小田香監督「鉱」
昨日の朝、出町座で小田香監督の映画「鉱」を見てきました。
若い人が結構来ていたようですが、私の前の席の若者は爆睡していたようです(笑)。
それはある意味でまっとうな(?)反応かもしれません。
私も事前に若い女性監督で、タル・ベーラ監督の指導を受けた期待の映像作家というふうな、チラシだったか予告編だったか雑誌の記事だったか忘れたけれど、そんな噂を聞いた上に、滑稽なことに、小森はるか監督と混同する思い込みがなければ(笑)見に行かなかったでしょう。
タル・ベーラ監督については宣伝文句で色んな他の映画監督やら評論家が神格化するような伝説めいたことを言うのを信用したわけではないけれど、たまたま「倫敦から来た男」というのを見て、ちっともいいとは思わなかったけれど(笑)、女性の何の表情の変化も動きもない顔を固定したカメラで延々と撮り続けるような映像に何でこんな撮り方をするんだろう?こんなことする必然性がどこにあるのかな?何考えてんだろう?と否定的な意味で妙に引っかかるところがあって記憶していたので、そのお弟子さんの日本人作家というので見に行ってみようと思っていました。
小森監督というのは、これもたまたま出町座で「息の跡」を見て、このブログで感想まで書いたのですが、もともと健忘症の上に、映画など見てもタイトルや作者名はほとんど気にしないし、見た晩にブログに感想を書くときは大抵すでに忘れているので、チラシやウェブサイトで確かめながら書く有様ですから、震災についてちょっと面白い視点で撮った映画だったな、というのと、確か小田とか小川とか小谷とか、「小」の字のつくドキュメンタリー映画で期待の若手女性監督とかだったな、くらいしか記憶になかったので、この小田監督と全く混同して同じ人だと思い込んで、福島のあとボスニアに行って炭鉱で撮ったんだ、と思っていた次第です。でも違った(笑)。
私の前の席で爆睡していた若者の反応を、ある意味でまっとうな反応かも、と書いたのは、小森監督をはじめとする数多くの著名な内外の映画監督や評論家の絶賛にも拘らず、多分私のようなごく平凡なたまに娯楽として映画を見る程度の観客がこの映画を見て面白いと感じたり、感動するかと言えば、多分何のことかわからないな、どうしてこんな映画を撮ったんだろう?と思うんじゃないかな、と考えるからです。
もちろん小田さんはたまたま自分が遭遇したボスニアの炭鉱夫の姿に、あるいは彼らが働く炭鉱の現場の光景に心を動かされるような刺激を受けたのでしょう。刺激という身も蓋もない言い方をしましたが、それが監督の感じた「美」かもしれないし、なにかもっと強く猛々しく、言葉に表わしようのない重い存在感を持つものかもしれないし、眩い閃光だとか強烈なリズムだとか体が震えるような恐怖だとか、そんなものだったのかもしれません。
それはある程度映像から伝わってきます。そのインパクトがこの作品の強さだという気がします。
わずかしか見てはいませんが、日本で作られる映画で少し評判の良い映画のように言われるものを見て、なるほど面白かったな、と思うことも少なくはないけれど、総じて何となくチマチマしているなと感じ、若い人の作品でも、なんか映画祭の新人賞の取りやすそうなちょっとトンガって見せたような作品はあっても、こちらの心身を揺さぶるインパクトを感じさせてくれるような作品にはまずお目にかかれないような気がしています。
そういう意味ではこの作品にはある種のインパクトを感じるところはあるような気がしました。でも若者が爆睡できる程度の、ですが(笑)・・・
そんな奴は見る資格がないんだ、そもそも映画ってものが分からないんだ!と言いたげな、シネフィルだかシネアスト気取りの連中の「上から目線」には、もとより私はそんな人種ではないので組みしません。むしろ爆睡する、当たり前の感覚の方をベースに物事を考えたいのです。
例えば冒頭の炭鉱の奥深くに炭鉱夫を運び、掘り出した鉱石を外へ運び出す坑道を走るトロッコを巻き上げる機械の歯車らしいものやら何やらを延々と捉え、それらの機械が噛み合い、軋み合う凄まじいノイズを延々と聞かせる冒頭から、普通の観客はちょっと引いてしまうところがあるでしょう。
ちなみにああいうノイズを団地の前ででも大音量で響かせたら、必ずや圧倒的多数の住民から苦情が出るでしょう。映像にしてもノイズにしても、決してそれ自体で「美しい」ものでも「心を揺さぶる」ものでもなく、むしろ一般的には何の変哲も無い退屈な光景であり、不快な騒音にすぎません。
それを延々と見せられ、聞かされれて、無理してその場にいれば、身体の自己防御の一環として拒否反応が起き、爆睡するのもごく自然なことだろうと思います。
もちろんそんな光景やノイズに「美」を感じ、心を動かされる感性があっても良いし、自分が心を動かされたものを再現あるいはより凝縮され強化された新たな表現として創造しようとすることが映像作家としての動機付けになることはあり得るのでしょう。
ただ、それにしてはこの作品の映像や音の表現に、そうした輝きが見られたかといえば、私にはそうは感じられませんでした 。
ただ延々と坑道を奥へ奥へ下っていく坑夫の眼差しで捉えられる地底の暗がりの光景や、坑夫(実際にはカメラを手にした監督の、でしょうが)が頭につけたヘッドランプの限られた光だけが、地底のそこここのスポットを連ねる形で次々に捉える、その映像のある種の面白さというのは楽しめるところがありました。
ただ、ごく普通の観客が、美術展会場でコンテンポラリー・アートを見て、わけわからんなぁ、と絵が見るものを拒むような感覚を味わうところがあるのではないか、という気がしました。
そこには別にドラマはありません。炭鉱夫同士が言葉を交わし合う場面はあるし、無字幕版を見たので何を言っているのかは私にはわからなかったけれど、多分ドラマが発生したり。それを暗示するような場面ではなかったでしょう。
むしろドラマが発生するような契機は周到に排除されているというべきでしょう。
本来なら、炭鉱夫同士の間にも色々と人間的なドラマが生まれているはずだし、炭鉱夫だって仕事を終えて家に帰れば家族がいて、そこにはそれぞれのドラマがあるでしょう。でもそういうことは一切この作品では捨象されていて、ひたすら炭鉱の仕事場での炭鉱夫とその目に映る同僚の行動や採掘場でヘッドライトなどわずかな明かりに浮かび上がるモノの姿とそれら一切を包んでいる深い闇だけが映しとられています、
この種の作品を見ると、作品そのものを見て何かを感じるというだけでなく、なぜこういう作品を撮ったのだろう?という問いを自然に誘発されるところがあります。
だからあたかも目の前のものをあるがままに撮りました、といいう風に見える映像に、そうみえれば見えるほど極めて意識的な方法を見ない訳にはいかないのですが、そうしたドラマの類を全部カットしてしまった後に何が残ったのかと言えば、炭鉱夫のヘッドライトなどわずかな明かりのうちに浮かぶそれらのモノの姿、光景であって、その外側の闇を含むその映像そのものが、この炭鉱の姿だ、と。これが監督の心を揺り動かした炭鉱というものの凝縮され、強化された姿なんだということになるのではないでしょうか。
こういういわば余計な(?)ドラマの捨象と、坑夫達のヘッドランプなどわずかな明かりが浮かび上がらせるスポットとそれを包む闇を含めた光景の強い選択性が、この作品の表出価値の源泉なんだろうと思います。
私には映画作りの技術的なことやら現場のことは何ひとつわかりませんが、ボスニアなんかの炭鉱でこんな映像を撮るには、撮影許可を得るところから始まって、きっと面倒なことが色々あって、言葉の壁やら現場の慣習やら、わんさと制約があり、想像以上の時間もかかり、さらにまた素人がこんな危険な作業現場深くまで立ち入ることで生じる厄介ごとやらをクリアした挙句に、肝心の撮影を意図通りに行えるチャンスたるやごく限られたものに違いないし、想像を絶するような苦労があるに違いありません。
しかし、それは同じような映画作家なら自分に引き寄せて感じ入ったり、監督の労を称揚するのはわからなくはないけれど、私のような素人観客には関わりのないことです。
或る作家がジョイスがフィネガンズ・ウェイクを書くのに17年かけたように一つの作品を仕上げるのに十数年かけたとしても、それが、太宰が口述筆記で一気に一晩で書き上げた「駆け込み訴え」より出来のいい作品かどうかはわからない訳で、制作に費やした時間や労力の多寡は作品の出来不出来とは関わりがないし、苦労しただろうから座布団一枚!というわけにもいかないのは自明の理です。
この作品の映像価値の源泉は、今述べたように、対象によく適合した強い選択性にあると思いますが、ある種のコンテンポラリー・アートのように見る者を拒むようなところがあるのは、師匠のタル・ベーラも同じだと感じます。
作り手は対象を見ているけれど、その視野に他者としての観客は入ってこないような気がします。それはタル・ベーラという映像作家の頑固な作家主義というのか、私は彼のことは何も知らないので聞いて見ないとわからないけれど(笑)、作家は観客なんかどうでもいい、自分が真に自分自身にとって不可避なものだと思えば、それにまっすぐ向かい、それを捉えれば良いので、それが芸術であって、観客なんてものはどうだっていいんだ、という古典的でオーソドックスな、芸術観の持ち主なのではないかな、という気がします。芸術=芸術家の自己表現、みたいなね。
だからこの作品も、監督が心を揺さぶられた炭鉱(で生きる人々)の光景を強い選択性を武器に再創造してみせた、その凝縮され強化された映像を「美しい」と心揺さぶられない者は縁なき衆生だ、と(笑)。
それで作家の方から観客を選ぶ作品、セレクトショップみたいに(笑)、わたしはその美を感じるセンスを持ってるぜ、と言いたいスノッブが大勢集まるようなところがあって、私のような通りがかりの観客はなるべくそんな人だかりは避けて通りたいけれど、作品自体は良い意味でインパクトのある、いまどきの日本の若手作家の作る映画としては珍しい作品だったので一言感想を記しておこうと考えた
次第です。
けれども、それにしてもなぜボスニアなんだろう?(笑) あるいはなぜ炭鉱なんだろう?
もちろんたまたまこうこうこういう経緯で出遭ったんだ、というのであったって構わないんですが。
でも別段ボスニアでなくたって、日本にいくらもあった(今は知らんけど)炭鉱でも良かったでしょうし、炭鉱じゃなくて町の豆腐屋さんでも良かったんじゃないか(笑)。
それは私たちの暮らす遠い島国にまで聞こえてきていた戦乱の地で生産を続ける炭鉱という厳しい現場でなければ出遭えない張り詰めた空気や働く男たちの表情というものがあったかもしれないけれど、どんなに平穏に見える日常の中にも、ボスニアの炭鉱夫たちがもつ存在感や、生死の境を渡るような緊張に満ちた時間を生きる仕事の現場というのはあると思います。
逆にまた、豆腐屋さんが仕事を終わればよき親父さん、よき夫として家族と団欒の時を過ごしたり、痴話喧嘩をしたりといった存在になるように、ボスニアの炭鉱夫たちも仕事が終わって家に帰れば夫として親父さんとして、家族と食事を共にし、痴話喧嘩もするでしょう。そこに何も違いはありません。
地下何百メートルか知らないけど闇の支配する地底深くの採掘現場で命を張って働く坑夫の姿や、その生き方に心を動かされるなら、まだ私たちが深い眠りのうちにある闇の中を起き出して今日1日の豆腐づくりの下ごしらえをする町の豆腐屋さんの生産現場もまた、彼の生をかけた張り詰めた空気の支配する現場であって、そこには少しも価値の違いはないように思いますし、そういう日常の中に人間の強さも弱さも、生きることの意味も見ることができるのが(映像)作家なのではないかと思います。
その余のことは、初期の民族学者たちのような自分たちの身近な世界にないものに心惹かれる異民族の生活への物珍しさやエキゾチシズムに過ぎないでしょう。
この作品を礼賛している著名な映像作家たちや評論家たちが、色々と自分の解釈をして塗り絵を塗るようにいろんな色で塗りたくるのは勝手だけれど、多分彼らはみんな幻想に携わる人たちで、自分が坑夫としてこういう坑道へ毎日降りていくような生活をしたことのない頭でっかちな人たちでしょう。私だってそんな経験はないけれど(笑)。
しかし、ここに捉えられた炭鉱夫たちは現に自分たち自身がこういう仕事をしているわけで、これが彼らの日常生活なのですから、こういうことはみな当たり前のことだと思っているわけです。だから、そういう彼らの姿を捉えに、彼らの間へ入っていく映像作家の姿勢、その目、その姿勢が必然的に厳しく問われることになると思います。それはそういう言い方をしてもよければ、余計なことだからです。
私たちは子供の頃から色んなことを学んで知的に上昇していくことで必然的に生活の地平から幻想によって乖離していくけれど、それはただ精神の遠隔対象性による自然過程に過ぎないので、そこに価値はなく、生き方としては多かれ少なかれ価値のある生き方からの逸脱に過ぎないんだ、ということは私が若い頃に尊敬する思想家から教えられた最も重要なことでした。
その「最も価値のある生き方」を体現しているのが、ここで描かれた炭鉱夫たちや私が対照させてきた豆腐屋さん(笑)のような生き方であって、彼ら自身は自分の仕事に誇りを持っていると思うけれど、別段インテリさんたちが考えるような意味で価値ある生き方だとか余計なことを考えているわけではないでしょう。
でもそこへ介在していく、余計なことを考える連中はその入り方を問われることになるでしょう。それは単なる物珍しさや好奇心で、あるいは素敵だと思いました、感動です!では済まないのではないか。
私が注目したのは、監督にカメラを向けられた時の坑夫たちの表情でした。
別に互いに言葉をかけるでもなく、何か働きかけをするわけでもない。 監督はカメラの目になって撮っているだけで、その捉えられた風景の中にたまたま姿を現す坑夫たちは、普通なら「お前こんなところで何してんだ!あぶねえじゃないか!」と咎めてさっさと追い出すでしょうが、こちらをチラッと見て、あぁ、あの映画を撮りに来てる姉ちゃんかという表情(笑)をして黙って通り過ぎたりするわけです。
その時のほんのわずかな瞬間だけれど、チグハグな被写体と撮影者の関係性が、こういう「作品」によって彼らの「最も価値のある生き方」に介在していく映像作家の困難さを物語っているように思います。多分私がそんなことを感じたようなシーンは、監督自身は全部カットしてしまいたかったのではないかなと思います。
多分そうすれば、この作品はもっと坑夫の目線で捉えた客観的な現場の断片映像の連なりのように見える作品になったでしょう。
そうすれば、多くの観客にとっては、へ?え、あちらの炭鉱の現場ってこんなところなんだ!という、見たことのない世界が見られる物珍しさや好奇心で近づく以外には、拒絶されるほかはない、いっそう観客を拒みも選びもする性格をはっきりさせた作品になったでしょう。
この世界にあるとも思えないほどの別世界のようにも見えるもう一つの現実の世界、明るい日常世界を反転させたネガの世界みたいなボスニアの炭鉱の労働現場の光景を、あたかもただ客観的に切り取って見せたかのような、その意味で並みの観客を拒むような硬質な世界が、本当に今高く評価され、広く観客に受け入れられるとすれば、そこには一つの状況的な理由があるように思います。
おそらく既存の映画のドラマ性みたいな、この作品の対極にあるようなものがどれも皆嘘っぽく感じられてしまうようなところへ来ているせいではないか、という気がします。
そういう状況が物語性の復権によって打開されるのか、むしろそれをも拒否して、さらに徹底して解体の方向へ向かうことによって道が切り拓かれるのか、映画の動向なんてものにも疎い私には分かりませんが、こういうそれこそ鉱石みたいに硬い凝縮された得体の知れない何かの塊みたいな作品が、これを蹴飛ばしていくにせよ礼賛して後生大事に奉って進むにせよ、岐れ道に置かれた試金石みたいなものに見えてくるのは門外漢として面白いところです。
2019-10-20