「天然コケッコー」(山下敦弘)
心が洗われるようなとてもいい映画だった。原作のマンガを読んでいないので、新聞などで粗筋を見たときは、またマンガ原作かよ、と思い、田舎の学校で転校生を迎え、色々あって徐々に馴染んでいく、というような話?と聞くと、早トチリでは人後に落ちない私などは、もうどんな映画か分かるような気がして、見に行く気になれなかった。
しかし朝日新聞だか日経新聞だか、都合3?4回も大きく取上げて、それぞれなかなかの好意的な評で、おまけに次男が友人と一緒にロケハンに協力していて、クレジットにも「特別協力」とかで名前が出て来るのだけれど、彼が出来上がった作品を見て、とても良かったと言っていたと間接的に聞いたりしたので、じゃ行ってみるか、と不精な腰を上げた。
山下監督の作品は「どんてん生活」や「ばかのハコ船」を見て、まだ正直言ってこの人の映画はしんどいな、と思い、「リンダ リンダ リンダ」でやっと楽しめるようになったばかりだった。 先入観をもって見に行った「天然コケッコー」は、その先入観を完全に覆すものだった。もちろんいい意味で。
最初から、映像の美しさに引き込まれた。この透明感のあるカメラには終始せつない想いで胸の底を揺さぶられるようなところがあった。もちろん島根の山村の自然は美しいけれど、これは別に自然の美を撮った映画というわけではない。
主人公の「そよ」の目を通して、東京から来た男の子によって、微妙に変化が生じる彼女たちの日常が描かれる。だから、カメラもシャロー・フォーカスで彼女の心の揺れに焦点をあわせるように、背後の自然がぼやける中で、くっきりと彼女の表情を映し出す。とても繊細なものを捉え、とてもクリアに映しだす。
ここにあるのは、いまはもう日本のどこにも残っていないだろうと思われるような自然と人間の風景だけれど、レトロな味というのではない。ゆったりと流れる時の中で、いま息づいている瑞々しい感覚が繊細な眼差しでとらえられている。その瑞々しさの核にある微妙な「ちぐはぐさ」によって、いわゆる青春映画風のがさつな「クライマックス」はつねにずらされ、回避されている。 東京への修学旅行で、友達のために美肌クリームと癖毛なおしを選ぶそよが、大沢広海の一言で、自分のおみやげ選びが実は友達の気持ちを傷つけるようなものであることを気づかされて一瞬落ち込む暗い表情になる場面。
原作にあるのかもしれないけれど、本当によくできたエピソードだと思う。そよの暮らしてきた村の人間関係の中では、何でも言いあい、プライバシーに立ち入ること自体が友情の証だろう。私は色が黒いけぇ、私は癖毛がひどいけぇ、悩んどるんよ、というような話はごく普通に言い合い、それじゃお土産に美肌クリームを、癖毛なおしを、と考えるのはごく当然で、本来は深い友情あってこその思いやりでしかない。
郵便局員のシゲちゃんが初対面の大沢に、あんたのお父さんが愛人と逃げてしもうて大変じゃってね、とズケズケと言うのも、お母さんは困りよってじゃろ、どうしとられるね、と訊くのも、決して悪意というわけではない。
けれどそれは、生まれてから死ぬまで、どこのだれで、家族が誰と誰で、ふだん何をしていて、何を考えているか、どんな性格の人であるのか、みんなが互いに知っていて、なにかにつけて援けあって生きることが当たり前の、古き良き村落共同体という背景をちょっと外してみれば、互いのプライバシーにまで立ち入る田舎のわずらわしさとなり、相手の心の中に土足で踏み込む暴力的な行為にもなる。
そよは、牧歌的な村落共同体の人間関係の中で生まれ育ち、その感性にどっぷり浸ってはきたけれど、その若い柔らかな感性は、大人たちのように固まってしまってはいない。ときに親や周囲の大人たちとの関係、あるいは友人たちとのちょっとした行き違いなどの中で、そのような人間関係のありように違和感をいだき、自分が立っている場から無意識に逸脱することもある。
その外の目で自分を見るとき、自分自身のふるまいが、感じ方が、自己嫌悪としてはねかえってくることがある。そよは、大沢の指摘に傷つき、自己嫌悪をおぼえる。
東京からきた大沢にとっては、もちろんそういう違和感はしごく当然のものだから、そよが友達にそんな土産を買っていくことは、わざわざ友達が気にしている欠点を思い知らせる厭味のような行為、土足で相手の胸のうちに踏み込んで相手を傷つける行為にほかならない。
ここでは、そういう「違い」が理屈っぽく表現されているのではなくて、このような具体的なエピソードの中で、そよの揺れ動く心が瑞々しく描かれ、その心の生きた動き、ユーモアの源泉でもある「ちぐはぐさ」によって物語が展開し、結果的にそよが無意識に生きてきた世界も、それと対照的な、大沢がそこからやってきた外部世界も、結果的に鮮やかに浮かび上がってくることに感心してしまう。この作品は、この種の味わいのあるディテールが幾つも積み重なってできている。
主役の夏帆が適役だし、相方の岡田将生もいい。そして、何よりも脇の子供たちが素晴らしい。友達の伊吹(柳英里沙)、篤子(藤村聖子)の完璧な自然体の演技には舌を巻くほか無いし、早知子(宮澤砂耶)、カツ代(本間るい)、浩太朗(森下翔梧)とみないい。よくもこれだけ自然な演技を引き出せたものだ。早知子が見舞いにきたそよの脚に抱きついて「そよちゃん!」と言う表情など、孫の相手をしている私のような老人が見ると、すぐ涙腺が緩んでしまう。
学校の先生たちやそよに片思いの郵便局員のシゲちゃんやそよの母親など、みんな自然体の演技でこの映画全体を支えている。個々の役者の演技だけでなく、そもそもこの映画に描かれた世界全体が自然体という印象だ。
この映画のパンフレットに浅見祥子という「映画ライター」が、「何度も思い出す切ない瞬間の中で、最も心に響くのが登下校のシーンだった。」と書いている。いいことを言うなぁ、と共感した。まさにそういう映画なのだ。
暗がりに差し込む一条の光にきらきら輝く塵芥が、どんな宝石よりも美しく輝いてみえるように、その中にあれば何の変哲も無い日々のディテールに、この映画は一筋の光を当てて、透き通るような輝きを取り出している。
ここには幼い恋のはじまりがある。でも、キスシーンでさえ、クライマックスを構成しない。「いっしょに歩きたいけぇ」という、そよの言葉に象徴されるように、ただそばにいることを感じながら一緒に歩き、不器用に触れ合う。
島根弁だろうか、子供たちの話す土地の言葉がすばらしい。もちろん脚本家が周到に選び抜き、考え抜いて配置した科白であるに違いないのだが・・。
何が起きるわけでもない。山の音を聴きながら歩く。親しい人たちの眼差しの中で、友達や幼い子と声を交し合い、手をつなぎ、歌いながら歩く。青空と緑の中で、土を踏みしめるように歩く。ゆったりと過ぎていく時間の中で、小さな教室の机や椅子や窓や黒板と一つになる。
「リンダ リンダ リンダ」の最後にある種のクライマックスを感じたせいか、少し山下監督の映画を誤解していたかもしれないな、とこの映画を見て思った。 映画の興行政策上、ヒットしたマンガを原作にする映画がやたらに増えて、その映画作りの安易さと、それこそ悪い意味でマンガチックな内容にうんざりすることが多くなった昨今だけれど、この映画はその種の作品とは違った。
もちろん、「ジョゼと虎と魚たち」や「メゾン・ド・ヒミコ」の脚本家の脚本が一級品でないはずはないし、その脚本家(渡辺あや)が自分の「バイブル」とまで言う原作(くらもちふさこ)がすぐれた作品でないはずもないだろう。この映画を見て、脚本と原作が読みたくなった。でも、山下さん、次は脚本もオリジナルで映画を作ってください。
blog 2007年08月20日