馬
(山本嘉次郎監督)
「馬」(山本嘉次郎監督) 1941
パートナーは「山本嘉次郎ってクイズの人?」と言っておりました(笑)。そういえば、昔相当長い期間、テレビのクイズ番組のレギュラー解答者の一人として毎週その顔と名が茶の間に登場していました。「何をしている人か全然知らなかった、映画監督だったのね」というわけです。
高峰秀子が貧しい東北の農家の長女いねという馬が大好きな娘を演じたこの映画の監督が山本嘉次郎なのですが、どうやら実際にメガホンをとって撮影したのは、ほとんどが、「製作主任」をつとめた黒澤明だったようです。面白いのは撮影を担当したのが4人のカメラマンで、春夏秋冬それぞれ得意とする季節を分担して撮ったとか。
最初に「心で感謝、身で援護」という字幕が出てくるので、おやおや、と見ていたら、今度は「東條英機陸軍大臣」の推薦文みたいなのが表示されて、そこには、軍馬を育てることがお国のために大切みたいなことが書いてありました。
なるほど、1941年に3年がかりで完成した映画だそうですが、1941年、昭和16年といえば、真珠湾攻撃で太平洋戦争をおっぱじめた年ですから、これは純然たる国策映画として企画されたのでしょう。すくなくとも建前は。監督はじめ、映画の作り手たちはおそらくしたたかに計算して、軍馬の育成をテーマとした映画を国策映画路線に載せることで、こういう大変な時期にこれだけいい映画をつくるチャンスをものにしたのでしょう。
これはいまみても、すばらしい映画で、国策映画という枠組み(おそらくそうなのでしょう)は作品の価値をいささかも傷つけてはいないと思います。実際、何度か出てくる馬のせり市(馬検場)で正面に軍人がデンと座っていて、いい馬が出ると、いつもせり上げられた末に、それよりいい値をつけて軍人が軍馬として購入する場面が出て来たり、そもそもこのせり市自体が、優秀な軍馬を徴用するために行わるものであって、主人公たちも良い軍馬を育てようという目的意識をもって育てている、といったあたりに、たしかに国策映画としての枠組みが見えることは見えますが、それは事実としての時代背景を描けば自然にそうなる、というだけで、この映画自体はプロパガンダ映画としての性質を内実として持っていません。
昔の農村の大家族で、いねは15-16歳の少女ですが、彼女の家族として、父と母、祖母、いねの弟で長男の豊一、次男金次郎、次女つる、それにもうひとり赤ん坊までいますから8人家族ですか。父はきまじめそうな、だけどいねの馬好きに一定の理解を示し、馬の出産という決定的な時には自分が産婆役をつとめて無事子馬を誕生させます。母は気苦労がたえず、長女のいねには口うるさく小言を言い、いねもなれっこで聞き流したり反発したりするので、よけいに母の癇癪を誘発することにしばしばなっています。いねは馬好きで馬が飼いたくてたまらないのですが、弟の豊一は馬嫌いで、学校の工作などを熱心にやっていて、姉のやることにはクールに距離をおいています。次男、次女はまだおさない子供で、母親のかわりにいねが色々面倒をみています。
この一家に、いねにとってすばらしい機会が訪れます。立て馬といって、子をもらう約束で妊娠した母馬を持ち主から預かって飼うという願ってもない機会です。預かった馬ハナを、いねは甲斐甲斐しく世話をします。しかし、村の親しい善蔵の娘の嫁入りの日、勧められるままに酒を飲んで、ハナの引く荷車をあやつっていて、父甚造は大けがをして寝込むことになります。母はすべて馬のハナが悪いように罵り、いねと口論になります。
こんな家族の暮らしぶりを、いねと馬のハナを軸に描いていて、いろいろと東北の農村の習俗が登場して、それはそれでとても興味深く面白い。雪のなか、弟妹とかまくらの中で餅を食べている光景とか、祖母がいかがわしいお祓い師を読んでお祓いさせて父親の怪我も馬の生霊のせいだと言ったり、また「なまはげ」が乱入してきて幼い次男次女を怖がらせるシーンとか、春の訪れとともに雪解けの光景が眩しく、金次郎たちが「雪ん子はポッタポタ」などと繰り返し歌ったりするシーンは、どれも素敵です。
ハナが餌を食べなくなってどうも病気らしく、青草を食べさせればいいのだが、この雪の中では・・・というとき、ハナを助けたい一心でいねは男でも行かないだろうという雪深い道を温泉の湧く場所まで行って青草を取ってきて、自分が倒れ込む、というようなこともあります。
こうして無事ハナも病から回復し、春が来た、の唱歌が聞こえる中、小川のせせらぎ、雪解けの道、子まで遊ぶ子ら、そして野には花が咲き、という光景はステロタイプではあるけれど、この作品の中ではそれが生き生きとして素敵な光景を見せてくれます。
やがてハナが出産のときを迎えます。異常を察知して父を呼ぶいね。自分は暗闇の中を、父と家族のいる囲炉裏端との間を落ち着かなく行ったり来たり。母はかまどの火をたき、父は馬の傍で馬の腹をさすってやります。ふだんはお祓いも何も信じていないいねだけれど、祖母に安産を祈ってくれといって自分も手を合わせます。
いね、いね!といねを呼ぶ父の声。暗闇の中からこちらを見て「生まれた!」と。おそるおそる近づいて「お父ちゃん、生まれた?」「いま生んでるとこだ・・・」
子供らもみな起きて、上がり框のところにこしかけて心配そうに厩の方を見ています。「ちょっと来・・・片足が一本出ない・・・ひっかかっとる・・・」と父。「やっと出た」みな暗闇の中。「鹿の子供くらいだな・・・足が長いな・・・静かにしてろ・・・こら重いど・・・・うわ、かわいいな・・・」とすべて闇の中から聞こえる父の声。囲いのむしろみたいなものの間から子供たちが顔をのぞかせて見ています。
父は仔馬の身体を拭いてやり、いねに中へ入って手伝え、と拭く布をわたします。いねはいそいそと入って仔馬の身体を拭いてやります。手前に親馬ハナの横顔が覗きます。秣をもってくる母親。「お産のあとは腹が減るもんな」と。
むしろの間から母、金次郎とつるの顔が覗いています。みな笑顔。
仔馬を舐めるハナ。そして仔馬が立ち上がろうとします。立とうとしてはうまくいかず、倒れてしまいます。でも何度も何度も試みます。倒れるたびいnみんなため息をつき、「立つぞぉ、立つぞぉ、それ、それ、それ!」とみんな声を挙げて応援しています。そして、ついに立つ!感動的な場面です。
この出産場面はほんものでないと撮影できないでしょうし、当時のことだから、もちろんホンモノでしょう。すばらしい場面です。
そして、「仔馬は日に日に大きく、かわいくなっていきました」のナレーションとともに、仔馬が出て来て洗濯物をひっくり返して鳴き、逃げていきます。これを花咲く樹々の間を縫って追ういねの楽しそうな姿。それから、ハナの手綱を引いて歩いていくイネ、その周りを自由に駆けまわっている仔馬。田ごしらえで親馬が鋤を引くその傍にぴったりと寄り添うように仔馬もついて歩いている光景。
多くの馬が放牧地で草を食む中に、ハナとコゾウと呼ばれることになったらしい仔馬もまじっています。背景には広々とした雄大な山々。草を食み、水を飲む馬たち。ほーい、ほーい、ハナやぁ・・・と愛馬を呼ぶいねの声。ハナや~、コゾウやぁ~・・・すると2頭が斜面を下りてきます。そちらへ駆けあがっていくいね。ここも素敵な場面です。弁当箱にいねは彼らの好物を用意してきたようで、ふたをあけて食べさせます。
弟(長男)の豊一が学校の課題で作った織物のバスマットが東京の駒場の民藝館が東北で行った展覧会で好評だったので、販売することになったから100点つくってほしい、という書留が、手付金の為替とともに、届いていた、というエピソードがこれ以前のところであるのですが、その豊一がいよいよ東京へ出ていくことになり、大釜駅で先生や家族が見送ります。ただ、いねだけが見送りに来ていないのす。
ところが、豊一が汽車に乗り、汽車が走り出してしばらくすると、放牧地の馬の群れと一緒に、いねが列車と並ぶように疾走する姿が見え、気づいた豊一も車窓から手を振ります。この場面はある意味で不思議な場面です。一時的に東京へ出ていく豊一を見送る姉いねの見送り方としては大げさです(笑)。
自分のうちの2頭の馬だけでなく、牧草地にいた馬の群れを一緒に疾走させて汽車を追うように走ってつかの間見送ってやる・・・・これはもうこの場面が見せたくてならなかった映画の作り手の恣意としか言いようがありません(笑)。
見せたかったんだろうなぁ、と思います。そして、あとでネットをみたら、どうも馬の写真は黒澤明だ、と高峰秀子も証言しているようですから、これは黒澤明の仕業なのでしょう。それなら分かるような気がします。「七人の侍」の野盗の群れが馬で襲来するシーンから、「影武者」の武田騎馬軍団まで、黒澤はあぁいう馬の群れが疾駆するシーンが撮りたくてたまらなかった人だと思います。
誰があのシーンを思いついたのかは本当のところ私はもちろん知りませんが、脚本的にはあんなシーンなくてもさしつかえなかったのではないでしょうか。ひとつ劇的に盛り上げるシーンを作っていたことは確かだけれど、何も駅でみおくりゃいいのに、馬をあれだけの群れで走らせることはないだろう、と・・・
そのあと日傘の女たち10人ほどが田仕事をする村人と言葉を交わすシーンがあり、これがどうやらあとでいねが借金のために売られた仔馬を買い戻すために働きに出ることを決意する紡績工場の女工さんたちらしくて、伏線になっています。当時は女工哀史さながら、紡績工場の労働は厳しかったようで、いねが働くと言うと両親とも、身体を壊したらどうする、と激しく反対します。
父がけがをしたことがたたって、組合から一家が借金をしたことから、「いい駒を2歳に育てれば軍馬になるものを(高く売れるのに)」と言われながら、やむなくまだ仔馬のうちにコゾウを売ることになります。それで、いねはコゾウを買い戻すために工場へ働きに出ることを決意するのです。
イネは泣き、意気消沈しますが、哀しみながらも諦めの言葉を口にします。
ところが哀しいのは親馬も同じで、仔馬を失って、厩で落ち着きなく動き回ります。祭りの夜、誘いに来てくれた友達の前でもいねは涙にくれて、祭りにいこうとしません。
親馬の厩舎で激しく暴れ動く気配がし、やがて足音が遠ざかっていきます。目覚めて気づくいね。「ハナが居なくなった! コゾウ探しに行ったとか・・・」
寝巻姿のまま、夜道をほーい、ほーいと呼びながら行くいねと父親。また、疾駆するハナ。右へ行き、左へ駆け、いったり来たり、仔馬コゾウを探して走り回り、高く嘶く母馬ハナの姿の映像もまたすばらしい。
イネは紡績工場へ行ってなんぼか貸してもらい、コゾウを買い戻してくる、と言って決意します。体を壊したらどうする、といさめる母。泣く祖母。もう決めた、といね。紡績工場へ働きに出ていくいね。
時はうつり、祖母が亡くなっています。うさぎおいし、かの山…の歌。
長い映画なので、ここで1巻目のビデオがおわって、2巻目に入ります。2巻目はわずかですが・・・。
女工たちと歩いていたいねが、一人離れて放牧中の馬の群れの中へはいっていき、ハナを探します。ハナらしい馬が見つかって、今度はコゾウを探して見回しながら行く、その後ろをさきのハナらしい馬がついてきます。とてもユーモラスな、いい場面です。
ハナだとばかり思っていたら、それがコゾウだったのです。大きくなっていたので、ハナとばかり思っていたのです。再会を喜び、コゾウのまわりをめぐって見ているうちに、いねは泣き出し、コゾウにしがみついて泣きます。
いねは無断で工場を出て家に帰ってきていたのか、家では先生をまじえて、いねに工場へ帰るようにと諭しているようです。しかし、父親が、もう1週間だけ待ってくれと言います。仔馬を売って借金を返すから、ということらしい。
つまりいねは工場へつとめて、給料の前借か何かをして、いったん仔馬のコゾウを買い戻していたのでしょう。でもあらたにその借金を返さなければならないが、家にはそれを返すあてがない。それで、2歳馬になったコゾウを売れば借金返済のための金ができる、と。
こうして冒頭の馬検場のシーンに再び戻ってきます。ここで500円に売れれば、もういねが工場へ戻らなくてもよくなるのです。
いずれにせよ、コゾウはセリにかけられて売られるわけで、いねにとってはお別れです。いねはコゾウを送り出して泣いています。
セリが進み、いったん300円台後半でとどまりそうになりますが、いったん底を突破すると値はまたどんどんあがって、ついに400円も突破。最後に軍人が手をあげて、なんと軍馬として550円で買いとる、と言います。大喜びする父、母。でもいねは泣いています。
峠まで送って行き、泣き顔のいねの表情が、ひずめの音に耳をすましています。そこで幕です。
非常にみごたえのある映画でした。馬の出産シーンは見ごたえがあったし、高峰秀子のいねがハナの世話をかいがいしくして信頼関係が生まれるところ、そしてコゾウが生まれ、日に日に大きくなっていくころの、母馬、仔馬、いねの三者のはずむような幸せに満ちた光景は本当に素敵。
そして雪国の様々な風景。貧しさの中でときにとげとげしい言葉、悲嘆や呪詛の声も聞こえる東北の大家族の日々のありよう、どれも丁寧にみごとに描かれています。高峰秀子、父、母、それに知り合いの善蔵など、みな好演しています。
Blog 2018-10-3