倫敦から来た男 (タル・ベーラ監督、2009年)
昔みたことのあるドイツ表現主義の映画のような、モノクロの光と影の強いコントラストを巧みに使ったシャープな映像を連想させる作品でした。しかし、冒頭の波止場のシーンで、監視塔らしい高みの格子窓の暗い内側を随時移動しながら、斜め下方に見える船の甲板の様子と桟橋と、船の出口から向かいにとまっている列車に乗り込んでいく人々の表情も定かではない遠目に見える姿に注がれるひとつの視線にとらえられる、繰り返しの多い、きわめて単調な、そして見ずらい光景をえんえんと見せられると、いいかげん途中で見るのをやめようかと思っていました。
その超スローテンポは最後まで変わりません。それはもういまの日本映画などでは考えられないようなスローテンポで、いったいこういう時間感覚というのは何なんだろう、作品の世界にとって何か内在的な意味がほんとうにあるんだろうか、と、そこで発生するドラマよりも、そちらのほうが気になってしまいます。
昔、ある学生映画のコンペティションで受賞作品もいくつか決定したあと、プロの審査員が講評の中で或る作品について、それなりの水準に達した堂々たる作品だということは認めながら、簡単に言えば、ドラマの立ち上がりが遅くて、冒頭からしばらく悠然としたペースで何が起きるかわからないまま進行していく展開に苛立ったらしく、「観客が最後まで作品につきあってくれるとは限らないのだから」というような言葉で、観客へのサービス精神みたいなことを、少々上から目線で「アドバイス」していたのを、はたで聴いている観客聴衆の一人としては違和感を覚えつつ耳にしたことを思い出します。
あの映画評論家は「倫敦から来た男」のような、あのときの作品の10倍くらいスローペースの作品に何というだろう?と。でもあぁいう評論家は、タル・ベーラという名前を聞いたら恐れ入って、いやあれは作品として必然性があって・・・などと絶賛するのかもしれませんね(笑)。
少なくとも私にはそういう「必然性」は感じられませんでした。少なくともいまのワンショットにかける時間を半分にしても良い(笑)と思いました。ストーリーを追っかけるだけのためというのではなく、この映画が伝えたいことも、それで十分に伝えられるでしょう。映画評論でメシを食っている人はこういうことはよう言わないでしょう。いやそれはこの監督の偉大さが分からないからだ、作品にとっての必然性を理解しないからだ、とかなんとか無理にでも屁理屈をつけようとするでしょう。そうでないと映画評論では食えないから(笑)
私にはそういう「必然性」(=必要)がないので(笑)、遠慮なく、タル・ベーラさん、これはひどく冗長で、新人映画コンペに出したらあぁいう評論家に確実に落とされるよ、と「アドバイス」します(笑)。
ただ、この作品がそれでつまらないか、というと、必ずしもそうではありません。表現のスタイルが映画史に名高い誰それに似ているとか、どういう流れを継承しているとか、どれほどスタイリッシュであるかとか、そんな自称シネフィルのおたく的評論家好みの分析などはそういう商売の人に任せておけばいいけれど、偶然に或る犯罪の現場を目撃することになった男が、そこで転がり込む「ラッキー」?な偶然の機会を自分に引き寄せようとしたときに、自分も家族などの周囲との関係も一変してしまい、一挙に破滅に向かう(かに見える)、そんなドラマが、この種の素材を扱う犯罪劇と同様のサスペンスを感じさせるだけでなく、主人公の男の心理の劇であると同時に、彼をとりまく家族などとの関係の変容のドラマとして、立体的な描かれ方をして、しかもなかなか皮肉な結末が用意されているので、ただストーリーを追ってサスペンスを楽しむ娯楽作品としてよりも人生の皮肉を感じさせる奥行きを味わうことができる作品になっています。
そういう奥行きを作り出している一つの要素が、モノクロのコントラストの強い光と影の映像と、急がないこの映画の超スローテンポにあることは分からなくはないけれども、後者に関しては行き過ぎ(笑)。無理にそれを理屈づければ職業評論家のペダンチズムか、監督ファンの贔屓の引き倒しに陥ること請け合いです(笑)。
もうひとつは、登場人物の貌のクローズアップが多様されていて、しかもあの超スローペースで、これってビデオ機器の故障じゃないか、と思えるほど、静止画のように一人の人物の顔を、ほとんどまばたきもしない動かないまま撮り続けているようなシーンが多いのが特徴で、これはその時間的な長さは別として、この作品の、心理劇的な要素や関係の変容を描く意図に即して、必然性が感じられますし、それだけの効果を観る者に与えているように思います。
最近テレビでもスマホでも高精細度の映像で映した映像とか、いろいろ騒がれていますが、別にそんなのでなく普通のフィルムでアップの映像を撮っただけだと思うけれど、モノクロのそのクローズアップされた登場人物の表情は、まるで高精細度カメラで撮ったみたいに異様にその人物の表情を肉体としての顔面の諸特徴の細部までを見せて、まるで私たちが初めて月の裏側の全体像をひとつひとつの火口や谷間の翳、その凹凸にいたるまでの精細な表情として見せられたときのように、或る意味で新鮮な映像として見せられるのです。
それは、その登場人物の心理をただ表現するような表情ではない。たとえば、刑事が対話の相手を追い詰めているときに、相手を疑ってかかる心理とか、かまをかけて相手がどう反応するかを凝視する表情とか、してやったり、という心理を表す表情とか、そういう明確に心理と一義的なかかわりをもつようなものとして、表情がとらえられてはいません。
むしろ表情は、たしかに生きた人間のもので、心のありようを表現するものではあるけれども、あたかもそこにある物体のように、それ自体としての存在感をもってとらえられています。それは、この映画のカメラが、例えば室内の壁や食堂の皿や玉突きの玉みたいなものを、おどろくほど長い時間、じっととらえていて、その光と影の無限のグラデーションをはらみ、その素材の質の細部の違いまでとらえるような、複雑多様で豊かなオブジェのようなものとしてえんえんと映しだしているのと、まったく対等な撮り方に思えます。
それはモノをとらえるときは、なんでこんなモノをこうもえんえんと撮っているか、まるでその意味が分からないけれど、登場人物の、たとえば刑事の表情や、主人公の奥さんの表情、あるいは殺されたブラウンの夫人を同じように延々とアップでとらえているときには、たしかにその必然性が感じられるのです。そうすると、モノの捉え方もまた、そこから逆照射されるように、それなりの意味を帯びてくるようにも思えてしまいます。実際、もしモノだけはカメラがサッと通り過ぎていったとすれば、この映画は全体がちぐはぐな映画になったことでしょうから。
だからトータルにみれば、このときどきうんざりするような超スローモーなテンポも、多様されるクローズアップによる月の裏面の細かな凹凸まで全部とらえるような過剰な即物的視覚情報の提示というのも、わたしのような普通の観客にとっては大いなる欠点であると同時に、この作品世界を成り立たせ、特徴づける性質なのだろうと思わざるを得ません。
とりわけその特徴が最大限にあらわれるラストのブラウン夫人の表情のクローズアップは、本当にビデオシステムの故障かと思うほどの長まわしですが、これが作品全体のしめくくりとして非常に尾をひく余韻を与えてくれます。ここまでくると、例の映像評論家氏と同様最初のシーンに苛立っていた気みぢかな観客は私の中でなりをひそめて、いつのまにか結構この作品を楽しんで、最後のブラウン夫人の表情を胸に焼きつけ、余韻にひたっている自分に気づかされます。
Blog 2018-6-23