は「同系統」の顔立ちというにすぎない「麦」と新しい男「亮平」とを生き写しのように同一視してしまう朝子の「ひとめ惚れ」の物語であって、その語りの仕掛けそのものが作家としての柴崎友香の企みであり、この作品の面白さだと書きました。そういう作品だからこそ、もう物語の七、八分まで進んだ頃になって、大阪時代の朝子の親友春代と朝子が東京で再会し、亮平を紹介されたとき、春代は麦と亮平が「同系統」の顔として似ているとは評するものの、朝子のように生き写しの瓜二つなどとは全然思っていないことを明らかにして、朝子に衝撃を与えます。ここで読者も初めて、それまでの朝子の語りが朝子自身の「ひとめ惚れ」後遺症でひどくバイアスのかかったものであったことに気づくのです。このアクロイド的な仕掛けが、この原作を面白くしていることは確実です。また、このような気づきが伏線になって、最後にそれでも再び朝子の前に現れた麦と、亮平をはじめとするすべてを投げ捨てて逃避行へ旅だつ朝子が、新幹線の中で隣の座席で眠る麦を今の自分と昔の自分の複眼でもって眺めていて、突然、これは亮平じゃないじゃん!と愕然として気づき、こんどは麦を置き去りにして亮平のもとへ帰っていく、というストーリーになるわけで、原作は原作としての帳尻が合っています。
しかし、映画のほうは、これとはまるで異なる物語になっています。前日原作を読んだときは、いったいこの朝子の「ひとめ惚れ」後遺症の幻想が生み出した、生き写しのそっくりさん二人をどう映像的に処理するんだろう?映画では一人二役で、麦と亮平を同じ役者が演じるらしいけれど、それじゃ朝子にとってだけでなく、春代など周囲の人間にとっても生き写しのそっくりさんにしか見えないだろうし、かといって、別人として演じれば、朝子がまったく同一人物だと思い込んで、春代がよく似てるね、程度にしか思わないことに逆にショックを受けるなんてこともあり得ないことになってしまう。朝子の主観のバイアスは小説での語り手を朝子に設定して、亮平もその眼を通してしか描かれないから、麦と亮平が生き写し、というのが成立するのであって、映像では亮平は亮平としてカメラが直接とらえてしまうから、同じカメラが朝子をも客観的な像としてとらえている以上は、亮平の像も朝子の主観的な像にすぎないことにするわけにはいくまい・・・と思って、いったいどうするんだろう?と思っていました。
これを映画では、非常にあっさりと一人二役で麦と亮平は別人として、メイクと役者の演技で演じ分け、「ひとめ惚れ」の物語を、とてもオーソドックスなラブ・ストーリーにしてしまいました。だから、たしかに映画の中の朝子も麦への想いが断ち切れず、亮平に初めて遭遇したときも、その後遺症で亮平のことを麦だと錯覚しますが、親友の春代もまた、初めて亮平を紹介されるとき、朝子と同様に、そっくりじゃん、と思ったはずです。その場面で、映画では、原作のように似ているけど「同じ系統の顔」としか感じない程度の似方ではなく、あっ、朝子はやっぱり麦が忘れられずに、麦と生き写しみたいにそっくりな男を選んだんじゃん!という驚きと戸惑いの表情を春代が見せています。そんなことはもちろん何も口にはしないけれど、それは朝子への気遣いと、亮平の前でそういう過去の男のことを言うわけにもいかないからで、このときの戸惑いの表情だけで示しているわけで、ここでの春代の演技(伊藤沙莉)もとても良かった。
原作の春代は亮平を見ても大して驚いてはいないし、よく似てるね、くらいの感じ方。映画ではほとんど朝子が亮平とはじめてであったときに近いくらい驚いて、そっくりじゃん!と感じている様子です。「ひとめ惚れ」物語の原作と、普通のラブストーリーとしての映画との違いは、この場面に象徴されているし、明確です。
映画での朝子はひとめぼれで、心から愛していた麦に、理由も告げないまま置き去りにされ、傷心の歳月をすごして東京で暮らすうち、その男麦とそっくりの男亮平に出会い、ほとんど麦本人じゃないか、と錯覚してしまうほど似ていたので、心乱され、戸惑い、赤の他人なんだ、と自分に言い聞かせて、似ているからこそ避けようとし、そのことでかえって不審にも思い、気がかりが嵩じて朝子に惹かれていく亮平から逃げているわけで、こういう出会い方をすれば、いずれきっかけがあれば逆に強く惹かれてもいくわけで、その媒介役をつとめるのがマヤであり、冒頭に書いたあの場面です。
こうして朝子は亮平と結ばれ、一緒にしあわせな時を過ごしていくけれども、いまは人気の映画俳優にまでなった麦が再び彼女の前に、いわば宿命であるかのように現れ、約束通り帰ってきた、などと言うものだから、朝子は再び心乱され、瞬時に亮平も親友たちをも振り捨て、その身ひとつで麦についていってしまう。
ここまでで不自然なところは全然ありませんよね。たしかにそんなに生き写しのそっくりさんがあるもんかね、と確率的なことを言えば低いかもしれないけれど、「他人の空似」と言われるように、そういうそっくりさん、というのは現実にないわけではありません。だから、確率的には低くても、物語がそこから始まるスタートラインとしての仮構線だと思えば、こういうことがあったとして、さて、とこのラブストーリーが始まるんだと思えば、これは別段SFのように空想的でもなければ、無理のある設定でもありません。
そして、最初は亮平の出現に戸惑い、避けるのも、あるきっかけで逆に一気に近づいていくのも、ごく自然です。惚れていた麦とそっくりだから亮平に惚れたのか、それとも亮平という別の男性に惚れたのか、自分でも「それは分からへん」と朝子自身が言います。それはとても正直なところだと思います。
麦と亮平が、朝子が同一人物と錯覚したように、生き写しのように瓜二つということになっているから、そういう問いが特異なことのように思えるけれど、こんなことは私たちのあいだでもごくありふれたことではないでしょうか。
だいたい源氏物語のころから、あの光源氏は大好きな母の面影を慕って、彼女と似ていると噂される藤壺に禁じられた想いを寄せるようになるわけでしょう(笑)。私たちも、昔つよく憧れていた女性がいたとして、それがいまの恋人や妻と似ている、と両方知っている人から言われたりして、その恋人や妻から、「あなたは私がその片思いだった人に似てたから好きになったの?」と詰問されて、ちゃんと答えられる人がいるでしょうか?(笑)。ひそかに顧みても、自分がそういう昔憧れた人の面影を重ねていたからいまの恋人や妻に惹かれたのか、それとも全然それとは別にいまの恋人や妻を好きになったのかなんて、いくら考えたってわかりませんよね。
そうしてみると、ここまでの過程はほんとうにオーソドックスなラブストーリーで、過去をひきずった女性がそれと自分の中で葛藤しながら、あらたな恋人と寄り添って生きていく筋道を描いているわけで、典型的なメロドラマなのです。
ただ、ラストも近くなってから、再び麦が彼女の前にあらわれ、彼女がなにもかも忘れて麦について行く、或る意味で狂気の行動に出るところは、まぁそう穏やかな典型的なラブストーリーの始末のつけかたではありません。彼女のひきずってきた過去との葛藤の最後のダメ押しみたいなところで、これがあるからよけいにしまるというか、もう一度最後に鋭角的な違和を打ち込んでおくことで、簡単に甘いラブラブの物語になってしまわず、現実味のあるラブストーリーになるんだ、ともいえるでしょう。
なぜなら、そこまで狂って昔の男と逃避行にまで及んだ女性を、素直にいいよ、やっぱり好きだからとすっと受け容れるような男はまぁいないでしょうから(笑)・・・実際、亮平も、もうお前に会いたくない、と扉をとざし、結局家の中に入れて、ラストシーンは二人で窓辺で並んで外を見ている、今後の二人を暗示するような光景ではあるけれども、彼のセリフは「もうこれからずっとお前を信用できへん」という言葉なんですね。
でもやっぱり彼は朝子を愛していて、許さずにはいられないわけです。彼女が麦と別れを告げてひとり大阪の亮平の新居へ戻ってきて、彼から、なんで戻ってきた。帰れ!出ていけ!と罵られながらも、あんたと一緒にいたい、とめげずに繰り返す。そしてついてくるな!と言って走って逃げだす彼を、朝子はやはり走って追っかける。この土手の追っかけっこをロングショットでとらえたシーンを、先日それだけ読んでいった「ユリイカ」9月号の濱口監督と蓮實重彦の対談で、蓮實が、これまで見た中で最も美しいロングショットで、泣けました、と語っていました。技術的なことは私には分からないし、これが「美しい」シーンというのも美学的にどうなのかは私には分からないけれども、この映画のストーリーだけを追っかけてみる素人の受ける印象としては、このシーンはものすごく切ない、感情のこみあげてくるシーンであることは確かです。
というのは、亮平はやっぱり朝子が好きで、絶対に忘れられないひとだからこそ、裏切られてもう何もかも失った人のように落ち込み、深く傷ついていたわけで、だからこそおめおめと戻ってきた朝子を絶対に許せない、罵って追い返す、拒否する、という態度に出るのですが、それは客観的にみれば彼の男としての最小限のプライドがそうさせているだけで、無意識の中ではもう彼ははじめから彼女を赦しているし、迎え入れたくて仕方がない、そういう愛情をもっているわけです。二人の愛し合った平和な生活の象徴みたいな猫も、彼は棄てて来たぞ、と言い捨て、朝子はそのために草深いところを雨に濡れながら猫の名を呼んで探すわけです。でも、実際には彼はあの猫ちゃんを棄ててなくて、扉を閉ざして彼女を入れない姿勢を示したときに、扉を半開きにして猫ちゃんだけ彼女に手渡すのですね。つまり彼は最初から朝子との幸せをまだ決して自分から踏みつぶして蹴飛ばしてはいない。大切に保存していたのですね。
その彼が、もどってきた朝子をもうすぐにでも受け容れて抱きしめたい無意識を抑圧して拒みつづけようして、追っかけてくる朝子についてくるな!と叫んでもう逃げ出すしかない、自分の矛盾した感情の爆発を抑え切れずに、そのアンビバレントな自分から逃げ出すように、ただひた走りに走って逃げるしかない、またそれを朝子はひたむきに追っかけていく、そういう二人のラブストーリーの究極の姿をここでの走りで表現しているシーンですから、観ているほうも二人の心情に同化すると、一気に盛り上がって泣けてくるシーンなのです。それを美しいシーン、と言うなら私も同感でした。
この作品はそういう素晴らしい現代のメロドラマですが、これをふにゃふにゃのゆるいメロドラマにしていないのは、一人一人の若い登場人物の精神的に自立した逞しく、強い、一途さみたいなものが感じられる姿であるように思います。冒頭に書いた4人のシーンだけでなく、春代や岡崎なども含めて、原作のときもこれは周囲の友人たちが面白いな、と思ったけれど、映画になると一人一人肉体をもった個性的な役者が演じているから、原作を読んで予想したよりもはるかに強い存在感がありました。演出もよかったのでしょうが、一人一人の俳優の演技がすばらしくて、ほんとうに輝いていました。
一人二役の東出昌大は難しい役回りだったでしょうが、麦と亮平をちゃんと演じ分けていたし、原作では少々薄っぺらで無責任な男にすぎず、私には魅力の感じられなかった麦も、朝子との最後の別れのシーンなどでは、いいところを見せて、それなりの存在感を示していました。でも最初に朝子がひとめぼれするシーンでは、とてもひとめぼれするような男には見えなかったけれど(笑)。でもそれは、そんなのありえへ~ん!と、あの出会いのシーンの直後に叫ぶ友人岡崎の言葉で、映画的にはちゃんと処理してあったけれど(笑)・・あれがなくてキマジメな出会いのシーンだけでパスしていたら、おいおい、とブーイングするところで、岡崎発言のおかげで茶化されて、まぁいっか、とパスして観ていました。だから最初のほうは、この映画、全然のれなかった。ぐいぐい画面の中へ入り込んだのは、冒頭に書いた4人のシーンからでした。
何度書いてもいいけれど、あのシーン、そして春代なども含めた周囲の友人たちがすばらしかった。とりわけマヤを演じた山下リオは素晴らしかったし、伊藤沙莉演じる春代の屈託のない大阪弁も良かった。
田中美佐子や仲本工事の渋いわき役の演技もとてもよく効いているなぁと思いました。
ヒロインの朝子は唐田えりかという綺麗な女優さんで、硬い演技に見えたけれど、朝子の性格や置かれた状況、心理からは、あの硬さや表情の乏しさがフィットしたいたんだろうと思います。
実際に朝子のような女性がいて、あぁいう狂気のような突然の行動で裏切られたりしたら、いやな女だなぁ、と思うでしょうが(笑)、それでも、彼女は彼女なりに、とても自分の気持ちに正直で、それはもう頑固なほど正直で、ひたむきなのですね。その一途さというのか、必死で生きている、ひたむきに生きているという印象は、彼女だけでなく、亮平にも、マヤにも、串橋や春代にもあって、この映画には、背をかがめて下を向いて生きねばならないような卑小卑屈な人物は一人も登場しません。みな未熟で、過ちも犯し、傷つけたり傷ついたりもするけれど、せいいっぱいひたむきに生きている、それがビンビン伝わってくる。それがこの映画のほんとうに素敵なところです。
東北大震災のことが、この作品にも登場します。しかし、それは本筋に関係のないメッセージ的なものを挿入するような不潔な形ではなくて、物語が設定された時間の幅の中にあの震災の時期があるために自然に入ってきたのを避けずに入れたという感じであることに、好感をおぼえました。亮平と朝子がボランティアで水産物を販売しているような場面がありますが、いまの若者のごく自然なありようのひとつみたいな感じで挿入されています。しかし、それがラスト近くで麦に連れられて行く先が、原作のような鹿児島ではなくて、北海道で、しかも新幹線ではなく車で行って、東北で麦が海が見たくなって高速道路を下りて、朝子が眠っている間に海岸へ行き、そこで目覚めた朝子が亮平の所へ戻らなくては、と思い、最終的に麦と分かれる重要な場面につながります。また、麦と別れて一人で大阪へ戻ろうとする朝子が、汽車賃もないから、自分たちがボランティアで東北に通っていて知り合った平川(仲本工事)の所へ行って頭を下げてお金を借り、彼が駅まで見送りにきて、馬鹿だなぁ、ほんとに馬鹿だなぁ、それは許してもらえないよ、というようなことを言って朝子を送り出す。この場面もすばらしく素敵です。仲本工事がほんのちょい役だけど、すっごくいいのです。こういう地震、東北というひとつの契機の使い方はみごとなもので、原作に無かった要素が実にうまく新たな物語の中で生かされています。
劇場で劇が始まろうというときに発生する地震で、劇場を出て会社へ戻る亮平が見る「避難民」たちの群れの中に、実はわたしもパートナーと一緒にいたので、この人の波の光景は、あぁこうだったなぁ、と思いながら感慨を持って見ていました。ちょうどグラッときたとき、私たちは、たまたま東京へ行っていて、渋谷の東急文化村の近いのオープンカフェにいました。店員がすぐに店から飛び出してきて、フロアに立つ柱状のガス燈の火を手際よく消してまわり、ギャラリーの前にいた外国人が慌ててエスカレーターを駈け上がっていきました。私たちも急いで地上へ出て、文化村通りから坂を下り、広い通りに出ると、向かいの高層ビルの屋上に工事中らしく何台もの長いはしごをつけたクレーン車があって、その高く伸ばされた梯子がぐらぐら揺れていて、次にぐらぐらきたら、重量級の車ごとそれらが地上へ落ちてくるのではないかとコワイほどでした。人々の想いも同じだったようで、みな上を見ながら、反対側のこちらの歩道へ移ってきていました。交通機関はマヒして、バスもタクシーもいつになったら乗れるのかわからないので、スマホも持っていない私たちは途中人に尋ねながら、ホテルのある新橋まで無数の「避難民」の群れに交じってひたすら歩いて帰りました。あ、これは映画とは関係のない話でした(笑)。
蓮實重彦が対談で「詰問」しているような箇所は、映画の演出も撮影技術についても知らず、ストーリーを追うことだけで手一杯の素人が一度見る程度ではほとんど気にならないというか、気が付かないことばかりですが、読んでいったために、ついそこをわざわざ見てしまうようなところがあって(笑)、例えば防潮堤で朝子が移動するのをカメラが追っかけて、朝子がフレームを振り切って出たあと暗い海だけがとらえられるところがありますが、なるほどこれか、と(笑)。たしかに、この数秒の海の光景は具体的な朝子という人物をとらえていたのと同じ意味で具体的な海をとらえるという感じがしないで、心理的なものや状況を象徴するような何かだと感じさせるところがあります。「意味ありげな」映像に見えます。それは、機能的というか、どちらかというとそっけないくらい、必要最小限の、具体的なものだけを追っかけていますよ、というふうだった映像の中で、ちょっと何か意味ありげなプラスアルファなのかなと感じさせるような数秒の映像なので、対談でのああいうやりとりがなければ、わたしなどはふつうはなんでもなくパスして観てしまうようなところですが、やっぱりプロの観るところは違うんだな、と感じたところでした。
朝子が再会した麦と最後に分かれて大阪の亮平の家の前に戻ってきて待つ間に、子供が遊んでいたボールがころがってきて、それを拾って返す場面で、そのまま朝子のすぐ後ろに亮平が来ていて、なにしに帰ってきたんだ!みたいに拒絶のセリフを言う場面につづく場面や、最初の麦と朝子の出会いのあとの焼き肉屋の場面についても蓮實の「詰問」があったけれど、たぶんあれは実際に映画を撮る人や、そういう技術とそれで撮れるシーンがどう見える、ということをよく知った人でないと分からないような話で、素人観客として見ていて何も違和感なく過ぎていきました。ああいう技術的な問題と見え方というのがふつうの観客が映像を見る場合に、どれだけその感じ方に違いが出てくるのか、そのことに作品全体にとってどんな意味があるのか、ということについては、必ずしもプロの考え方に一人の観客として同意はできないし、プロの見方ができなければその映画をちゃんとうけとめたことにならないとも思いません。
そんな細々したことよりも、朝子と亮平が不信を孕みながらも結局は共生していくだろう結末にいたるメロドラマとしてのこの映画を観ていて、私なら・・・と空想して、朝子はあのまま麦と一緒に北海道へ行けばいいのに、そして亮平と共にしてきたような日々の暮らしをそのとおりに繰り返せばいいのに、と思いました。そしたらまた麦は何も言わずに出ていくかもしれませんが(笑)。また、亮平も一人でしばらく暮らして、やがて朝子と生き写しのそっくりさんと出会って、朝子とキスしたようにキスし、朝子とセックスしたようにセックスし、朝子のお好み焼きを食べたようにその子の焼くお好み焼きを食べ、朝子と洗ったように食後の食器を二人で洗うような毎日を送る、というのでどうだろう?と。
私はアニエス・ヴァルダという女性監督の「幸福」という1960年代半ばの映画が好きなので、この映画を観終わったあと、そんな空想をしました。「幸福」はとても物静かで平穏な雰囲気で淡々と子供もある幸せそうな夫婦を描いた作品ですが、ホラーという意味ではなく、とてもコワイ映画で、もし、これが C'est la vie. と言ってるんだと思えば、人生についてちょっと絶望的な、これ以上冷めたクールな見方はないよな、とおもえるような映画でしたが、それに比べれば、「寝ても覚めても」は、二人の今後にいろいろ暗雲だの波乱だの不信だのいっぱいありそうですが、まだ希望の光もそこにはある、という作品だな、と思います。でも、現実の人生は、今の私には幾分かヴァルダの描いた「幸福」という皮肉なタイトルの映画に近いように思えます。
この映画の映像にはいくつも、とても素敵な場面がありました。蓮實さんは二人がひた走りに走るあのロングショットをとりあげていましたが、私は朝子を連れて麦が車で東京を出ていく夜の高速道路、ヘッドライトをつけたその車を追っていくロングショットの映像がとても印象に残りました。また、麦と別れて一人で大阪の亮平の所へ戻っていく朝子が、平川に汽車に乗るお金を借りて新幹線か何かで帰ってくる、その座席に座った朝子の表情を車窓から入ってくる変化する光の中でとらえる映像も、とても魅力でした。でも何よりも一人一人の登場人物の表情をとらえるカメラがすばらしかった気がします。
思い出すとまだまだいっぱい言い忘れたことがありそうですが、とりあえずここらでおしまいにしましょう。実は昨日、見て帰って少しハイになっているままに感想を書いて、すぐに投稿した(つもりになった)のです。それでほかのことをして忘れてしまって、パソコンも消して、一晩明けて、きょうパソコンをつけてブログを開いてみたら、投稿したはずの記事が出ていない!エッ?と思って記事一覧を見たけれどないっ!私のブログは下書きなしで、読書の感想でも映画やビデオの感想でも、読み終わり、見終わったらその日のうちに、いきなりブログの「記事を書く」のページを開いて書きなぐっていくので、投稿し損ねると、もう下書きも何も残っていなくて、昨日何を書いたかも(これは記憶力が恐ろしく悪いので)ほとんどおぼえていない・・・あれだけ長々と書いた記事はどうなっちゃんだ!と思うけれど致し方なし。きょうはきょうで新たに書きました。だから忘れていることがいっぱいありそうですが、まぁ忘れたことは自分にとって大したことではなかったんだ、と思うようにしているので、もう棄てておくことにします。このブログは日記がわりなので、その場かぎりの、そのときの想いが記されたら、それでいい、というのが書いている本人としての想いなので、これに懲りて下書きをしようなんて思わずに、今後も生きている限り、その場かぎりのこんな雑文を書いていこうと思っています。
Blog 2018-9-2
寝ても覚めても(濱口竜介監督) 2018 再見
京都シネマで封切のとき見て感想も書いたのですが、出町座でもう一度きょう見てきました。2度目に見ると、最初のときちょっと突出しているような印象を受けた、女性二人がシェアしている部屋へ亮平が同僚クッシーを連れていった口論の場面が、ごくすんなり全体の中で位置しているように感じられて、今回はどこをみても完璧なすごい作品だな、とあらためて印象付けられました。
最初の朝子が展覧会を訪れる場面、麦と出会うはずの歩道橋で子供が爆竹を鳴らしているのがちらっと出てくるけれども何でもない空間を通り過ぎて館内へ入っていくシーンから、こちらは先を知っているから、おうおう、と思わせる鮮やかな入り方で、展覧会場を出て同じ場所を逆に麦のあとを歩いて歩道橋へ入るところで左右に分かれるというところで子供らの爆竹の音で振り返る、そこまでの映像の捉え方を見るだけでもう、これはすごい映画だな、と今回はゾクゾクさせられました。
それはもう最後までずっと続いたと言ってもいいでしょう。カットされて場面転換があると、次の映像の転換とつなぎかたが絶妙で、カットが入るたびにゾクゾクするような快感があります。これはたぶん映画ならではの快感でしょう。私は映画マニアではないので、あんまりそういうことを意識したこともなければ技術的なことはさっぱり分からないけれども、素人でもあの転換で、次の場面がこうか、というその鮮やかさは強く印象づけられます。
今回は作中で最後にとりわけ重要な役割を演じるネコにも注目しました(笑)。みごとな「演技」です(笑)。
とりわけ、床に横たわった亮平に重ねるように朝子が身を横たえて二人が重なった向こうでこっち向いて寝そべっているあの猫!車の旅を強いられてやっと籠から出してもらって、のっそり出てくるあの猫!それからいいところでさしはさまれる映像にとらえられた壁の飾りみたいなのに片手でちょっかいだしているあの猫!そしてもちろん最後に、捨てたぞ!と亮平が言って、雨の草っぱらで朝子がネコを必死で探し、「無駄なことをするな、帰れ!」と亮平が怒鳴って、追ってくる朝子を拒んで走り逃げ帰った亮平が、いったんぴしゃりと閉ざしたドアがそっと開いて亮平の手で差し出されるあの猫!
こう見るたびに快感がわいてくるような映画というのは困ったもので、もう残された時間が少ないから見てない映画をあれもこれも片っ端からみてやれ、と思っているのに、2度観るとまた3度目も見たくなりそう。若い人のように10回も20回も見る体力もないし(笑)、困る。
Blog 2018-10-30