村上龍「歌うクジラ」
こんなに読むのに時間がかかった小説は近頃珍しい。
上巻375ページ、下巻357ページ、たしかに長いけれど、読むのは遅いほうではないから、長いのでも、たいていは車中(通勤で1日4時間半ある)で2~3日あれば読める。
でもこの小説はほとんど3週間近くカバンの中で自宅と職場の間を何度も往復した。
小説だから書いてある日本語が分からないわけではない。別に論文のように難しい言葉で書いてあるわけでもない。
けれども読み進めるのにものすごい抵抗感があって、何度か中断し、投げ出そうとした。それでも投げ出さなかったのは、やっぱり「限りなく透明に近いブルー」や「コインロッカー・ベイビーズ」の村上龍の作品だったからだろう。
作品が面白くない、というわけではないし、テンションの低い退屈で冗長な作品というのでもない。けれども、言葉が、いちいち読み手の神経を逆撫でするような棘やら毒素やらを含んでいて、快適に読み進めることに抗うようなところがある。
作者は読者にこの作品を快適なテンポで読み進めさせたくないんじゃないかと疑いたくなるような言語で書かれている。それは変形され、助詞なんかが滅茶苦茶になった「日本語」で会話するような部分があるというようなことではない。
「半島を出よ」も一種のシミュレーション小説だったけれど、あれは「戦後の平和ボケした日本人よ、国際社会の現実はこうだぞ!」みたいな保守派が喜びそうな、ありえるもう一つの現実をシミュレートしてみせたような作品だった。
アメリカにオカマを***たような日本人を描いた(かのようにも読める)「限りなく透明に近いブルー」に生理的嫌悪感をぶつけるような全否定をした江藤淳と、「半島を出よ」の村上龍はぐるっと回り舞台が回って重なってしまったかのような錯覚を覚えて、こんな作品、書いちゃってどうすんだろう?と思ったけれど・・・
今回の作品はSF的日本の未来はこうなるシミュレーションといったところで、強引に架空の世界をつくりあげている。その世界の特徴はSFでおなじみのサイバーパンク的な未来図で、かつてのSFがエレクトロニクス技術を単純に延長したドライで能天気な未来図だったのに対して、いまふうらしくバイオテクノロジーの延長上に想像力を馳せた、ウェットで生臭い血や体液の臭いのするような世界だ。
それもまともな赤い血というより(それもいやというほど登場するけれど)切ったら青い血がどろりと出てきそうな、太陽のもとでの色という色を反転したような世界だ。
ひとことでいうと、気分の悪い、吐き気を催すような世界で、この物質的なベースの上に、「棲み分け」の完了した倒錯的な「理想社会」の、これまた吐き気を催すような様相が主人公の目を通して描かれる。それは百何十歳といった「老人」の幼児姦のような性的倒錯の日常化したような世界でもある。
ドラマはこの異様な「棲み分け」の世界の境界を越境して主人公が移動することで生じる。彼がそこで見るものが、読み手の神経を逆撫でし、ささくれだたせる。それはたぶん主人公の覚える戦慄に見合っているのだろう。
ここで作家が試みているのは、「半島を出よ」のときのように、私たちが何の疑いもなく浸りきっている日常性に、北朝鮮の特殊工作部隊のような非日常性を実体化した想像力の弾丸を撃ち込むことで、日常性の虚構性なり無根拠さを暴くといったところから、その非日常性のほうが日常性に侵食して食い尽くしてしまい、作品の描く日常性そのものが全部非日常性に転化してしまった世界を描き出すことのようにみえる。
主人公が見るもの、出会うもの、その光景も、小道具も、すべていま私たちの身の回りに存在する日常の中のあれこれとは違っていて、むしろそれらはこの物語の要素に置き換えられることを禁じられているようだ。
だから、語り手は、主人公が見るもの、出会うもの、その光景も、小道具も、すべて新たに作り出さねばならないし、それにあらたに命名しなければならず、さらにそれが何なのかは読み手には分からないから、いちいち説明しなければならない。
この「説明しなければならない」ことが、この小説を、とても読みにくいものにしている。何か新しい要素が登場すると、それがドラマの一要素として動き出し、ある効果を及ぼす前に、そrがいかなるものであるかを、いまの読み手である私たちに語り手は説明しなければならない。
これはやむをえないこととはいえ、読み手にとっても、カッタルイことで、作品のテンションを下げずにはおかない。ドラマが展開していく快適なテンポはいたるところでこの種の「説明」によって妨げられる。
SFではよくあることで、タイムマシーンがどういうものであるかを足踏みして説明しなくては、登場人物たちはタイムマシーンに乗ってその先へ進むことができない。けれど、それは小説の読者からみれば、カッタルイだけでなく、なんだか子供っぽい、こっけいなものにさえ見えることがある。
へんてこな日本語で喋る部分なども、語り手がそれを説明していても、なんだか滑稽に思えたりする。
小説として、別に読みやすくないから、というので評価しないというわけではないけれども、この抵抗感のうちには、作者が意図的に読み手の日常を撃つという肯定的な意味合いばかりではなく、こうした作品の成り立ちそのものの矛盾という意味合いが含まれていて、決して作品として成功しているとは思わない。
ただ、これだけの紙数を費やして、私たちの身近な世界から要素を置換することをみずからに禁じながら、そういう現実世界を反転させたような、まるで異質な世界、一つ一つのこまごまとした要素からして一から想像力で作り出していかなくてはならない、反転した世界を強引にでっち上げるという力技を見せてもらった、という意味では、感心もさせられるし、こういう説明につぐ説明のような作品をよくまぁ作者自身が退屈せずに書き続けられたものだ、と感心させられる。
ただ、血みどろの惨劇風の光景が展開するところやラストのヨシマツとの対決の場面などになると、さすがに登場人物たちが生きて血のかよう存在のように「説明」を超えていくので、通常の小説としてそこそこの読み応えを感じながら読んでいくことができた。
でもしんどかった!(笑)
blog2010年11月20日