「ナラタージュ」(行定勲監督 2017)
原作を読んで違和感があって、はっきり言葉にするのが難しいけれど、なにかちょっと嫌な読後感を覚えたので期待はしていませんでしたが、映画もやはり同じでした。まぁそれだけ原作に忠実な映画化だったということかもしれません
たしか同じ監督の「世界の中心で愛を叫ぶ」がメガヒットしたときに見て、たまたま学生さんと気軽な雑談をしていて、うっかりあのメロドラマを馬鹿にしたようなことを口走って反発されて、でもねぇ・・とつぶやいて火に油を注ぐ結果になった経験があるので、若い女性に人気があるらしい原作やこの映画の悪口はあまり言わないほうが無難だとは思いますが(笑)・・・まぁどうせ爺には女の子の気持ちなんてわかるはずないよね、と言われることは覚悟してひとこと。
やっぱり映画でも、原作と同様に、その目を通してこの作品の世界が描かれている女子高OGの目と映画の作り手の目が重なってしまっていて、女子高OGの目が甘ったるい分だけ作品の世界も甘ったるくなっていて、奥行のないメロドラマにしかなっていない、と言えば当らずといえども遠からずといったところでしょう。
ただ、面白いことにこの女子高OGを演じた有村架純と言う人気があるらしい女優さんが、青春ものの女子高生イメージではなくて、そういう青春ものの女性高生の中で最初から浮いていて、ほかの子が幼くみえて仕方ないような、大人びたクールな資質をもつ女性として演じていて、そういう意味ではひどく存在感があるので、原作を読んだときには、精神的には未熟なのに多少背伸びしたがって大人びた突っ張り方をしたがるような女子高生(OG)が盲目の恋ゆえに、精神的に弱いけれどもその弱さを武器にずるずると関係をつづけようとする大人の狡猾さもあるはずの三十男に振り回される話という印象だったのが、この映画ではそんなことはこの女子高OGのほうは百も承知で付き合ってやっているだけで、ときにいら立つことはあっても、概ね弱い彼を叱咤激励し、彼が求めるならこちらはいつでもオトナの関係を続けるのは別に構わないよ、という立場で、振り回されている、という印象はほとんどありませんでした。
これはたぶん監督らの意図とは違うんじゃないか(笑)。女優さんのクールな存在感が自然に男の軽さもずるさも弱さも浮かび上がらせてしまっているような印象です。
ネットを見ていたら、相手の男(妻帯者である教師)を演じた松本潤が、「この作品はあくまでも女子高生(OG)の目で見た世界だから・・・」というようなことをインタビューか何かでコメントしていたような記事が目にとまりました。ほんとかどうか確かめるすべも私にはありませんが、彼はそういう違和感を鋭敏に感じていたのではないかな、と思いました。
原作では男がまだ妻と離婚していないことをヒロインに隠していて、或る時それがわかってヒロインが怒るところがありますが、そういう場面は映画にはありません。ただ、浜辺だかどこだか二人で歩きながら、「ぼくは結婚していたんだ。色々あって、いまは一人だけど」と曖昧な言い方をし、「その人とはそれっきり別れたんですか」と彼女に訊かれて「うん、別れた」と明らかに嘘を答える場面はありました。
でも映画の中では、それが虚偽だと分かってヒロインが非難する場面はありません。映画ではあたかもヒロインはそんなことは分かっていて、男の弱さもずるさもわかった上で、ずるずる「オトナの関係」を続ける成瀬巳喜男の「浮雲」の二人のような女性としての存在感を持って演じられています。
ですから、この映画を、教師と女子高生の禁断の純愛を描いた恋物語のように見るのは、ずいぶん映像そのものの表現してしまっているものから乖離することになるように思います。
最初のほうの回想で、高校時代のヒロインが制服を着たままプールに飛び込み、指導教員からおふざけとみなされて叱責され、彼女が濡れネズミのまま廊下を歩いていくのに出会った彼女の好きな先生が、どうしたんだと見とがめ、指導教員に詰め寄って、事情を聴くなり、彼女が制服のままプールに飛び込むなんてことをするはずがないじゃないか、と相手に殴り掛からんばかりの狼藉に及びます。
飛び込んだ事情のほうは映像でたどられるわけではないけれど、大方推測はできるからいいけれど、この勇ましい先生の行動は、ふつうは教員としては異常なもので、生徒思いの先生が生徒が制服でプールに飛び込むにはよほど精神的に追い詰められたものがあったはずだと思いやってのこと、と彼が「いい先生」であることを強調するためにこんなエピソードを挿入したのかもしれませんが、こういうことをやらかす時点でこの「いい先生」は教師の資質を持っていないので、さっさと辞任したほうがいいんじゃないか、と観客が思ってしまうとは考えないのかな(笑)。
それに、この物語がそもそも成立するための最初のきっかけは、高校卒業の日にその「いい先生」が女子高生のヒロインに突然キスするということがあって、それで卒業してもう関わることもなくなって、たしかそろそろどんな仕事につくか考え始めるころに、突如その先生のほうが彼女の携帯に電話をかけてくるわけです。
もちろん演劇部の顧問をやっていて、或る芝居をつくるのに部員が足りないからという口実もあり、ほかの卒業生にも二、三声をかけたから君だけじゃないよ、というエクスキューズは用意されているのですが、それでもそういう過去の関わり方をした自分のほうから、彼女に来てくれないか、と依頼するような電話をかける時点で、客観的にはこの教師が自分で意識しているか否かは別としても、どういう人物かはある程度確定的に推測できるはずで、それは決して胸の内に想いを抱きながら自分の立場ゆえにそれを抑え、相手への愛情ゆえにそれを伝えることを自分に禁じてきた、ナイーブな純愛に殉じる精神ではないことは明らかに思えます。
ただ、それが盲目の恋のために彼女のほうには見えない。それはいいのです。ただ、映画の作り手までが盲目では困るのでは?(笑)
そういうこの作品の世界を成り立たせる必要条件を無化してしまいかねない違和感を覚えてしまうので、ひとつひとつのエピソードにおけるヒロインと相手の男の行動がちぐはぐなものに見えて仕方がなく、とてもヒロインの目線になり切ってその世界に溺れように溺れようがなかったのでした。
ボヴァリー夫人やアンナ・カレーニナも言ってみれば当時の社会的な規範を逸脱する「不倫」を描いた作品ですが、私たちは彼女たちの行動や思いに寄り添い、共感してその世界についていくことができます。作者が作品の世界の内部に外部の物差しを持ち込んで彼女たちを弾劾したり非難することもありません。しかし、読めばすぐわかるように、彼女たちを描く作家のまなざしと、彼女たち自身が世界をみているまなざしとは明らかに異なっています。
逢引にいくボヴァリー夫人の苛立つ振る舞いを生き生きと描く作者の目は、この夫人の客観的な姿、彼女が置かれている位置を、正確に私たち読者に伝えてくれます。そして作中の彼女たち自身が、自分がどんなくだらない男に会いに行こうとしているのか、自分がどんな人生の罠に落ちてしまったかを知っており、それを周囲にいら立ちをぶつけるような行動のうちに自ずから表現しています。こういう重層的、複眼的な視点が作品を立体的でリアルな世界として成立させているので、未熟な女性の異性への憧憬に自分の視線を重ねても、狭い妄想の独白にすぎないような世界になってしまうでしょう。
映画の場合は演じる俳優さんの肉体が、作り手の意図を良くも悪しくも裏切ることがあるので、この映画では有村架純という旬の女優さんの落ち着き払った所作やクールな表情が原作や監督の設定しようとした(と私にはみえる)「女子高生(OG)の目でみられた世界」を裏切って、本来あるべき作り手の目で見られるはずの世界との乖離の可能性を垣間見せている、と思われました。
blog 2018/06/09