幕 末
(伊藤大輔監督)
「幕末」(伊藤大輔監督)
昨日、たまたまプライムビデオのリストでみかけた、伊藤大輔監督の映画「幕末」を観ました。
坂本龍馬を主人公にその死までを、司馬遼太郎の幕末ものの小説から適宜エピソードを拾って綴ったもので、ストーリーは司馬が描いた龍馬のエピソードに忠実だったと思います。寺田屋で切り込まれたときに風呂場の窓からそれを知ったお龍(映画ではお良)が裸で(映画では吉永小百合を裸にするわけにいかないので(笑)湯上りを羽織っていたけれど)階段を2階の龍馬と護衛の三好何某がいる部屋へ駆けあがって知らせるシーン、それに続いて切り込まれた二人が戦う際に龍馬は短銃を撃って応じ、それでも切り込まれて指を斬られるシーン、そのあと二人は屋根伝いに辛くも逃れ、お龍は薩摩屋敷へ急を知らせに走る等々・・・
ラストで龍馬と中岡慎太郎が宿の2階に身を隠して、風邪をひきこんだ龍馬がシャモ鍋を食おうと、デッチにシャモを買いに行かせて待つところへ、何ものとも知れない数人の刺客に不意に切り込まれ、龍馬はほぼ即死だったろうと言われている一撃を受けて額を割られ、中岡と共に絶命するシーンも悪くはありませんでした。
伊藤大輔監督の作品は、京都文化博物館の映像ホールで特別上映された「忠治旅日記」や、ビデオ化されている大河内伝次郎の「御誂次郎吉格子」(いずれも完全な形で残っているのではないけれど)、あるいは「下郎の首」など、いいなぁと思って観てきたし、「反逆児」や「王将」で大勢のファンをつかんだ監督だと思いますが、この作品は監督72歳の遺作(亡くなったのは1981年83歳とのこと)だそうです。
出演者は、中村錦之助、仲代達矢、吉永小百合、小林桂樹、三船敏郎、中村賀津雄、仲谷昇等々、かなり錚々たる俳優陣を揃えています。構成やチャンバラも悪くない。
問題は俳優の年齢でしょうか。役柄とその人物が役の中のような活躍をしていた年齢、それを演じた俳優と俳優の映画公開の1970年当時の年齢を列挙してみましょう。年齢は実在の人物は単純に作品に登場する年代から生年を差し引き、俳優は映画公開の1970年から生年を差し引いただけですから誕生日によって誤差は生じるでしょうけれど。
坂本龍馬(薩長同盟当時30歳、死去31歳):中村錦之助47歳 ?16年差
中岡慎太郎(死去29歳):仲代達矢38歳 ?9年差
西郷吉之助(薩長同盟当時38歳):小林桂樹47歳 ?9年差
後藤象二郎(龍馬死のとき29歳):三船敏郎50歳 ?21年差
武市半平太(死去36歳):仲谷昇41歳 ?5年差
近藤長次郎(死去28歳):中村賀津雄32歳 ?4年差
お龍(龍馬死のとき26歳):吉永小百合25歳 ?1年差
こうしてみると演じた人物の年齢と演じる俳優の年齢がほぼ一致するのは吉永小百合のお龍(作品中のお良)だけで、5年以内のひらきだからなんとかいけるか、と思えるのは中村賀津雄の長次郎と仲谷昇の半平太くらいで、あとは主役の龍馬が16年、準主役の中岡が9年、三船の後藤象二郎にいたっては21年という実際の人物の年齢と演じる俳優との間に年齢の開きがあります。
ストーリーに絡むうえで年齢が重要な意味をあまり持たないわき役は、歴史ドラマではあっても、フィクションとして、たとえば後藤象二郎はこういう中年男だったんだ、と設定してしまっても、まぁ見るほうにそれほど違和感はないのかもしれませんが、幕末、維新の立役者がみな若い下級武士たちで、そのほとんどが若くして斃れたことは誰もが知っているので、彼らの名で中年男ばかりが出てきて、襟足も清々しい、熱血の情がほとばしるような印象の若侍が一人も出てこない画面に、大きな違和感を覚えざるを得ないのは当然でしょう。
いくら俳優はどんな年齢でもメイクや演技力でそれらしくリアルに演じるものだ、と言っても、歌舞伎の女形のように厚化粧するわけじゃなし、やっぱり肌の色艶や張りからちょっとした動作の機敏な印象、目鼻立ちの涼しさ、若々しい声、初々しい表情や喋り方等々、どんな名優でも9年も10年も演じるべき人物の年齢を開いていたら、観客に与える印象は中年男のそれでしかないでしょう。
個々にはその人物が中年の域に達していたと設定して悪いわけではないけれど、これだけ主役、準主役級の良く知られた中年俳優が演じると、劇空間全体が若い志士たちの爽やかな熱情がほとばしる空間から、分別のある中年武士たちと、いい年をして分別のない中年武士たちがはかりごとをしてはいがみ合うような淀んだ空気の漂う空間も変わってしまうようなところがあります。
本来なら見せ所の一つであるはずの、海舟を斬りに出かけて折伏される場面や、武市半平太、後藤象二郎、西郷や桂と対面して語り合う場面は、どれも新味がなく、気の利いた場面も無く凡庸で、大物俳優を登場させるためだけにつくられたようで、その俳優たるやみな若さの輝きを失った、何か意味のない個人としての中年の貫禄だけついた大物俳優を見せた以上の意味のないシーンになっています。
それに輪をかけているのが、中村錦之助のセリフ回しで、私は彼が東千代之介などと共に紅孔雀などに出ていたアイドル的な二枚目俳優だったころ、ゲストとして甲子園球場でのイベントに登場したのを遠くから眺め,マイクを通して彼の生の声を聴いたことがあるけれど、あのころには後の彼のようなもったいぶった喋り方はしなかったと思います。
いったい、いつごろから、あんなもったいぶったセリフ回しで通すようになったのか知らないけれど、ほかの映画でも彼一人あのセリフ回しで浮いてしまっているところがあるのではないか。伊藤大輔ほどの監督でも、錦之助さん、歌舞伎じゃないんだから、もうちょっと自然に喋れないかね、と言えなかったのでしょうか。時代劇に出てその時代にはなかった現代語を使ってみたり、軽々しいセリフ回しでお茶を濁すようなのがいいとは決して思いませんが、あれは逆にほかの俳優たちのセリフ回しとのバランスが悪くて、会話の空間をぶち壊しているような気がします。
私が見たほかの作品ですぐれたもの(忠治旅日記や下郎の首、あるいは王将)を見ると、この監督はイデオロギーとしてではなくて、いわば資質的なものとして、どこかアナ―キーなところがあるのではないか、という気がしますが、この作品では暗殺される直前の宿で、龍馬がいわば理想の国体論みたいな萌芽的な政治的主張として訥々と語って、そのあまりのラディカルなのに中岡が驚嘆し、恐れるシーンとして現れているようです。
そういうのが人民がどうの皇帝がどうの、というような政治的文言としてでなく、全篇を通した龍馬の振る舞いや何気ない言葉を通じて自然に描かれていたら面白かったろうな、というのは無いものねだりでしょうか。
登場人物の実年齢と唯一フィットしていた吉永小百合は(かつて私のあこがれの女優さんでもあったけれど)、残念ながら可愛いばかりで、私たちがお龍さんの肖像と言われる残された写真で見ることのできる、火のように激しく強い性格を秘めた、一度見えれば忘れられないあの表情をうかがうべきもないので、年齢的には合っていても、この作品の弱点をカバーする要素にはなれなかったようです。
blog 2021年11月18日