「マザー、サン」(アレクサンドル・ソクーロフ監督 1997年/ロシア/73分)
人里離れた海辺らしい森の家に住むただ二人だけの登場人物の静かな語り合いと老母を抱きかかえて周囲の自然の中を「散歩」して再び寝室に寝かせます。その間に、母親の古い手紙を読んでやったり、外に出たときベンチに寝かせて本を読んでやったりしますが、起きることはただそれだけと言っていい、非常にゆっくりと過ぎていく時間です。
死を目前にして病床に横たわる、ほとんど生ける屍のごとき老母と、これにぴったりと寄り添い、見守る(もうけっこういい歳の)息子の濃密な母と子の、愛と死だけを限りなく穏やかに静かに描いています。
息子は母親に食事をしようと言い、それとも散歩したい?と訊いて、母が散歩したいというと、いわゆる「お姫様抱っこ」の形で老母を抱いて家を出て、緑ゆたかな野辺、林間の起伏があり、蛇行する道をゆっくりと歩きます。出たところのベンチに老母を寝かせて、本を読んであげようと家にとって返すと、見ている私たちのほうは、その間にもう母親は死んでいるんじゃないか、と思ったりします。
ほんとうにいつすっと息を引き取ってもおかしくない様子だし、カメラが横たわる老母をその足元のほうからとらえるとやせこけた老母の顔が少しのけぞったように見えて、もう死んだんじゃないか、と何度も思わされます。
息子もそうなんでしょうね。待ってて、本をとってくる、と家の中へ戻ったときも、速足で戻ってきて、おそるおそる、眠ったの?と尋ねます。老母は返事もしないのですが、息子が頭のベンチの間に腕を入れて枕がわりにしてやると老母はわずかに笑みを浮かべ、生きていることがわかって、我々もほっとします。
老母はそんな風に、最初から最後までほとんどもう死んでいるんじゃないか、と思わせるような死に瀕した状態ですが、息子に抱かれて自然の空気を感じながらこうして「散歩」することに喜びを感じているのでしょう。
ほんとうに逝く場面では直接表情をとらえずに、老母の老いた手指にとまった蝶がその幽明の境を分ける小道具のようにクローズアップされる繊細な表現になっています。ほかにも、暖炉の赤い火が燃えているのを少し離れた隣の部屋から戸口を通してとらえているのが印象的だったりします。
そういう二人を世の一切の喧騒から遠ざけ、守り包んでいるのが、濃密な、暗い、でも素晴らしく美しい自然です。この外の自然は、ワンカットワンカット、みな素晴らしい絵になっているような風景で心に残ります。草木の茂りようからみてもきっとまだ晩夏から秋の入り口で、ロシアといってもそれほど寒い時期ではないと思います。でも決して明るい光景ではない。全体に沈んだ、暗い風景といった印象です。視覚的な美しさというより、精神的な深みを感じさせるような風景といえばいいでしょうか。
白い煙をたてる蒸気機関車が遠くみえる森や霧のかかる峰々、風が舞い雷鳴轟く林、起伏のある丘、そこに蛇行しながら伸びている「散歩」道、一面の草が風になびく斜面、遠く帆船の浮かぶ暗い海等々。その濃密な自然の光景が、二人の濃密な愛情に見合っているようです。
こんな濃密な母子のありようは、ちょっと日本では考えにくい気がしました。もちろん母子のべたべたした関係のようなものはよく言われるけれど、それは母親の一方的な「愛情」で、そこに生まれてくるのは反抗する息子か、不能者としての息子かいずれかであるような気がします。でも、ここに描かれている母子の姿は、そういう葛藤や歪みを表現するようなものではありません。
むしろ母親が若いときに、赤ん坊の息子にしてやったとおり、その腕に、その胸にぴったりと抱きしめ、耳元に語り掛け、本を読み聞かせ、哺乳瓶みたいなので飲み物を飲ませ、身体を衣で包んでやり、ずっとそばに寄り添って眠る姿を見守ってやる、それをそっくりそのまま老いた母親に対して成人した息子が繰り返しているのです。そこにはどんな葛藤の歪みも、また過少さも過剰さもないように思われます。
ソクーロフはきっとそうやって生まれ、死んでいく人間の姿、母と子の関係の普遍的な姿を、愛の相で描きたかったのでしょうね。
この暗くて美しい映像、この高度の抽象性、このおそろしくゆっくりとすぎていく時間、みんなこれまで見たソクーロフのどの作品にも感じられた彼の固有性をとても純粋な形で示した作品のように思いました。
blog 2019-11-13