真利子哲也監督「宮本から君へ」を見る
出町座で真利子哲也監督の新作「宮本から君へ」を見てきました。
私は学生のころは白土三平だとかつげ義春とかマンガ、劇画の類も読んでいたけれど、ここ半世紀くらいはマンガをほとんど手にしたことはないので原作だというマンガは読んでいません。
映画を楽しんでみる観客として言えば正直のところマンガが原作というと、それだけで大体こんな程度の映画だろう、と見ないうちから興味が半減してしまい、今の映画監督はオリジナルな脚本を生み出す創造力をなくしているのかもしれないな、と思ってしまうのは、原作マンガが売れたから映画化すれば確実に客が見込めるといういまの映画業界の常識らしいものが想定する大多数の観客と違って、私はもはや一握りの少数派観客に過ぎないのでしょう。
といってマンガだからといってマンガ自体に偏見を持つ世代でもなく、マンガも別に映画や小説と変わらない芸術表現の一種なので、いいものもあればひどいものもある、というだけなのですが、マンガが優れた作品だからといってそれを映画化した作品が優れたものになるとは限らないの自明のことで、小説の映画化は、読者・観客としての経験上は、つまらない作品の方が多いんじゃないかと思うので、マンガ原作の場合も、私などはついそういう偏見ともいえる先入観をもってしまいがちで、才能ある映画作家ならオリジナル作品に挑めばいいのに、と思ってしまいます。
それでも、かつていわゆる「ハチクロ」(ハチミツとクローバー)でしたか、あの実写版映画を見たときは、マンガ原作だと聞いて、なるほど普通の映画とは違う<マンガ的>なところはあるけれど、それも欠点にはならないで、うまく作品に生かして、なかなかいい作品ができるようになったんだな、と見直したことがありました。
久しぶりにみたマンガ原作のこの映画も、確かに「普通の映画とは違う<マンガ的>なところ」があるけれど、それがうまく生きたインパクトのある映画になっているな、と思って、それなりに楽しんで見ました。
平日の午前中とあって、観客は少なかったけれど、何人かのおばさんが(失礼、若い女性だったかもしれませんが・・・)かなり頻繁に声を出して笑っていましたが、そんな面白おかしい<マンガ的>誇張の可笑しみをふんだんにちりばめてサービス満点の映画でもありました。
最初から暴力あり流血ありレイプあり決闘(喧嘩)ありセックスあり父親不明の妊娠あり(笑)と現代風俗の要素をめいっぱい取り込んで(ないのは殺しくらい?・・笑)、夢もなければ金も力もなくうっとうしい人間関係とこけおどしの突っ張りやら暴力やら喧騒ばかりのうらぶれて小汚い世界の中で、主人公の不器用な青年宮本と、彼が愛する年上の女靖子が彼らの前に置かれるハードルをどう飛び越えて愛憎の修羅場を無事潜り抜けるか、という・・・つづめて言っちゃえば、そういう話ですね。
この種の愛のドラマを見ると、このごろよく既視感に襲われます。要は一対の男女の愛の物語なのだけれど、大団円までにどんな紆余曲折を設けるか、そこに作り手の知恵のしぼりどころがあって、いろんな障害物を置き、なんとかそれを潜り抜けて二人の愛が成就しました、と。その障害物がハードであればあるほど真実味が増すかのようにどんどんエスカレートし、多様化していく傾向にあるのは自然な成り行きかもしれません。
相手に他の男(あるいは女)が居るとか、質の悪いモトカレにつきまとわれるとか、自分あるいは相手の親との相性が悪いとか、倫理観がぶつかるとか、貧乏だとか命に係わる病気だとか、どちらかの過去に問題があるとか、もともとどちらか(あるいはどちらも)が性格的にだらしないとか、なんだっていいわけですが、外在的な障害があれば、当然内在的な関係性もきつくなるから、二人の間での愛憎も先鋭になって、生かすか殺すか、別れるか心中するか、ってあたりの近くまでいくわけです。
本当は一番きついのは第三極があって三角関係にはまる構図でしょうが、この作品ではそれはありません。だからそこはどんなにきつくても三次元的にz軸の方に傷が深くなっていくのではなくて、二次元的に走り回ってあっちへぶつかりこっちへぶつかり、テンヤワンヤの大騒ぎ、という<マンガ的>喧騒の世界を見せて終わっています。ただ、その<マンガ的>に誇張され、単純化された喧騒の世界の盛り上げ方というか、作り手や俳優たちの入れ込み方が尋常でないので、それがこの映画を熱気と活力に満ちた作品にしているように思います。
そういえばハチクロのときも、この女優さんが主演だったかな。靖子役をやった蒼井優はほんとにうまい女優さんですね。役への入れ込み方が尋常ではない感じで、絶叫調のセリフのときのあの表情なんか、原作のマンガを読んでいなくても、あぁここは一ページ全部使って目が飛び出し鼻の孔が何倍にも広がり、口が口裂け女みたいに裂けた顔で絶叫する女が描いてあるんだろうな、と思うようなマンガキャラが生命を得てそこにたしかに登場している、って感じがありました。しおらしい女性のように猫をかぶっている時との落差がすごい(笑)。
相手役が蒼井優だとチラシで知ったとき、池松壮亮はきっと食われてしまうだろうな、と勝手に思っていましたが、どっこい、池松さんもすごく頑張っていました。こちらはほんとに「頑張ってるなぁ」という感じでしたね。この二人の、役への入れ込みようがある意味常軌を逸したもので、それがこの作品を先に書いたような既視感の或るパターンをなぞる多くの純愛映画からワンランクアップの高みへ押し上げていることは疑いないように思います。
もちろん、脇役もいま旬の俳優を惜しげもなく使っているので、それががっちり脇を固めてベースを作っていることも間違いないでしょう。これだけのキャストを使っていい作品が作れなかったら監督廃業したほうがいいようなものだけれど、自主制作映画的なチープな、でもとんがった作品でその種の映画コンテストの新人賞を総なめにするような才能をもった真利子監督が、その作品に大衆性、商品性を繰り込んでどんなメジャーな作品をつくるか、というのは多少関心をもってみていたのですが、ちゃんとそれに応えたな、という印象でした。私などからみれば息子たちより若い世代の監督ですが、これから作る彼の、大衆性、商業性を繰り込んだメジャーな映画は楽しみな気がします。
ところで、なぜ先に書いた既視感を覚えるような作品がやたら作られるのかといえば、すなおに愛を交換するとか、ぼかぁ幸せだなぁ、なんてドラマは、小説でも映画でも、嘘くさくて誰も読みたいとも見たいとも思わなくなってしまっているからでしょう。だからせっせと2人の間に障害物を置く(笑)。それが靖子の元カレであったり、宮本の職場のラガーマンの息子拓馬に靖子がレイプされる出来事であったり、宮本と靖子とそれぞれの親とのぎくしゃくした関係であったり、またそれらにぶつかることであらわになる、それまで見えていなかったお互いの姿であったり・・・
いまの世の中では、宮本のようなストレートな感情表現は敬遠されたりバカにされたり、いずれにせよ歓迎されませんよね。そういうストレートさというのは信じられなくなっているし、それに即応するような感受性や行動力を失ってある意味インポテンツになっているのが現代人で、ストレートな人間をみても信じられもしないし、嘘くさい、と思ってしまうでしょう。それはそういう人物が登場する小説を読んでも映画を見ても同じことで、嘘くさいと思う。
そういう状況のところで、なにか真実らしいことを訴えようとすれば、作品の世界の中で、そういうストレートさ、素直さ、というものを徹底的に叩いて、泥まみれ、くそまみれ、血まみれ、へどまみれにし、修羅場をくぐらせて試さないことには、とても信じられないわけです。
だけど、今度はそういうとんでもない修羅場の設定自体が嘘くさい(笑)。その嘘くささを回避するためには、その世界全体の基調音のベースをワンオクターブほど上げて、そういう抵抗なり障害物なりを<マンガ的>に誇張してみせることで、はじめから、これはウソですよ、と居直って戯画的な構図にしてしまうしかないのではないでしょうか。
たぶんいま私が既視感を覚えるようなこういう現代の純愛ものを嘘くさいとシラケさせず、作り手自身が嘘くささを感じずに創る方法というのが、こういうものなんじゃないか、と思います。
こうして<マンガ的>に誇張された、それ自体がウソの世界ですよ、と宣言するいかにも嘘くさい世界で、徹底的に過剰に主人公たちをいためつけ、泥まみれ、血まみれ、くそまみれ、へどまみれにしてそういう修羅場を通り抜けて、私たちの世界ではストレートであればあるほど嘘くさいと感じられる「愛」だけを逆説的に突き出してみせる、と。
こうして修羅場を潜り抜けて愚直な愛をつらぬいた宮本君の愛の勝利。
結末はハッピーエンドで、悪いやつは彼の鉄拳でやっつけられて観客もカタルシスを覚えること間違いなし。愚直な生き方が力強く肯定され、今の世の中にはびこる愛のインポテンツ、あきらめ、無力感、嘘くささ、そういうのを突き破って、愚直な生き方に対して背中をポンと押してくれる・・・そういう作品になっているのでしょう。
これを見て元気が出てきた、という観客は少なくないかもしれませんね。
最初からほんわかした愛情の交感に終始してもそうはいかないので、みんな嘘くさいと思うだけでしょう。でも過酷な障害物を二人の前に、間に投げ込むことで、互いの知らなかった人間性がむき出しにされて、それに向き合わなくはならなくなります。ここで<マンガ的>設定が功を奏して反転し、人間としてのリアルがむき出しになってくる。それがこの映画の真のドラマを成り立たせている核心部分にあたるでしょう。
それらの過酷なシーンを演じ切るのは大変なことだと思うけど、蒼井優も池松壮亮もみごとにやってのけています。
ただ、この映画はいかにも日本的な作品だな、そこに描かれた社会はいかにも日本的な社会だな、という気がします。
二人の前に置かれる障害物、宮本君がぶつかる「敵」を見てごらんなさい。たしかにものすごい巨体をしたラガーマンの拓馬なんて、ほんとなら宮本君なんか一ひねりで、本気を出されたらとても命があるとは思えない威圧力があるし、暴力的で強力ですが、偶然にも宮本君がタマタマを握りつぶす幸運に恵まれて以降は、妙に優しい表情の弱い存在になり果てていましたね。
それに、その前に威圧的な雰囲気を作っていた拓馬の父親(ピエール瀧)なんか、もっと典型的に優しく弱き日本の父ですよね。
最初に登場する障害物である靖子の元カレ裕二(井浦新)なんか、最初これはふたりにとって厄介な障害になりそうだなぁ、と思っていたら、なんのことはない、やわなチンピラにすぎず、むしろ宮本君の味方についちゃうんじゃない?というようなありさまで、どこにも本当の障害物も抵抗もないし、本当の敵も本当にどうしようもない悪人もいないのですね。
職場のラガーマンたちも、体格はすごくて、顔はこわもてだけれど、日本のやくざ映画のやくざと同じで、あれはみなただのコケオドシなんですね。
そういうことを感じたのは、このごろ毎週金曜日に見ているBS12の「バビロン ベルリン」では、この「宮本君~」とは対照的に、ホンモノの悪、ホンモノの敵、ホンモノの悪人が出てくるからです。
主人公の一人である女性が捕まったりすると、もうどう抵抗しようが何をしようが、絶対に逃れようがない、屈服し、相手に協力する以外にないわけです。そして身体は解放されても、そこにはにこやかに妹と食事のテーブルについている敵がいて、またいつでも食事においで、迎えに行くから・・家の場所も知っているからね、と嬉々として聞く妹に言うわけです。
こういうホンモノの悪にはほんとうにゾゾッと寒気を覚えます。そういう人間は「宮本君~」には一人もいません。みんな一皮むければ優しい、パパであり息子であり隣人であり先輩であり、予定調和の世界です。
だから私は夢想します。この宮本君を1930年代初頭のベルリンの町に立たせてみたらどうだろう・・・なんてね。
blog 2019年11月21日