「白夜」(ロベール・ブレッソン監督) 1971
この前「ラルジャン」を見て、好きにはならなかったけれども、なるほど評判どおり玄人受けするような変わった映画の撮り方をする人だなと思いつつ、ド素人にもちょっと気になる映画を撮るな、という想いが残ったので、ちょっと懐が心細かったけれど、ブルーレイ版の「白夜」を手に入れて観ました。
もとより「白夜」と言えばドストエフスキーで、今回映画を観た後であらためて原作を読んでみましたが、19世紀のペテルブルクを20世紀のパリに置き換えてはいるけれど、ストーリー仕立てはそのままで、原作どおり、1年前に再会を約して別れた男が町へ帰ってきているにもかかわらず約束の場所に現れないので失意のどん底にある女性に偶然遭遇した「空想家」で「感傷的」な心優しき青年が女性をなだめ励まし、語り手となり聞き手となって4夜にわたって夜の街をさまよいながら、次第に心惹かれていく展開は、原作そのままです。
ただし、青年は原作では一体何をして生計を立てているのかさっぱりわからない(どこかに書いてあったかも思い出せません)、ペテルブルクの裏町でちょうど「地下生活者の手記」の男のように他人を遠ざけて、ひたすら空想に身も心も浸して生きているような、だけどおっそろしく饒舌な、いかにもドストエフスキー的な饒舌を体現したような青年ですが、ブレッソンの青年は、空想家には違いないけれど、パリによく見るような、屋根裏部屋みたいなところにアトリエ兼住まいをもつ画家(の卵)で、ドスト氏の青年ほどに饒舌というわけではありません。
ペテルブルクの青年は作家が「白夜」というこの作品のタイトルに「感傷的ロマン~空想家の追憶より~」というサブタイトルを付しているように、物語の語りてであり、相手の女性に対して自分のことも三人称で語って聞かせるように、この作品全体を彼の絢爛たる空想からほとばしる饒舌で満たしてしまうようなところがあって、そのお喋り自体が作家が与えたサブタイトルの通り、他愛もない空想と感傷から生み出されたベタな泥臭いものだけれども、それはそれで実に絢爛たる豊かさを持っていて、この都市を徘徊し、裏町で誰にも接触せずに生きている孤独な魂のみすぼらしさ、貧しさ、卑小さとちょうど逆比例するように生き生きとした大きな世界を描き出していて、それがこの作品の豊かさになってもいるし、最後のドンデン返しで、それが効いて、この空想家の創り出した豊かな空想の世界が一挙にはじけ、相対化されて、滑稽なものに見えてくる、それがドスト氏自身のサブタイトルに表現されています。
でもパリの画家志望青年たるジャックは、たしかに空想家ではあるけれど、ドスト氏の青年ほどバタ臭くなく、あれほど純粋無垢に純真な空想家でもなく、彼が空想家だというのは、たとえば街の店を覗いていて見かけたちょっと目綺麗で異性としての魅力に富んだ女性に目が留まると、もう眼が離せなくなってついストーカーよろしく後をつけてしまい、その女をつけている最中にまた別のちょっといかした女性とすれ違うと、そっちに気が行って後をつけてしまう・・そして例えばそういう女性たちが自分に恋をし、自分がそれに応えてやって王侯貴族の宮殿のようなところで、心ゆくまで愛を交わすような、そんな「空想」なわけで、野暮で純情な19世紀のペテルブルク青年とはずいぶん異なる、オシャレで女たらしな20世紀のパリの芸術青年で、そのへんは原作の読み替えとして巧みだし、比較しながら観ていると面白いでしょう。
手をつなぎ公園を歩く
期待と絶望を感じて
奇怪な館の中でー
無口で退屈な気難しい夫と
年の半分を過ごすあの女(ひと)
我らの愛は清純にして無垢
(ジャックの空想の一節)
そういう二人の青年のキャラの違いというのは、ラストのドンデン返しの印象もかなり変えているように思います。ドスト氏の話は、田舎者の空想がはじける滑稽味の印象が強いけれど、ブレッソンの映像では、それに作り手のちょっと皮肉っぽいまなざしが印象づけられる、といった具合いです。
もうひとつ重要で、面白い違いは、ぺテルブルクの青年の空想はただ語り手の「わたし」が時に三人称を借りて語る、ごく普通の表現方法がとられていますが、モダンなパリのジャックは、女にストーカー的行為を働いたあと空しく孤独のアトリエ兼住居のベッドに帰り着くと、傍らに常備しているテープレコーダーのマイクを手に取って、自らの空想を吹き込むのです。これはなかなか面白い着想であり、うまい置き換えです。原作を映像化する上で、青年の頭の中で展開される妄想や語りはすべて、声になって観客に聴こえてきます。
それにこういうテレコを使うことによって、青年の世の女性一般へのかかわり方が妄想を通じた間接的なものであること、彼がパリの浮かれ男一般のように生身の異性に気軽に声をかけて、あっという間に接触するというような、直接の接触をすることができず、いつも空想を介して「接触」するのだということを際立たせてくれます。
女性のほうの境遇も原作のほうは、目の見えない祖母と暮らす17歳の小娘で、2年もの間、祖母の着衣に自分の着物を縫い付けられて行動を拘束されているという、ちょっとありえないような設定ですが、パリの彼女は、まだ元気なオバタリアン風の母親に心理的に拘束されていて自由に羽ばたくことを夢見る、もう大人になりかけ、性的にも成熟した若い女性で、去っていこうとする間借り人の部屋を訪れて自分も連れて行ってくれ、と頼むところは原作と映画に共通していますが、全裸で男の腕に抱かれて性的なものを暗示するような表現は映画だけです。
1年間彼女を待たせることになるその間借り人の男のキャラにしても、原作で彼が彼女の気をひこうとして(?)貸す本は、ウォルター・スコット(アイヴァンホー)やプーシキンですが、ブレッソンの間借り人のほうは、アラゴンが匿名で書いたポルノ小説「イレーヌ」(原題は「イレーヌの女性器」)で、ご丁寧にもその内容を垣間見せるように文章が読める見開きページが、わざわざ映し出されるのです。
その間借り人が彼女と祖母(原作)または母親(映画)を誘ってチケットを贈るのは、原作ではオペラ(セヴィリアの理髪師)で、彼女への好意を素直に表しているだけにみえますが、映画のほうはドンパチ銃を撃ち合うB級ギャング映画で、彼女は間借り人の誘いをいったん断ったから、こんな嫌がらせをしたのだ、と解釈して「罠だ」というようなこと言って、途中で退席してしまいます。
ジャックもマルト(女性の名)もともに或る意味のナルチストですが、マルトは自分の裸身を鏡に映してしげしげと眺める印象的なシーンに示されているように、内官として直接感じる自分の身体像と鏡に映る対象化された自分の身体像を重ね合わせたところで、そういう自己像を愛するようなナルチシズムだけれど、ジャックのナルチシズムはこれとは違って、空想の形で表現された自己像への愛着なので、この二人が出会って一瞬ぴったり符合するかのように互いに錯覚するけれども、女性は別の男性に惹かれて彼を置き去りにすることは原理的に明らか(笑)。
マルトはかつての恋人に再会すると彼に感謝をささげて恋人のもとへ駆け戻っていきますが、彼女が去っても彼の空想は止みません。
彼女は僕のそばへ駆け寄る
月明かりの素晴らしい夜
一生に一度の夜 感謝してすべてを忘れる
別離も 悲しみも 涙も・・・
ジャック 私の過ちを許して
こんな風に原作との違いを細かく見ていくと面白い点がたくさんあります。しかし映像は映像としてとても美しい、まさに映像としてしか表現できないだろう夜のパリの美しい光景がこの映画ではふんだんに取り込まれています。
夜の映像をこれだけ美しく撮ることにはきっと技術的な困難もあるのでしょうが、実に美しい。とりわけセーヌ川を行くバトー・ムーシュの観覧船、暗い川面をたくさんの乗客を乗せて満艦飾の灯りをともして滑っていく船、船上でギターを弾き、リコーダーを吹き、歌う男たち。最初にジャックがマルトに出会い、また夜ごと彼女を待っていると、向こうから彼女が近づいてくるポンヌフの光景・・・
夜の光景だけでなく、この映画、色彩が綺麗。一番印象的だったのは、ラストに近いシーンで、彼が彼女に愛を打ち明け、店で赤いマフラーを買って彼女にプレゼントすると、彼女がすぐそれを首に巻いて街を歩くあのシーン。長く垂れた赤いマフラーの色が鮮烈で、この映画の中で一番印象に残るすばらしい色彩でした。そして、彼女が間借り人の部屋に行こうとして躊躇して戻り、また彼の部屋へいく、そして脱ぎ捨てる真っ白なネグリジェのあざやかな白!(笑)。はたまた、画家(の卵?)たるジャックがアトリエでいつも絵筆をとって大きなキャンバスに塗る赤ないし緑の鮮やかな色合い。
それからもうひとつ気づいたことがあります。これはもう一回見直さないと本当に意味のあることかどうかまだよくわからないけれど、つまりはじめと終わりだけの符合するものを感じたのですが、サンドイッチの中身にもそれに符合するような場面がもっとたくさんあったかもしれないな、とふと思ったことがあります。
それは、最初、ポンヌフを通っていたジャックが、橋の欄干にもたれて暗い表情で佇むマルトに気づくのですが、そのまま通りすぎるのです。けれども、彼女の泣き声が耳にはいって、彼は振り向き、彼女のところへ戻って、そこから4夜の物語が始まるわけです。そしてまた、ラストの決定的な例の間借り人との再会のシーンも、ジャックとマルトが並んで歩いていて、ジャックは素敵な月明かりのことなど言ってマルトにも見てご覧と注意を促すのですが、マルトの目は行く先のほうに釘付けになったように動かない。このシーンほど直接に対象に向かうマルトの心のありようと、空想の世界のごとき「美しい月明かり」を媒介にして異性に接触するほかはないジャックの心のありようとの決定的な違いが目に見えるように示されたシーンはないと思いますが、このとマルトは知らん顔してジャックと並んでそのまま歩いていきます。そして二人は背後に「マルト?」という男の声を聴き、振り返ります。
この振り向かせる「声」と「ふりむく」ことのセットが、最初と最後の決定的なシーンに現れることは、いくらなんでも偶然ではないでしょう。まるで、ひとはこのようにしてしか、ひとにたどりつくことはできない、とでもいうようではありませんか。
最後に、この映画のタイトルが「白夜」と邦訳されているのは、よく知られた原作のタイトルをそのまま借用したのかもしれませんが(ロシア語はわからないけど、きっと「白夜」なのでしょう。ドストエフスキーの原作の第何夜かに、文字通り今夜は白夜で、ということが明記されていますから、時の背景として白夜のできごとであることは間違いないでしょうし、ペテルブルクなら何の不思議もないでしょう)、パリで白夜?とちょっと違和感がありました。
調べてみるとパリでも10月の第一土曜日だとか、たしかに「白夜」の祭だとかで、なくはないようですが、映画の中でそういうことを明確に示すような場面はなかったように思います。逆に煌々とした月明かりが最後の夜にあったりしますよね。映画のほうの原題は「空想家の四夜」で、これなら内容どおりですが・・・
でも、この映画は私には「ラルジャン」より面白く、また美しいパリの夜景が楽しめて、いい時間がもてたな、と余韻にひたることができました。
Blog 2018-10-14