パリはわれらのもの(ジャック・リヴェット監督) 1958
これはちょっと不思議な味わいの作品でした。主人公と言っていいパリの女子学生アンヌが見聞きし、巻き込まれるできごと、それはひょっとしたら実態のない妄想かもしれないのだけれど、ファシズムの亡霊みたいな秘密結社がからむ陰謀による殺人事件(最初のはひょっとすると自殺かもしれない)と、いまひとつ関わる人物が重なることでこれと同時並行的に進行する演劇公演に向けてのリハーサル
で、この二つの糸が何人かの登場人物を相互につなぎ、複雑にからませながら、何が起きているのか、自分や周囲の人間がそこにどんな意味をもって関わっているのか、謎がむしろ深まって、次の殺人が起きる予感と不安の中を、謎を解こうと走り回るアンヌと共にわたしたち観客も暗中模索の感じで歩くような展開の中で、第二、第三の殺人あるいは自殺が起き、それで通常のクライムサスペンスのように犯人は誰某でした、こうした陰謀が仕掛けられた結果でした、というふうな種明かしにはならず、一見そうとも見える登場人物のセリフはあるものの、それ自体が真実かどうかもわからないし、ひょっとする妄想に過ぎないかもしれない、という不可解さを残したまま幕となるお話です。
この不可解さというのは、解答がちゃんとあるのに登場人物なり映画のつくり手なりが隠して見せないようにしている、あるいは意図的に曖昧化しているために、ヒロインと観客にだけ真実が見えなくなっている、というものとは違います。例えば黒澤の「羅生門」あるいはその話の中心部分の原作である芥川龍之介の「藪の中」は真実が観客・読者には分からないけれども、起きた現実は一つであり、登場人物はみなそのたった一つの事実を知っていて、それぞれ誰が本当のことを言い、誰が嘘をついているかも知っているはずです。ただ、それぞれ自分の利害というか名誉を守るためというか、或いは憎悪や愛情や嫌悪の感情でひきよせたためというか、いずれにせよ認識とのズレを承知で虚偽を含む証言をしているわけで、その作品が指し示しているのは、そういう虚偽の証言の背後にある人間のエゴであって、必ずしも、世の中にたったひとつの真実なんてない、とか、事実がひとつであっても、それがこうだと語る真実は、それをとらえる主観の数だけあるんだ、という一種の不可知論あるいは相対主義的な考え方ではないだろうと思います。私が多襄丸を裁く裁判官であれば、彼らの証言は聞き置いて、その証言外の物的証拠や状況証拠をより綿密に調査して、証言の嘘をあばき、真実はどうかをさぐりあてようとするでしょうし、「羅生門」あるいは「藪の中」の設定なら、それは可能なのだと思います。
しかし、「パリはわれらのもの」で起きている「陰謀」「犯罪」らしきものについては、おそらく個々の証言に確たる根拠がないことは、個別に精査していって明らかにできると思いますが、「真実」が明らかになるかと言えば、大変疑問です。
だいたい「ファン」という、登場人物たちのつながりの最初の要の位置にある人物の、それ自体が物語の発端となる死自体が、自殺なのか他殺なのかも本当にはわかりません。アンヌが彼が死んだ家を尋ね当てて、ファンが死んだすぐあとに見た女性が自殺だったと言うのではありますが、それは「恐ろしい秘密を洩らされ、追い詰められ、耐えきれずに」死んだ、秘密結社による陰謀による事実上の他殺に相当するような死であったかもしれないからで、登場人物たちによって、そういった可能性が繰り返し強調されるのです。
いや、少し先走りすぎました。冒頭は1957年6月のパリ、と明示された時と場所。本を朗読しているアンヌの姿で始まり、彼女の耳にすすり泣く女の声が聞こえてきます。すぐ隣の部屋で、覗いてみるとソファで泣いている女がいて、ファンという男が殺された、と言います。「これが始まりで、彼の友達が次々に殺されていくだろう、世界に危険が迫っている、皆に知らせないと・・・」とその女はちょっと頭がおかしいんじゃないか、と思える妄想みたいなことを喋ります。
あとでアンヌは兄のピエールにこの女のことを言い、部屋を再度兄と訪れますが、彼女は忽然と姿を消しています。
ピエールは統計の仕事みたいなことをしているとかで、町でアンヌと待ち合わせて二人で話しているところでは、アンヌはひと月ほど前にパリに来たばかりのようです。兄は親と意見が違う、ということでもっと前からパリに一人で住んでいたようです。アンヌはいまパリの大学に通っていて、試験に悩まされていると言っています。
この兄のピエールが、画家ベルナールのところへ行くからついておいで、とアンナを誘い、彼女がその家へ兄と行くと、あとで出てくるピエールの友人・知人たちが集まっていて、その中で、アメリカからマッカーシズムの赤狩りを逃れてパリへ来たという国際記者かなにかを名乗るフィリップ・カウフマンというちょっとエキセントリックな感じの政治亡命者といった位置づけの男に出会います。
ここでアンナはフィリップから、ファンがスペイン人のギタリストで、ナイフで自殺したと言われているが、実際には「パリに殺された」のだ、ファンを自殺に追いやったものがある、という話を聞かされます。
フィリップはこのサークルで鼻つまみのようで、「ここはグリニッジ・ヴィレッジじゃないんだ、俺たちと離れてはどうだ?」と事実上出ていけと言われますが「泊まる場所がない」と言うと「今夜はいいさ、著名人を宿なしでほうりだすわけにもいかんしな」みたいなことを言われるような場面があります。
ここでフィリップはかなり酩酊していて、しゃべっている相手をひっぱたいて騒動を起こしたりします。
また、この集まりの中にテリーという女もいて、最近ファンを捨てた女だ、と言われています。
翌日、友達だったか、ジャン=マルクという男と待ち合わせたアンヌは大学の食堂みたいなところで順番待ちしています。彼女らの少し前に昨晩話したフィリップが並んでいて、食堂のおばさんに学生証か何か求められて、持っていないので、断られ、列を出ていきます。
アンヌたちも列を出て、ベンチでバケットをかじることにします。
ここでアンヌはジェラール・レンツという男(演出家)に会い、シェイクスピアの「ペリクリーズ」上演のために劇団員を集めた、来ないか、と誘われて、リハーサルの場所へ行きます。
舞台で演出家のジェラールが、リハーサルで劇団員を厳しく指導しています。劇団員の男が、劇団をやめる、とジェラールに言って出ていきます。アンヌは稽古を見て言ってもいいと了解をもらって観ています。
すると、ジェラールが脚本を読んでくれると助かると言います。戸惑いますが、アンヌは引き受けます。
アンティオキアの海岸が舞台のようです。
"・・・ひと突きさ・・・バレるはずがない・・・・決心は・・・・"
朗読で聴こえてくるのはどうもやばそうな陰謀の場面です。(私はペリクリーズを読んでいないので中身は知りませんが・・・)
"大地から花を奪い・・・"と台本を読み始めるアンナ。小さな扇風機を当てられ、髪なびかせて、風になったのでしょうか。" この風は・・・南風・・・私が生まれたときは北風でした・・・"
ジェラールと話しているアンヌの会話から、彼女はいま文学部の学生であることを私たちも知ります。
テリーがフィリップを同乗させた車でやってきます。
「またあいつか。やつは被害妄想だ」とフィリップのことを言ったのはジェラールだったか。
女性のことは「テリー・ヨーダンだ」とアンヌに教えます。ジェラールといまつきあっている女性のようで、リハーサルを客席で見ています。
フィリップのセリフ。たまたま後を追うような感じになっていたのを「なぜぼくを監視する?」
彼は今夜からカネット通リのホテル住まいだ、とアンヌに告げます。また、「ファンは自殺かどうか分からない、重大な秘密に耐えられず自殺した。次に殺されるのはジェラールだ。でも君なら助けられるかもしれない。」そう言われたアンヌは戸惑うばかり。なぜ私?
(このあたりで、アンヌが、「隣のスペイン人の女の子が消えたのよ」とピエールに告げます。)
アンヌはフィリップの感化か「テリーのせいで、ジェラールに危険が迫っている」とピエールに告げます。ピエールはむしろ「あやしいのはジェラールだ」と言います。混乱するアンヌ。試験は明日です。
カネット通りのホテルにフィリップを訪ねるアンヌ。でもホテルの人から、彼が泊まっていない、と告げられます。彼女は電話を借りてジェラールに連絡しようとしますが、不在のようです。
それから、これは別のホテルだったのかな、アンヌがカウフマンさんは?と尋ねると、いるとの答えで、5階の19号室だ、と。
行って見るとドアが開いていて、室内にフリップが倒れています。でも、すぐにフィリップは起き上がり、なんともないようで、倒れるのはミッドウェイでの後遺症で、とのこと。癲癇みたいな発作をときどき起こすようです。
フィリップはアンヌに「すべて忘れろ」と言います。そこへテリーが入って来ます。フィリップはテリーに、「ジェラールと別れろ。彼には荷が重い」と言います。でも彼女は「いやよ。彼が必要なの」と答えます。
ここらで、フィリップとテリーは何らかの秘密組織のメンバーとしてつながっていて、秘密を共有しているらしいこと、テリーはつきあっているジェラールに、その組織の秘密をまだ明かしていないようだけれど、近い将来明かして彼に何かさせようというのか、企んでいるらしいこと、しかしフィリップは同じ組織のメンバーとしてジェラールを信用しておらず、やめたほうがいい、と思っているらしいことがうかがえます。でもそれがどんな組織なのか、どんな秘密なのか、何をしようとしているのか、といったことは何も分からないままです。ただ秘密―組織ー陰謀みたいな妄想かもしれない表象が登場人物をつないでいる(つないでいく)ことだけが目の前で展開される物語の推進力になっています。
アンヌはジェラールに会い、出演依頼を受け、同時に「ペリクリーズ」についてどう思うかと意見を訊かれます。彼女は「まとまりがない。でも目的をもった物語。そのちぐはぐさがいい。バラバラだけれど、つながっている全てが大団円でピタリとおさまるべきところへ収まる。・・」というような意見を述べ、ジェラールは賛意を表し出演を請います。このときの彼女の「まとまりがないが、すべての要素がひとつの方向に収束していく」という意味の「ペリクリーズ」評は、この「パリはわれらのもの」自体にもなんとなくあてはまるような気がします。大団円とはいかない(と思う)けれど、見ていて一貫したひとつのストーリーを追えばたどれるような物語りでもないし、あらわれる様々な人物、様々な要素にまとまりがあるようにも思えない、という点で。
ジェラールはアンヌに、「ファンに曲を頼みたかったが、テリーの部屋で彼が作った音楽を録音していたが、そのテープが消えてしまったんだ」というようなことを言います。ひとつ具体的な謎が生まれているわけで、アンヌは以降、この消えたテープを追うことになります。それはなぜ消えたのか、誰が持ち去ったのか・・・。こうして謎が謎を生み、それを追っかけることが物語の推進力になっているけれど、それを追うことにどんな意味があるのか、それ自体が謎のまま、ただ追っかけるという契機が生まれ、それが物語をひろげ、推し進めることだけが重要であるかのようです。
ファンはテリーの彼氏で、ジェラールの親友でもあった、とジェラールは語ります。
セーヌ川を行く船が橋の下を通って行きます。こういうパリの光景を見るのもこの映画のひとつの楽しみです。
アパートに帰ってくるアンヌ。隣(56号室)のスペインの女性は消え、部屋はからっぽです。ピエールに試験は?と訊かれ、やめた、いまはそんな気分になれない、とアンヌ。もうすっかりファンに始まる謎が謎を呼び次々に目の前にあらわれてくる迷路の中に迷い込み、巻き込まれてしまったアンヌ。
迷っていたアンヌですが結局演劇への出演を了解します。リハーサルの現場ではまた一人、ジェラールとぶつかって劇団員が去っていきます。アンヌはセリフを間違え、棒立ち。客席でテリーが見ている中で、動揺している様子です。
テリー「音楽を付ければいい。ファンのを」
ジェラール「君が見つけてくれればね」
テリー「いや!」
・・・と、ファンの作曲し、録音されたはずのテープをめぐって、そんな会話が交わされます。
テリーが恐ろしい秘密を洩らしたことでファンが死に追い込まれた、とフィリップに言われたことを、劇団員の親しくなった女性(ミナと言ったかな・・)に告げ、彼女の協力で、ファンの死んだ家を探し当てたアンヌは、そこへ行ってファンの死について尋ね、テープを探そうと、訪ねて行きます。
ファンの死んだ家には、ファンが死んだとき一緒に住んでいた女がいて、テープのことは聴いていないが、あの日、彼女が母の家から夜になって帰ってきたら、ファンはおなかを(ナイフで)刺して死んでいた、と言います。そして、世の中の堕落だろか、世界の終わりだとか、そんな話ばかりしていた、と証言します。「覚悟の上の死だ」と。
アンヌは、テリーの何かがファンを変えたのだと確信します。陰謀とか・・・と。
アンヌはファンに目をかけていた、という大学教授ジョルジュ博士(経済学)を訪ねます。なにか独善的な感じのするえらそうな老人です。ファンのことを聴くと、目をかけていたようにも思えない酷評を言って聴かせます。いわく、「過激な個人主義者、破壊主義者だった。彼の音楽には失望した。テープは一度聴いたな。ひどいものだった。彼は録音を録らない主義だった。これ以上テープを探してもみつからないよ」と、取り付く島もない言い草。
教授のところを訪ねたことを聴いたピエールは、無謀だ、と心配しますが、アンヌは「(彼は)何か隠しているわ」と教授に疑いの目を持っています。
場面かわって舞台稽古の場。ピエールが、稽古をみてもいいか?本心は困る、だろう?とジェラールに声をかけますが、どうも本心はピエールの言うとおり、ジェラールは迷惑そうだけれど、勝手にしろ、と放任します。メンバーがまた欠けています。苛立つジェラール。
アンヌも動きが乏しくて、ダメ出しばかりされています。
劇団員の友人(ミナ?)は「テリーに訊くだけ無駄」と言います。「ジェラールは謎めいたテリーに夢中だしね」と。
稽古途中でアルバイトに出ていく、役者をやっている劇団員。怒るジェラールに、じゃ給料をくれるのか、みたいに居直って反抗して出ていく劇団員。ジェラールの苛立ちは増すばかり。
アンヌがフィリップの部屋を訪ねると女といちゃついていたけれど、女を追い出して、アンヌの相手をします。「舞台なんてインテリの暇つぶしだ」とジェラールのやっていることには極めて冷淡なフィリップです。そして「テリーは危険な女だ」と言います。フィリップの言うことを聴いていると、フィリップ自身が妄想癖なんじゃないかと思えてきます。
アンヌはまた、テリーの住まいを訪ねます。テリーは、腐りきった社会、最後まで居たくない、脱出したい、というようなことを口走ります。
アンヌは再びフィリップを訪ねます。隣室の女に部屋へ導かれると、壁に彼女の写真が貼ってあります。パリで自由人に会えるという幻想をもっていたようだ、とファンのこと(だったと思う)を聞かされます。ニューヨークから来た女に振られたらしい、と。どうも写真はファンの妹らしい。ファンの妹は活動的な闘士だったが、行方不明だ、と。
どうもファンがスペイン人だというのが一つのポイントで、彼も彼の妹も「活動的な闘士」だった、というのは、おそらく反フランコ派の闘士で、スペイン内戦が収束し、ドイツ、イタリアのファシズム政権が打倒されたあとも、ファシストたちの秘密結社みたいな組織の陰謀で、パリに亡命していた彼らは消されてしまった、という一つの仮説的な妄想を、この映画を見ている私たちのほうも思い描くことになるでしょう。そのファンは自殺ということになっているし、妹はまったく行方不明、この作品で何度もその名がかたられるファンその人も、遺骸としてでも肖像としてでも、全然登場しないのですから、本当のところは何もわかりません。
スペイン内戦はヨーロッパやヘミングウェイなどアメリカからも義勇軍が参戦した人民戦線側がフランコ・ファシスト側に敗れて、人民戦線に参加したスペイン人たちは亡命を余儀なくされたわけですが、フランコは悪賢いやつで、ドイツ、イタリアのファシスト政権が倒れても、ピレネー山脈の南までは連合国の影響を這い込ませず、硬軟両様の巧みな支配を打ち立てて、その軍事独裁を守ったわけで、地下にもぐったドイツ、イタリアなど枢軸国側のファシストたちとは秘密裏につながって戦後もその秘密組織が暗躍する後ろ盾となってきたことは明らかでしょう。そうした背景がこのファンをめぐる謎にはひかえているのだろうと思います。
アンヌが部屋に帰るとジェラールから集合の置手紙があり、行って見ると、シテ劇場での劇団公演が決まり、30公演の契約を結んだ、と。予定に穴があいて偶然舞い込んだ吉報でした。
ここでテリーはジェラールに、お別れよ、と別れを告げていきます。
劇団の公演は決まったけれど、上演には役を換えること、という条件がある、ということで、アンヌは御用済みになってしまいます。申し訳なさそうにそれを言い渡すジェラールは、音楽も押し付けられるだろう、と言います。「何かの罠では?」とアンヌ。台本をジェラールに返して劇団を去っていきます。
テリーの部屋へアンヌから会いたいという電話。テリーは誰とも会わない、と答えています。
フィリップを訪ねるアンヌ。何か頼んでいますが、フィリップは拒んでいます。
隣の女から、警察の手入れがあった、フィリップは逃げたけれど、これを待っていた、こういう形でしか自分の正当性を明らかにできないから、と言っていた、と。
劇場にジェラールと訪ねるアンヌ。舞台では新たに決められた役者の一人が、脚本にはなかった、指をなめて風にさらす動作を提案し、ジェラールは反対しますが、上のやつがいいだろう、と許可します。また演出になかった船を登場させる話が出て、これもジェラールは驚いて反対しますが、上のやつが美術監督に任せろ、と受け容れます。もう完全にジェラールの芝居ではなくなっています。
ジェラールはアンヌが(王妃の代役よ、という口実で)楽屋へ来ていることを知ってメモを届けます。そこには、「タニヤ・フェディンス(失踪した女)のことを知っている。日曜に会った。」とあります。
テリーが演技の練習をしています。
”ロンドンで男が死んだ。遺体にはヒロシマの跡があった。終末は・・・”
テリーはアンヌに語ります。「ファンが死の3日前に取りに来たわ、と。妹のマリア・アルメイは使命を帯びて来ていた。彼女は既に逮捕され、死んだと思う」と。「秘密に触れた人間は死ぬ。アメリカ人が(フィリップのことだろう)が帰るのを待ちなさい。私には耐えられない・・・あきらめるわ。待つことは難しい。・・・」(テリーの言葉は意味不明なことが多い。妄想かもしれない、という想いを一層強く持ちます。クールにみえて、現実と妄想が入り混じっている印象は彼女が一番強い。)
ジェラールがアンヌを訪ねてきます。劇場の契約をやめた、と。一つ譲歩すればきりがない。上のやつ(ボワローとかいう)が自分の演出でやることになった。劇団員は全員クビだ、と。そして、アンヌに(自分の)支えが必要だ、と言いますが、アンヌは「好きよ」と言いながら、「でも勉強しないと。10月に試験が・・」と答えます。「じゃ平凡な結婚をして人生を終わるんだね」みたいな皮肉な捨て台詞みたいなことを言うジェラールは、「それじゃ逃げ道はただ一つだ。窓から飛び降りること・・」と演劇の台本のセリフらしい言葉をお芝居めかして言うと、出て行きます。
そうしたやりとりを兄ピエールに話したアンヌは、慰めてもらい、送ってもらいます。
部屋に帰ると置手紙がドアの下にあります。
「12時までに電話を。自殺する」とジェラールです。時計を見ると既に12時をまわっています。アンヌは手紙を丸めて投げ捨てますが、再び拾って、椅子に座り、雑誌を広げますが、時計を確かめ、結局コートを着て出かけるアンヌです。
凱旋門の横を通り、パリの石畳を小走りに駆けていくアンヌ。フィリップを訪ねて行きますが応答なし。電話をかけますが、カウフマンさんは1週間は見ませんよ、と。
そこでピエールに電話しますが、彼の方は女とベッドにいて、電話に出ようとしません。
ジャン=マルクに電話し、車でジャンの待つところへ急ぎます。車中から見えるパリの揺れ動く不安げなモノクロの光景はアンヌの心象風景そのもののようです。
ジャンの待つところへ行くと、ジャンは、冗談さ、部屋に誰もいない。仲直りしてテリーの家にいるのかも、と言います。
そこでまた2人でtクシーに乗って走り、電話ボックスへ駆けこむアンヌ。テリーはジェラールのことを知らないようで、フィリップと一緒です。すぐ来られる?とテリー。
それを横に居て、「なぜ(アンヌを)呼ぶんだ?俺は会いたくないよ」と隠れるフィリップ。アンヌが来て、テリーは「あんたが動いたって駄目よ」と言います。アンヌがテーブルの上のテープに目を止め、それは?ときくと、「ファンの録音よ」。
「なぜジェラールに渡さないの?」
「さあ・・・こわかったのよ。ファンの時と同じで・・・」
「どんな秘密なの?」
「フィリップよ。・・・よく話してた・・・1945年のあの男の死で、今度は世界規模で企てられた陰謀なのよ。この30年で手法が変わった。水面下で、すべてを政治と科学と一つにして捧る・・・その日のために彼らは準備してきた・・・屈しない者は潰される・・・秘密を守ること。裏切れば死。一人では抱えられない・・・。ヨーロッパへ来れば逃げられると思ったのよ。ある日私に打ち明け、彼は気が楽に・・・。秘密をかかえた二人が暮らすのが息苦しくて別れた。解放されるには、誰かに話すか自殺するしかない・・・」(テリーの言葉はいつも不可解さを含み、よくわからない。妄想のようにも思えます。)
アンヌはジェラールの所へ行って、ドアを破ってでも会う、と。そうしてアンヌがかけつけると、アパートの前で、女性劇団員と二人でいて、ぴんぴんしているジェラールに遭遇します。彼からの手紙というのを見せると、「ぼくがこんなものを書くわけがない」と一笑に付します。
バベルの塔を描いたモノクロ無声映画を見る人たち。
悪夢が終わって「常識で考えるのが一番さ」とピエール。
フィリップからアンヌに電話がかかります。彼が死んだ?嘘よね?!すぐ行く・・・とアンヌ。「ジェラールよ」とピエールに言うと、ピエールは「行くな」と言います。「もう許せん。すえてバラシてやる」とピエール。ピエールも何か秘密結社がらみの秘密を持っているようです。
テリーが見守るベッド。横たわる(死んでいる)ジェラートにだきつくアンヌ。
(アンヌ)「みつけたのは?」
(フィリップ)「テリーだ」
(アンヌ)「本当に自殺なの?」
(テリー)「たぶん」
(アンヌ)「殺人?」
(テリー)「たぶん」
(アンヌ)「自殺でないと言えるの?」
(フィリップ)「わからん」
(テリー)「私が悪いのー彼を助けようと思って・・・ ・・世界を強制収容所にする・・・」
アンヌにピエールから電話が入ります。
「罪は俺にある・・・俺は止めたんだ。・・・理由も犯人も知っている。口止め料を断ったら脅された。助けてくれ。地下鉄で××駅へ来てくれ・・」
アンヌはテリーが運転する車で待ち合わせ場所へ行きます。二人のりだから、とアンヌに後でタクシーでフィリップのところに来るように言ってアンヌを降ろし、ピエールを乗せていきます。ピエールは「パリを離れたい」と言います。
フィリップのところへアンヌが行くと、先に出たはずのテリーたちは来ていません。
フィリップは、ピエールを疑っていた、とアンヌに打ち明けます。ファンの妹の手紙に、ファンがファランヘ党の指示で殺されたとあった、と。(ファランヘ党はスペインのファシスト党ですね。)
ここで、テリーがピエールを拳銃で撃つシーンが入ります。
そして、テリーだけが車でアンヌたちのところへやってきます。
「ピエールは?」
「降りたわ。」
テリーが殺したのよ!とアンヌはテリーにつかみかかります。フィリップはテリーに「ピエールは犯人じゃなかった!」と叫びます。どうもピエールが裏切り者で、ファンの殺害者だとフィリップやテリーは考えていたようです。
突然フィリップが倒れますが、テリーは「いつもの発作だから」と気にもとめません。
「ジョルジュが資金を握ってジェラールを上演中止に追い込んだのよ。ピエールはジョルジュの手下だった。組織なんてフィリップの妄想よ。組織ならもっとうまくやるわ。ピエールはただの番犬だった。どんな命令にも従っていた・・」
こんなふうにテリーの口から一応種明かしらしいことが語られますが、それが真実かどうかは分かりません。フィリップもテリーも、どこまで真実を語り、どこまでが「組織」の一員ゆえの嘘なのか、あるいはそんなものは何もなくて、ただ個人的な妄想にすぎないのか、それも含めて謎のままです。
テリーも去り、アンヌのうしろに劇団員の男の姿。ペリクリーズをやる、と。
ラストシーンは、湖を低く飛んでいく白鳥の姿です。暗いモノクロの風景で、白鳥の啼き声らしきものも聞こえます。ここで幕です。
さて・・・(笑)長々と追っかけてきましたが、いっぱい欠けている重要なエピソードがあったかもしれませんし、見過ごしたところ、見れていない部分、セリフの聞き間違いなど無数にあることでしょう。一度見たきりで、ネット上に出ているあらすじの類を横目にみながら、網膜に焼きついている映像を忘れないうちに書き留めた中身としてはこの程度が精いっぱいです。またいつか見る機会があれば、あぁ、あのときこんな重要な場面を見過ごしていたな、とか、セリフが全然違っていたな、とかいまの見方の欠落がよく見えるだろうと思います。そのときのためにも、ちょっとややっこしいこの作品についてはこれだけ自分だけの記録を残しておいた方がいいかも、と思ったのです。
このいい加減なトレースによっても、確かに2時間21分の比較的長尺の作品ではありますが、場面転換が多いことがわかると思います。映画業界固有の言葉は知らないので、小説なんかでいう場面転換なんて言葉を使いましたが、場面の選択と転換は小説では価値の源泉の一つですが、映画でもその点は同様でしょう。この作品の場合は、アンヌが謎の解明を求め、失われたテープを求めて、フィリップを訪ね、テリーを訪ね、ジェラールと会い、ファンが死んだ場所を訪ね、とパリの街をめまぐるしく駆けずりまわることが、この場面選択と転換の頻度と多様性を支えています。そして、それが言語で言えば指示表出の広がりに相当する、彼女の他者との出会い、つながりを広げ、深めていくと同時に、謎は解き明かされるよりも、ますます深まっていきます。それは、彼女が関わる一人一人の登場人物、その言葉や行動が、彼女やジェラールが「ペリクリーズ」について評したように、「つながってはいるけれど、バラバラで、まとまりがない」からで、いわば指示表出のベクトルがそれぞれてんでバラバラな方向を向いているからです。
それが最後は「大団円でぴたりと収ま」ったと見るかどうかは見る人で違うかもしれません。いちおうテリーの言葉で、フィリップの言うような秘密結社的な「組織」があったかどうかは別として(テリーは「組織」なんてフィリップの妄想だと言います)、背後にスペインのファランヘ党につながるようなファシストたちによる(亡命)左翼分子抹殺の力学が働いており、ジョルジュ博士などはそちらの側で、ファンやジェラールは実質的には彼らに殺された、少なくとも、追い詰められた状況に耐えられなくなって死を選んだのであり、それに抗い亡命左翼分子を支援するテリーーフィリップーファンーピエールらの組織ないしは秘密の結束があって、ピエールは実はジョルジュの手下で、裏切り者だから殺した、でもフィリップによればそれは間違いだった・・・等々というような絵解き的なものを描いてみることができなくはないと思います。
けれども、よくリヴェットのミステリアスな作品に現れる特徴的な表象としての、秘密結社、陰謀といった政治的な意味を背後に担ったこういう要素は、私にはちっともリアルなものと思われず、むしろなんだか子供じみた滑稽なものに見えます。だから、フィリップのエキセントリックな物言いが典型的ですが、落ち着き払って冷徹にみえるテリーにせよ、彼らがこういう要素について、おおまじめに語ったり、ほのめかしたりすると、笑ってしまいます。
常識的に考えて、こういうことを言うやつがいたら、馬鹿げた妄想だと一笑に付すでしょう。おいおい、大丈夫か?と語る本人がイカレテるんじゃないか、と疑うでしょう。マッカーシズムに逐われて亡命してきたフィリップが被害妄想なのは判らなくはありませんが・・・。
それにしてもそういう要素をつないで、「世界規模で企てられた陰謀」だの「世界を強制収容所化する」動きだと断じるのは、被害妄想、誇大妄想とみなされて仕方がないでしょう。別に何の証拠もないし、私も子供のころ親しい友達と「秘密基地」を持つ「秘密何とか団」みたいな秘密結社ごっこのように見えます。もし大真面目で現実のそういうものを示唆したいのであれば、この作品はその点ではうまくいっていません。
ただ、すべてが妄想かもしれない、とは実は考えることができません。なぜなら、ファンの死、ジェラールの死、ピエールの死という3人の死という現実だけは疑い得ないので、ファンとジェラールに関しては自殺の可能性が高いけれど、ピエールについてはテリーが拳銃で殺しているわけですから、それも妄想の場面かというと前後関係からそうは決して言えそうもないから、少なくともテリーはピエールを殺しています。あとはすべてフィリップやテリーの妄想だとしてもそれは疑い得ない。そうすると、もしもそれ以外はみな登場人物の妄想だとすれば、結局ここで起きているのは、ヒッチコックの「サイコ」みたいなことで、一人の妄想狂の女(テリー)が色々妄想を振りまいて周囲の人間を不安と恐怖に陥れたあげく、自分もまた自身の妄想と現実とが不分明な中で、現実に殺人を犯してしまった、というだけのことになってしまうでしょう。
テリーやフィリップの陰謀説や秘密結社説が、あまりに無根拠で子供じみているので、かえって、これはみなテリーという妄想狂の考えた世界であって、周囲の人間がこれに巻き込まれ、振り回されたにすぎない、と見た方がむしろ自然にも思えます。しかし、そこは確定的に描かれてはいません。フィリップは現実のマッカーシズムに逐われてパリへ事実上亡命してきた人間ですから、被害妄想に囚われやすい状況にあるでしょうから、一番テリーの影響を受けやすくて、むしろテリーの陰謀説を誇張的に振りまく役割を果たしているとも考えられるでしょう。スペインの人民戦線側の闘士だった妹をもつらしい自殺した(とすれば)ファンも、おそらく同じ政治思想的立場で事実上パリへ亡命してきていたと考えられるようなスペイン人だから、フィリップと同様の政治亡命犯に固有の恐れ、不安、強迫観念にとらわれていた可能性があります。また、彼を援けてきた友人たち、ジェラールやピエールもおそらくはそうしたシンパサイザーとして、なおヨーロッパで隠然たる力を維持していたファシズム勢力に対する不安、恐れ、強迫観念を多かれ少なかれ共有する立場にあったわけで、テリーの陰謀説に感化されやすい友人たちであったとも考えられましょう。
つまりテリーが「サイコ」のアンソニー・パーキンスのような存在(笑)だと仮定すると、ここに描かれた世界は、ファシストたちの秘密結社による陰謀説という彼女の異常な心理が生み出した妄想の世界であり、それに感化される条件を多かれ少なかれ具えていた友人サークル内部の自己崩壊だということになるでしょうか。
ただ、繰り返し書いているように、この映画の作り手は、そうだ、と断定してこの作品をつくっていないわけで、そうかもしれない、というほのめかしをしながら、そうではないかもしれない可能性をもほのめかしながら、最後までいずれとも決めつけずに、ただそうした妄想と現実との境が判然としなくなるような世界のリアリティだけを、現実に右往左往して謎を探ろうとするアンナの目を通して示しているわけです。
もちろんフリップが現実に隆盛をきわめたマッカーシズムに逐われて亡命してきたことは事実だし、「(ファンが?)ファランヘ党の指示で殺された」というファンの妹の手紙があるとフィリップがアンヌに語る場面があって、手紙を見た事実はフィリップの妄想とは考えられないし、スペイン内戦の結果ファシストが政権を維持して人民戦線の生き残りを弾圧した歴史的事実など、当時のヨーロッパの現実の政治・社会情勢が背景にあることは確かで、いかにテリーらの秘密結社妄想、陰謀妄想が幼稚なもので、本当に妄想にすぎなかったとしても、それを生む背景がこの作品を生む背景として、またこの作品の世界の背景として、一定のリアリティをもっていたことは疑いのないところです。だからといって、いまの日本に住む私たちには当時のパリの進歩的インテリゲンチャの置かれた精神状況はわからんだろう、というわけで、テリーらの妄想にリアリティがある、と評価するとすれば、それはおかしなことだと思います。あれはいま見ようが当時見ようが、またパリに居て見ようが(笑)、リアリティのある妄想ではありません。何の根拠もないし、妄想の中身も幼稚きわまりない子供の秘密結社ゴッコの概念のようなものに過ぎないのですから。そんなことはこの映画の作り手は判り切ったこととして、戯画的に誇張したり(フィリップ)、わざと大真面目に(テリー)描いたに違いないので、それでも、だからといってすべてが彼女らの妄想であった、と断じることができないようにだけはちゃんと描いてみせているわけで、だからこそこの作品が状況を映し出す作品たりえたのではないでしょうか。
ところで、最初に述べたこの物語に設定された二つの軸、一つは秘密結社&陰謀をキーワードとするつながりが広げていく系で、いままで述べて来たとおりですが、もうひとつの軸であるジェラールが演出する舞台のリハーサルに関わる系はどうでしょうか。なぜそんなものが必要だったのか。演劇を持ってきたのはリヴェットの経て来た体験的なものもあるでしょうし、演劇を介して映画を革新してきたようなところもあるようですから、そういう背景はあるかもしれないけれど、それは作品の外部事情にすぎず、作品世界での必然性にはかかわりがありません。
もちろん一番浅いところで掬い取れば、そこで登場人物たちが出会い、揃っていく場として適当な場だということは便宜主義でいけばありますよね。アンヌは偶然にジェラールに出会うようにみえるけれど、文学部に属して、もともと演劇には興味があって、ジェラールが上演しようとしているシェイクスピアの「ペリクリーズ」も読んでいて的確な意見を述べ、朗読にも演技者としてもすっと入っていける条件を備えていたわけですし、兄のピエール、ジェラールがこの時点でつきあっているテリー、それにつらなるフィリップ、そして不在(すでに亡くなった)ファンも、この磁場を介してつながっていくわけです。
しかし、そういう登場人物が出会い、つながる場としての便宜主義的な使い方としてこの演劇というのが出てくるのか、というと、たぶん違うんじゃないかと思います。本当は「ペリクリーズ」を読んでから考えればわかるのかもしれませんが、きっとその演劇の中身、アンヌがジェラールに意見を求められて語るようなその内容が、この「パリはわれらのもの」の世界とパラレルな関係にあるのではないでしょうか。まったくのあてずっぽうに過ぎませんが(笑)。
それは、もちろんアンヌが述べた、「まとまりがない・・・でもつながっているすべてに・・・ちぐはぐさがいい・・・」というような作品の世界だということに示唆されて勝手な推測を逞しくしているわけですが、それだけではなくて、このジェラール演出の劇団による公演のたどる運命をみると、やっぱりこの「パリはわれらのもの」の世界とパラレルな構造をもっていて、それを象徴するようなひな型を入れ子構造としてこういう劇団を描くことでつくっておいたんじゃないか、という気がします。
というのは、ジェラールの主宰する劇団は、シテ劇場の予定プログラムに穴があいたのを埋めるために突然降ってわいた公演のチャンスをつかみ、ジェラールたちは意気揚々と劇場へ乗り込むわけです。ところが、劇場側の上層部の指示した条件で、アンヌをはじめ、劇場側が要らぬと考える役者ははじかれて、首をすげかえられるし、それで替わった役者が役者の分際で演出家ジェラールの演出を否定してつまらない所作を提案し、それをまた上層部の男が肯定してジェラールの反対はつぶされ、さらにジェラールの演出にはなかった船まで登場する、という。もう演出家としてのジェラールは機能しなくなって、彼は辞任していくわけです。
これはつまり、商業演劇の世界で、資本の論理がジェラールらの芸術創造の論理より力をもち、簡単に演劇のありよう、つまり役者の位置も動き方もセリフも道具類もみな鶴の一声で変えてしまい、もとのありようをほしいままに変え、また必要ないと思えば消してしまうことができるわけです。この構造は、テリーの「妄想」が語る、秘密裏に世界を支配し、ほしいままに人を操り、ときには人を消すこともできるという「秘密結社」の「陰謀」の支配する世界と変わるところがないでしょう。ジェラールの思い描くような公演の夢は実現することなく、舞台で演じられるのは、その舞台の背後の暗がりで支配する資本の論理がほしいままに動かす役者らの動きであり、セリフであり、道具類であって、それとは異なる夢を持った個人は演劇の世界そのものからはじき出され、つぶされ、ときに文字通り消されていくほかはなかったのです。
(あまり長くなるので、今回の「手当たり次第に」はここらで休憩します。実はほんとうのここ二、三日にみた映画はこれからなのですが・・・笑)
blog 2019/02/11