ダゲレオタイプの女 黒沢清監督 2016
黒沢清という監督が若い人、とりわけ若い世代の映画監督から、青山真治らと並んで、その背中を追っかける日本映画の最前線を走っている監督とみなされているらしい、というのは薄々感じていたけれど、一般にもよく知られるようになったのはホラーを通じてだったように思うので、ホラー嫌いの私は一本も見ていません。
今回は監督名を見ないで、ちょっと古典的な雰囲気の綺麗な女性のイメージがDVDのジャケットに描かれていたので無造作に選んで帰って見たら、欧米の監督の作品じゃなくて黒沢監督の映画だったのでちょっと驚きました。
こういう古いフランスのお屋敷を使ったり、ダゲレオタイプで撮影する変人の写真家を中心に据えたり、タネもシカケもあるというのか、いやに凝ったつくりの作品で、ほんとうはなぜ日本の映画作家がこういう映画をとりたがるのか、そこから疑問なのですが(笑)、まあ小説でも日本を舞台にいい作品も書いている平野啓一郎なんかもデビュー作は確か「日蝕」でしたか、ヨーロッパの中世かなにかが舞台で(笑)なんで突如こういうのが出てくるのかよくわからない、と思いましたが、黒沢さんのこの作品も別段日本の古い邸を舞台に秘密の裸体画でも描く変人の才能ある画家の話にしちゃってもいいんじゃないのなんて妄想してしまいます。それともこれは単なるこういう意匠好みというだけじゃない、必然性が創り手のほうにはあるのですかね。
話としては芸術家が自分の作品づくりに夢中になって、いわば個人幻想の世界に入り込んで、対幻想のパートナーである妻や娘をその犠牲にし、彼女たちの生きる自由を拘束して不幸のうちに押しとどめ、遂には死にいたらしめる、昔から数限りなく描かれてきた、凡庸な芸術至上主義者の古典的な悲劇で、対幻想を妻や娘の亡霊を現実化してみせることでホラー話の装いをさせてみせた、といったところです。あの化け物みたいなダゲレオタイプの仕掛けは、肥大した写真家の個人幻想、芸術至上主義の代理物なのでしょう。
写真家の助手とした雇われた若者ジャンの目で物語が語られていくことになるので、そう思って観ていると、写真家が妻を首つり自殺で亡くしたあと代わりのモデルとしてきた娘マリーとジャンとの間に恋が芽生えることで、ジャンの目が変容していきます。つまりおかしくなってくる(笑)。そうすると、観ている側の興味は、彼によって語られる現実の進行が、どのへんから現実でなく彼の妄想に過ぎなくなるのか、というあたりに集中していくことになります。
その境目の曖昧さが、われわれ観客をとらえると同時に、気味の悪さを感じさせるところが、ホラーの所以なのでしょう。そのあたりの手練手管は手慣れたものだという印象です。
しかし、そうやってジャンが針金の指輪なんか使って教会で結婚式をあげているところを神父に水戸がめられて、振り返るとマリーの姿が消えていたり、車でジャンがにこやかに話しかけている助手席にはマリーの姿も誰の姿もないとか、今度はジャンが明確に狂ったね、となってからの一連の惨劇、つまり写真家の自殺だとかジャンによる知り合いの不動産屋で邸を買いたがっていた男の殺害だとかは、なんだか手品の種明かしをされたあとの手品師のわびしい後片付けみたいに、しらけたものになってしまいます。
ジャンは最後までまともで、マリーを無事救い出し、写真家の首を吊った妻の亡霊はその出現によって写真家の芸術至上主義に復讐して自殺させ、亡霊は消え去っていく、というのでいいんじゃないか(笑)。なぜジャンまで気が変になっちまうのか、せっかくマリーは父親の手を離れて地方の絵画学校へ行きたいと言って自立しようとしていたのだし、ジャンがそれを援けて一緒に逃げ出せば万事うまくおさまるのになぁ、と。
Blog 2018-8-10