「イエローキッド」(真利子哲也監督)2010
これはちょっとほかの映画を探していて、たまたま見つけて通販で買った東京芸大の大学院映像研究科第三期修了作品集2009というDVDに収録されていたものです。
なぜ真利子さんのだけを見たかというと、この監督の名はずいぶん前に、同志社大学で行われた何かの映画コンペで見たことがあったからです。
ちょうどその日、まだ前の前の超多忙な勤務先に勤めていて、夕方だったと思うけれど、仕事をやっと片づけて出先から会場へ駆けつけた時は、とっくに何本かの上映が終わっていたのですが、会場へ後ろの扉からそっと入っていくと、客席でそれを見ていたまだたぶん20歳にならない青年か少年くらいにみえた何か一癖ありそうな子が、手にしていたビデオカメラをこちらへ向けて、しつこく正面から撮り始めたのです。
失礼なやつだな、とは思いましたが、こんなところまでカメラを持ち込んで何でもない観客の私をそうしてしつこく撮るのは、きっと会場へ遅れて入ってきた私にちょっと腹を立てているんだろうな、と思いました。カメラを向ける時そんな顔をしていましたから(笑)。
たぶんこのコンペティションの参加者の一人なんだろう。ひょっとするといま上映中の作品がこの少年の作品かもしれないな。途中で入ってこられて不愉快だったのかもしれないな、クラシックの演奏会場へ途中から入るやつみたいに、いい歳をしたおっさんが映画を観る常識も知らんのか、くらい思っているのかもな、と思いました。
ただ、そのとき、同時に、君はまだ分かっていないなぁ。ひょっとしたら、いま上映しているのは君の作品かもしれないけれど、だれもが君の作品や君という人間にそんなに関心をもってくれるものじゃないんだよ。君にとっては心血を注いだ作品かもしれないけれど、それは観客にとっては何の関係もないことだし、君のご自慢の作品を芸術作品として、社寺の宝物殿の宝物のように「拝観」してくれるとは限らないんだ。むしろ、そんなものがあろうがなかろうが、どうだっていい、という無関心にさらされるのが当然で、どんな見かたであれ、わざわざ見に来てくれる観客に対しては、それなりの礼儀を心得ていなくちゃね。見に来る者にはそれぞれの日常があり、それぞれの事情があるので、これでも一所懸命仕事を切り上げて駆け付けたんだよ。そういうどこにでもいるおっさんを君の作品に包括できないうちは、君も大した映画はつくっちゃいないんじゃないかな・・・と、言葉にしてみれば、そういう想いも少し怒り顔でしつこくカメラを向ける彼に対しては感じていました。
でもまぁこちらはおっさんなので、少年のように感情をむき出しにすることもなく、やり過ごしてそのあとの作品を観ました。私は彼の出品作は見逃していたと思います。
ところが、なぜそんな昔のことをよく覚えているかというと、その見逃した彼の作品がそのコンペティションでは、たしかグランプリというのか、もっともすぐれた作品に与えられる賞を受賞したからです。そのときにはまだ彼がその映画の監督だとは知らなかったのですが、あとで教えられて知ることになりました。それから真利子哲也という珍しい姓でもあったので、記憶に残って、色んな機会に目にするたびに、あぁあの少年か、と思い出していました。
あのときに見逃してから、彼の映画は一本も見たことがなかったのですが、年齢はほかの若手映画監督などに比べても一段と若いにもかかわらず、海外も含めて様々な映画の新人賞的なものを総なめにするような勢いで、いろいろな機会に名前だけは目にしていたのです。
ただ、そのときにどんな映画を作っているんだろう?と思って、ネットなどで出てくる簡単な概要説明や観た人の感想のようなものを時々見ていると、きっと私たちがふつうに娯楽として映画館やレンタルビデオで楽しんでいるようなオーソドックスなわかりやすい映画ではなくて、いわゆる学生のつくる自主製作映画然とした、トンガッた映画なんだろうな、という印象をもっていました。
私は映画評論家でも何でもないから、新聞や週刊誌の映画時評的なものを読んだり人から聴いたりして、今度の映画おもしろいよ、と言われて、じゃ見ておこうか、というふうに楽しんできただけなので、芸大だの映画学校だので学生がつくるような自主製作映画に目配りして才能を見出す、なんていう批評家みたいな見方は一度もしたことはないし、そんな能力もありません。また、そういう99%は未熟な拙い作品をわざわざ見に行く趣味もないのです。
ただ、街づくり的なことに関連する仕事をしていたことがあるので、その関係で一度兵庫県のある地域で、商店街などとコラボして映画好きの青年が自主製作映画をその地域のカフェだとかいろんなところで同時あるいは時差上映するような映画祭の企画をやったことがあって、それを夫婦で見に行ったことがあります。
あるカフェで一つか二つか、ビデオディスプレイで上映していた作品を見たあと、たぶん主催した若い人たちのグループの人たちなのでしょうが、何人かその店にたむろしていて、その中の一人の女性が、私たちに感想を求めたのです。いやひどい作品ですね、ちっとも面白くなかった、というのがホンネでしたが、一所懸命そういう企画をしてセッティングなどしてきた彼らに取り巻かれて、そういう人たちをむげに傷つけたくはなかったので、私にはちょっと何が伝えたいのかよく分からなかった、くらいのところで、もちろん嘘はつきたくないからお世辞を言ったりはしなかったけれど、消極的な返答をしたと思います。パートナーも似たり寄ったりの応答だったかと思います。
すると、その女性はちょっとムッとしたような感じで、「自主製作映画というのをこれまで見たことはありますか?」と言うのです。私たちは実は身内で映画をやっているのがいて、まるで見ないというわけではないのですが、好んでふだんから見に行く人間ではないので、「いや、そんなに見ませんが」というような曖昧な返事をすると、女性は、やっぱりね、という態度もあからさまに「こういう作品はふだん見慣れていないとなかなか理解できないですからね」と(笑)。
はいはい、そうでしょうね、と早々に退散しましたが、こんなふうに自主製作映画というのは、メジャーな映画なんかとは違うんだ、芸術めざしてがんばって作ってる作品なんで、それはおまえたちみたいに芸術作品を見るトレーニングを積んでない者には良さが分からないんだよ、と言わんばかりの態度には恐れ入りましたが(笑)、でもこういう考え方でやっているような、なにか勘違いしている若者はそう珍しくもないような気がしています。
私たち一般の映画観客にとって、メジャーな映画であろうと自主製作映画でろうと、そんなことは作品を見る上で何の関係もありません。それぞれの感じ方で、ただ面白いかどうか、楽しめるかどうか、何か新鮮なものを自分に感じさせてくれてくれたか、なにか考えさせてくれたか、心を動かすものがあったかどうか・・・等々といったことだけで、自主製作映画だからハンディキャップをつけて鑑賞します、なんてことはあり得ません。極端に言えば、自分にとって、いい映画とわるい映画、映画と言える映画と映画ともいえないような映画がある、というだけのことです。作り手がそう考えないとすれば、よほど甘ったれた作り手でしょう。
そんなわけで、こういう勘違い的な自主製作映画を積極的に見たいとは思わず、たまに見る機会があっても、さきの「自主製作映画を見慣れた」女性のように下駄を履かせてみるようなことはなかったのです。
けれども、どんなすぐれた作家も映画の作り手も、いきなり素晴らしい作品をつくるわけではなくて、よほどの天才でない限りは、後の優れた作品から考えればおどろくような拙い作品をつくるのも或る意味では当然です。
そういう映画を私のようにただ映画を娯楽として楽しむためだけに拾い観るような観客が観るとすれば、多くの場合は、のちに優れた作品をつくって評判になり、それを見て、その監督の作品をもっと見てみたい、と思って過去へ遡っていくつか見る、というようなケースです。
そうやって見た中では、たとえば「Shall we ダンス ?」の周防正行監督の、「シコふんじゃった」や「ファンシィダンス」はすごく面白くて、先にこちらを見ていても面白い!と思ったと思うけれど、「変態家族 兄貴の嫁さん」は何だこれは?と同じ監督のを観ようとは思わなかったろうな、と思いました。
そういうのを評価してこの人の先に作る作品に期待を寄せるのはプロの評論家やほんとうに映画好きな人なのでしょう。
また、「リンダリンダリンダ」の山下敦弘監督の「ばかのハコ船」だとか「どんてん生活」を先に見ていたら、この監督のほかの映画を観たいとは思わなかったでしょう。
この監督が「天然コケッコー」のような作品をつくるようになるとは思いませんでした。熊切和嘉監督の「鬼畜大宴会」を見ても、そのあとの「空の穴」をみても、この監督が「海炭市叙景」のような映画を作るようになるとは思っていませんでした。
先に自主製作映画っぽい方を見た場合は、自分の感じ方の嬉しい「はずれ」でしたし、逆に開花した作品を先に見た場合は、この監督もこんなひでぇ作品を作ってたんだなぁ(笑)と、その落差に驚いたりしていました。
才能のある作り手は、どこかで飛躍を遂げて、私のようなごく平凡で無責任な映画の観客の心にも届くような作品を創り出すようで、そのプロセスは必ずしも連続線を描くものじゃなさそうだな、と思います。
自然に目に触れる真利子哲也監督はすでに国内外の様々な機会に高い評価を得ていて、映画ファンならきっと注目しつづけている監督なのだろうと思いますが、そういう評価に関係のない私などが作品を観もしないで感じていたのは、まだ私のような観客は見なくていいんじゃないか(笑)、それは山下監督の「どんてん生活」や周防監督の「変態家族 兄貴の嫁さん」、熊切監督の「鬼畜大宴会」といった発展途上にあるんじゃないかと見当をつけていたようなところがあります。
今回、他の監督のを探していて、たまたま出会って見終わった「イエローキッド」は、たしかにいま挙げたような才能ある監督たちのその種の作品のような雰囲気を持っているように感じました。
とても強い印象というのか、強度を持った作品で、とんがった作品、という印象です。イエローキッドというのは、もともとは古いアメリカのマンガのキャラクターらしいのですが、この作品ではそれを参照しつつも、主要登場人物の一人である漫画家服部が書いているマンガのキャラクターで、その漫画家は当初は自分の学生時代の別に親しくもなかったボクサーとして筋のいいらしい友人三国に取材して、マンガのヒーローのモデルにしようとしていたようですが、その友人のいまの彼女がマンガ家の元の彼女で、呼んでくれた彼女のアパートへ行くと、先にその友人のボクサー三国が来ていて、もともと虫が好かないやつとしか思っていなかったらしい彼は、虫の居所も悪く、なれなれしく友人づらする漫画家をぼろくそに罵って取材に協力する気などまるでなく、女性からは彼ともうすぐ結婚すると聞かされて、そのあとアパートへ戻った女と三国とが睦みあう声など盗み聞きして、水をぶっかけらたりして、漫画家は気が変わって自分のマンガで三国を悪のキャラクターにし、彼が通うジムへ入ったばかりの、マンガ家としての服部を尊敬するらしい田村という若者をイエローキッドのモデルにして書いていきます。
この物語はもともと、4畳半みたいな狭い裸電球のともる部屋で認知症の祖母と二人で住んでいる田村という、ボクシングジムに通いはじめた若者が語り手として彼が出逢う人やできごとを軸に展開していくのですが、もう一つの軸が漫画家服部の描くイエローキッドのマンガで、田村はそのマンガの熱烈なファンで、最初は田村という若者はボクサーの資質もなさそうだし、ジムでは一番下っ端の走り使いみたいなことをさせられているし、家に帰れば両親はとうになくなって、残された認知症の祖母の面倒をみている、律儀で気の良い若者ではあるけれども、うだつが上がらないといえばこれほどうだつの上がらない、この社会のなかで一番片隅の掃きだめで辛うじて生きているような存在なのですが、これが服部のマンガが書き進められるにしたがって、その主人公のイエローキッドの行動をなぞるようになってきたことに、服部が気付きます。そのへんから私たち観客にも田村という若者のキャラクターが変わってきたような印象を受けます。
それでも、同じジムに通う、ただ「喧嘩するためにだけ」ボクシングをやっていて、トレーナーの言うこともきかない、どうしようもない不良の榎本にも頭が上がらず、金をせびりにきた榎本に、お人よしにも棚の上に隠してあった祖母の年金の入った封筒を出したとたんに、榎本になにかで後頭部をボカッとやられて金を奪われてしまいます。ここから彼はイエローキッドにほぼ成りきって、榎本を探しだして金を取返し、さらに人通りのある商店街みたいな街路で女性のハンドバッグをひったくる行為に及びます。じゃそれを隠したり、貯めておいたりするのかと言えば、そうではなくて、札束をちぎって撒いてしまいます。彼の何に対するとも曰く言い難い怒りは拳を血まみれにしながら立てかけてあった錆びた鉄板を力任せにボクサーらしく殴りまくることで表現されています。
夜の街を行く人々に逆行して、背景に明るいそれらの人々の姿をとらえ、それらの人々の間をかきわけ、フードで頭を覆った姿で手前へ歩いてくる田村の姿はイエローキッドそのものに成りきっています。
田村を演じる遠藤要は熱演で、当初はとりえのない貧しい気の小さい、だけど人のよい純情な若者でもある男が、次第にマンガの主人公に同化してイエローキッドになりきっていくところが、すごく迫力があり、その鬱屈した感情の爆発にいたるあたりは、不気味でもあります。
それと並んで、私が迫力があるなぁ、このひとたち、ホンモノじゃないの?(笑)と思ったのは、そのボクシングジムでは筋がよくてほかの若者から一目おかれている三国と、喧嘩するためにだけボクシングをやっているという榎本でした。マンガ家の服部に苛立つ三国は迫力があり、とりわけ榎本は金をゆすりに田村の住まいに来て、田村が祖母の年金の封筒を渋々手にしたとたんに、思いっきり田村の後頭部をなにか棒みたいなのでぶんなぐって倒して素早くとんずらするところなんか、その面構えといい、あまりの手際よさといい、俳優というより、ふだんからこういうことをやっている人じゃないか(笑)と思えるほどでした。だいたい、あの顔がすごい・・・
まぁこの映画はそういう人たちの顔と(笑)エネルギーに支えられているようなところがありました。いちばん普通に近いジムのトレーナーや三国の彼女(服部の元カノ)もそれらしい落ち着いた抑えの演技で、そういう存在があるから、いきりたった若者たちのとんがりようが様になるんだろうと思います。
ただ、漫画家服部のキャラクター設定と演出なり演技なりというのは、私にとっては、あまりいい意味ではなくマンガ的で、それはそのような印象を故意に与えるような設定をしているのでしょうけれど、なぜそうする必要があるんだろう?と疑問でした。彼がもう少しまっとうなクリエイターとしてのマンガ家で、田村や三国と拮抗できる存在だったら、現実と幻想(マンガというフィクションの世界)との入れ子構造というのか合わせ鏡みたいなものが、面白い仕掛けとしてもっと本格的に生きてくるんじゃないか、という気がちょっとしたのです。
ただ、漫画家自体を戯画化することで、オリジナルのイエローキッドというアメリカマンガの絵柄や通俗的な物語性に見合った世界をみせているということはあるのでしょう。そのぶん、普通の人が少なくて、どうも服部のように卑小卑屈、劣性キャラばかり目立って、人物がマンガ的で、誇張された姿になっているので、全体が戯画的なものになっています。それは意図されたことなのかもしれないけれど、それにしては洒脱なところがなくて、妙にきまじめだったりするから、服部だけがいやに卑小卑屈で、戯画的に誇張されて浮いてしまった印象です。できることならまっとうなこれの陽画が見て見たい、と思いました。
あと、この映画の製作費は200万円だそうです。自主製作映画のほとんどはそんなもんでしょう。「ミッション:インポッシブル/ フォールアウト」が先のおおざっぱな換算で178億円。8900倍ですか。たしかに俳優やロケーションや道具類には桁違いの金が後者にはかかっていることはわかります。でも映画として面白いかどうかには、どう見積もっても8900倍の差はない(笑)。だから「イエローキッド」をもし普通の映画館でやって、「ミッション:インポッシブル」と同じシニア料金1100円とったって観客にとってそんなに違和感があるとは思えません。蓼食う虫も好き好きといった受け止め方はされるかもわかりませんが。
予算や製作にかけられる時間にゆとりがあるに越したことはないでしょうが、映画のよしあしは予算や製作に掛けられる時間では決まらないでしょう。200万円で作ったから、1週間でやっつけたからこの程度、と考えるような映画の作り手がいたとすれば、よほど甘ったれた道楽息子で、道楽でやっている映画をなめたぼんぼんに違いありません。たとえ製作費は100万でも200万でも映画史を塗り替えるような作品を生むことはできると、私は思います。
Blog 2018-9-20