「不気味なものの肌に触れる」(濱口竜介監督) 2013
54分ほどの映画です。三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる」の染谷将太が、それこそ「不気味な」若者を演じるというのか、もともとすべての若者が「不気味な」存在なのでしょうから、そういう若者の不気味さそのものを演じて怪演しています。
限りなく相手の皮膚に近づきながら決して触れあわずに相互にスローモーションでパントマイムを演じるような体の動きをつづけていく「ダンス」を教室の先生にならっていて、その相棒の彼女との間で「事件」が起きるのですが、そこへいくまでに将太が同居している兄夫婦との関りがもう一つの重要な見せ場になっています。
将太と義姉との間に別に現実的には何も起きず、ごくありふれた仲の良い兄と兄嫁との同居生活ですが、明らかに将太にとっては義姉は意識せざるを得ない異性で、遠くから抱き合う兄夫婦をぼぉーッと立って眺めていたり、洗濯物を入れにだったか、留守に勝手に将太の部屋に入っていた義姉のところへ将太が返ってきてさりげない会話をかわすところでの義姉は、自然に「女」を発散していて、将太の外見からはうかがえない心理の目で見られた彼女の姿として撮られています。
これらは突き放して客観的な絵柄としてみれば、なにもへんなところというのか、世間的な倫理観に抵触するような兄嫁に対するよこしまな想いを示唆するようなところは何もないし、そんなことを示唆するようなものは一切ないのですが、さりげないそれらの光景を映し出している視線というのが、いま書いたように将太の深層心理の目みたいなところがあるので、なんでもないやりとりの光景なのに、或る種の緊張感が漂うし、そういう光景を映し出す視点のほうへ私たち観客の目が収斂していく先に、将太という存在の「不気味さ」があるんだと思います。
それは将太が何か考え、意図しているのが私たちに外部から見えないから不気味というのではなく、当の将太自身にも見えない、彼自身の「不気味さ」なのです。
それはたぶん決して直接には触れ得ず、触れて感知しえないものであり、また決して触れてはならない、触れれば人は通常たがいにふつうにおだやかに生きてはいられないようなものなのでしょうが、ラスト近いシーンで、相棒の彼女と将太がタブーを破ってじかに「触れあう」シーンで、それまで抑圧されていた力が解き放たれ、その「不気味さ」があからさまな醜悪苛烈かつ悲劇的な事態を引き起こすことになります。
その結末がどう描かれたかについては、必ずしも共感できるような形ではなかったので、これ以上は書きませんが、そこにいたるまでの、「不気味なものの肌に触れ」そうで触れないダンスを続ける登場人物たちの姿はなかなかスリリングで魅力的でした。大変独創的な作品ですね。
最初は例によって(笑)ずいぶん理屈っぽいな、と思いましたが、まだ作られた作品の登場人物の幻想自体が「親密さ」のようにもうひとつの球体世界を生み出す以前の作品で、「不気味さ」がまだ皮膚の内側にとどまっていて、一瞬切り裂かれたところで終わっているのが、かえって分かりやすくて、われわれ凡人にとっても或る意味でなじめる作品でした。将太の見る風景は少なくとも半分は私たち凡人が眺める何でもない風景と同じですから。
Blog 2018-10-14