河(蔡明亮 = ツァイ・ミンリャン監督) 1997
出町座の台湾シリーズの一環で見ました。
この種の内容の映画は、実は苦手です(笑)。
最初、台北の新光三越百貨店の前の上り下りに分かれた階段の片方を主人公の男シャオカンが上がって行き、他方を旧知の女友達が白いスーツ(だったか)姿で降りていく、すれ違ったと思ったら女が振り返り、男の名を呼び、男が振り返って・・・という出会いの場面があり、この女が映画の撮影現場で働いていて、次のシーンはそのロケ現場。
おばさん監督が指示して、橋のたもとの川面にマネキンをうつぶせに浮かべて、死体に見せようとしているけれど、足が浮いてしまって全然だめ。脚の中に泥を詰めて重くして、なんとかもう一度やってみるけれど、どうにも死体には見えない。昼食休憩にしようと、ということで、今度は石の丸い台座みたいなところに腰かけて弁当を食べるおばさん監督。
その傍らに、さきほど旧知の女と出会ってここへついてきたシャオカンが所在なげに坐っていて、おばさん監督に声をかけられ、あんた死体をやってくんない?というわけです。「水が汚いですよ」とシャオカンは弱々しく抵抗するけれども、次のシーンでは死体になって川に浮かびます(笑)。
そのあとは友達のその女につれられてホテルでシャワーを浴び、なぜか彼女とセックスする。そこまでは順調なのですが(笑)・・・そこから今度は彼の首が左側へクキっと曲がってしまって、どうにももとに戻らない。一種の奇病にとりつかれてしまいます。
このあたりから、もうそれまでのような、いささかでも前へストレートに進んでいくような物語の流れはありません。いちおう彼のパパが彼の奇病を直してやろうとして一所懸命医者へ連れて行ったり、霊媒師?みたいなところへ泊りがけで連れていったりするのですが、先走りして言うなら、一向に効能はありません。
むしろ焦点はシャオカンの家族、彼と父親と母親の一人一人のありようとその関係に移ってしまいます。
父親はごっつい顔したおっさんですが、どうもゲイらしくて、ゲイサウナみたいな専門機関(笑)に出入りしているみたいだし、母親は母親で裏ビデオを売っているらしい愛人がいたりします。彼らが見ているのは日本のAVですね(笑)。
そういえばギデンズ・コーの「あの頃、君を追いかけた」でも、いたずら好きの高校生らが熱心に見ていたのが日本のAVで、主人公のコートンだったかが、「飯島愛も年取ったなぁ。おっぱいの先が黒くなってる・・」なんてセリフを言う(笑)。いや閑話休題。
とにかくそんなふうで(どんなふうや?・・笑)、家族は互いにそれなりに思いやり、親密そうにみえて、実は一人の人間としては、それぞれの心の闇と孤独をかかえて生きている感じです。それが一番シャープな形で映像化されているのが、ゲイ・サウナの場面です。
寡聞にしてこういうゲイ・サウナなんてものを見たことも聴いたこともなかったオクテの私には大いに勉強になりましたが(笑)、不気味で不思議な世界ですね。
最初たしかにサウナへこれから入るのか、既に入ったあとなのか、というようにバスタウルを腰に巻いて上半身裸の男たちがフラフラと狭い廊下を歩きながら、両側のひとつひとつの部屋の戸をちょっとだけ開けて中を覗き見るようにしては、また歩いて行く。
いったい何をしてるんだろう?中に何があるんやろ?と興味津々で見ていましたが(笑)どうやら先に誰か男が入っていて、あとで来る客は好みをみつけるためにああして次々に覗いていくんですね。「飾り窓の女」の室内版、男性版というわけでしょう。
で、シャオカンは一人ふらふら歩いてきて、一番奥のほうの小部屋に入り、そこで顔が蔭になって観客にも見えない男に後ろから抱かれるわけです。
まぁ男同士のそういうシーンをあまり見たいとは思いませんし、別に人様の好みやなさることを差別意識を持ってとやかく言おうなんて決して思いませんけれど、なにせこの手のシーン、もっと広げれば、殺人、流血、同性愛、暴力、自殺、いじめ・・・とそういうシーンはいまどきの映画にこれでもか、これでもか、というほど出てきますから、たしかに現代の社会の中にそういうことが事実として存在し、それが社会のひずみの一つの集約点であったり、象徴的な現象であることは理解できなくはないので、映画でもそういう場面が繰り返し登場するのはやむを得ない面があるとは思いますが、正直のところいい加減食傷していて、もうそんな要素が一切登場しないような映画を作ろう、と潔く考えてくれるような監督はいないものだろうか、そんなものがなければ現代を本当に描けないんだろうか、たしかに刺激が強くて印象的な画面が作れるのかもしれないけれど、逆にそういうものに寄っかかった映画なんて、ほんとうに創造的な作品をつくる努力をどこかでさぼって、既存の小道具に依拠して本質的なところで欠如しているインパクトを血の色やセックスのどぎつさで補おうとしているだけなんじゃないのかしら、と考えたくもなるのです。
だから、あのシーンに来た時も、ヤレヤレ、またこれかよ・・・と正直のところ思わなくはなかったのです。でもまあ目をつぶって(比喩表現)目を見開いて(現実描写)見てきました。
その結果、少し違った感触を持ったことは確かです。
うまく説明はできませんが、私は実は韓国のキム・ギドクの作品の中で一番好きなのが「悪い男」です。あれはすさまじい暴力とセックスと流血の映画ですが(笑)、それでも最後はあの主人公の「悪い男」がイエス・キリストの生まれ変わりのように見えてくるから不思議です。
血や暴力やセックスも、もうたくさん、と思うけれど、徹底的にあそこまでやって、そういういやだなぁ、またかよ、というところをものすごい映像のエネルギーで突き抜けてしまうと、不思議に聖的なところまで行ってしまうような気がします。
この作品の・・・実はシャオカンが抱かれた相手は実の父親だったわけですが・・・あのシーンはまさにそういうシーンでした。
そして、あのシーンがこの映画のハイライトで、すべてが凝縮されたようなものすごいエネルギーを持った映像でした。父親に抱かれたシャオカンの姿は十字架からちょうどおろされるときのキリストの姿態とそっくりに見えました。
Blog 2019-2-11