「ファウスト」(アレクサンドル・ソクーロフ監督)
ソクーロフ監督に「ファウスト」があって、しかもアマゾンのプライムビデオで無料で見られるのを知ったのは最近のこと。学生時代以来敬遠してきたゲーテの原作のほうを読んでからにしよう、と我慢していたのですが、ようやく昨日無事原作は再読して細部まで思い出せたところで、早速映画の方を見ました。
結論的に言うとソクーロフ監督の今まで見た、ストーリーらしきものもない、わかりにくい作品たちの中では非常に分かりやすい、楽しめる作品でした。原作というより、その書物にインスパイアされて独自の世界を創るのが彼のやり方でしょうけれど、「罪と罰」などにインスパイアされたという「静かなる一頁」など、ちょっと「罪と罰」を下敷きにしたと言われても、その独自の世界の作り方があまりに独自的過ぎて(笑)困惑させられるところがありました。でもこの「ファウスト」は確かに彼流にデフォルメされてはいても、まぎれもなくあの「ファウスト」の物語で、そういう意味ではとても分かりやすい。
言語はドイツ語で、多分出演者もドイツ人なのでしょうね。19世紀のドイツの街というのはああいうものだったのかもしれませんが、なんだか暗い穴倉みたいな狭い巣の中に他の個体とねっとり肌がくっつきそうなくらい密接して獣のようりうずくまり、うごめき、叫び、呻いている、汚辱と喧噪に満ちた濃厚な世界といった雰囲気の下町の光景は、なんだか極貧や病気に満ちた貧民街とか阿片窟だとかゲットーみたいなおぞましい場所に足を踏み入れるような気味悪さがあります。
大体最初に出て來る場面というのが、ファウストが死体を解剖して「魂のありかを探す」おどろおどろしいシーンで、死体の青年?の胸から腹が割かれ、内臓がどろりとあふれ出て床に垂れるような光景ですからね(笑)。その死体を切り刻むファウスト博士なる悪党面の逞し気な中年男は、死体にくっつかんばかりに顔を近づけ、がつがつと死体の内臓を刻んで、人間の魂はどこにあるのだ、と。いくら何でも「学位も持っている」(笑)と自慢してる男が、そこまで愚かじゃないでしょう、と思うけれども、まあ彼は神様なんて「誰もそんなもの信じていないだろう」とテンから信じていないゴリゴリの唯物論者のようだから、魂も身体のどこかに宿っているに違いない、と考えたのでしょう。
なんだか死臭が鼻につき、汚れた血のりがこっちもべったりつきそうな世界で、登場人物たちはほとんど不自然なほど体を寄せあい、顔をくっつけるような、ちょっと歌舞伎の表情や仕草のような大仰な表情と仕草で、ねっとりと相手の耳にくちびるを寄せて語り掛けるような濃密さを感じさせ、冒頭から一種異様な世界に引き込んでいきます。
ただ、その中で、マルガレーテが登場する場面だけが、ずぬけて明るく爽やかで、この少女の無垢純卜なありようを象徴しているかのようでした。
ファウストは貧しくて、父親のところへ金の無心にいくのですが、その父親というのは今でいえば整体師かな(笑)。何か拷問具みたいな台に患者を縛り付けて、身体をひっぱって腰だかどこだかの痛みをとろうとしていたようで、患者が拷問される犯人みたいに大声でうめいていたり・・・。この父親が女の患者を診るときはスカートの幾重もの襞をめくりあげて、膣に入っていた卵を取り出すという(笑)何とも奇妙な、いかがわしい、そして猥褻なる「治療」をほどこします。でもファウストに対してはひどく現実的で、冷淡に借金を断ります。
この作品では、メフィストテレス役は高利貸しのマウリツィウスという奇怪な体つきの初老の男です。ただ、彼はゲーテの「ファウスト」におけるメフィストテレスほどの力を持たず、悪魔としての能力を使って超自然的なことをやってのける見せ場もほとんどありません。ただ、普通の人間というわけでもなくて、女達ばかりの共同洗濯場兼浴場みたいなところに行って裸身をさらすと、「前に(あるべきところに)何もないわ」と女たちに笑われる奇怪な体つきをしており、尻に小さな尻尾がついています。女たちにも嘲笑されるその尻尾が唯一の悪魔の徴のようです。
しかしあと二度ほど彼が魔力をふるう場面があります。一度は些細なことですが、短い三俣槍みたいな先のとんがった道具でちょっと壁をひっかいて、ワインを噴き出させる魔術を酒場で使って、人びとがわっと集まって大変な騒ぎの最中、その道具を手にしていたファウストが謝って一人の元兵士である若者を刺し殺してしまうきっかけになります。
その若者が実はファウストが思いを寄せるマルガレーテ(ゲーテの原作のグレートヒェン)の兄だったという形でつながっていくので、悪魔の魅せる魔術自体はつまらないことだけれど、劇の進行上は重要な契機になるわけです。
もう一つは、最後にファウストを冥界に導くのはやはりこのマウリツィウスです。そこでファウストは自分が殺した、マルガレーテの兄に再会し、彼が意外にも殺してくれてありがとうと感謝していることを知ります。彼は兵士としてのそれまでの生活にうんざりして厭世的になっていたようなのです。
もちろんファウストが美しいマルガレーテを見染め、彼女に近づき、どうしても彼女と一夜を共にしてものにしたいという欲情を遂げるためにマウリツィウスの力を借りることも原作どおりですが、考えてみればそこに魔法があったかどうかなんて誰にも本当はわからないわけで、ゲーテの原作でも、メフィストフェレスの助けによってかなえられると同時に、それはまた、貧しいグレートヒェン母子に鷹揚に金銭的な支援をするファウストの偽善的なパトロネージが効を奏したように描かれています。
そもそもソクーロフの作品では、この悪魔は高利貸しで、まさに貨幣の化身みたいなやつですから、金の力でマルガレーテを抱き込んだと考えるのが一番合理的です。その金の力で、ファウストは「50コ違い」くらいの少女をものにする(笑)。マルガレーテを演じたのは、イゾルデ・ディシャウクという女優さんだそうですが、美人でもなく美少女というのでもない、一風変わった顔つきの女優さんです。若くて初々しい少女であることは確かですが、ちょっとドイツの田舎の娘さんという印象もあるコッペパンみたいな丸顔の、唇の小さな、もともとは素朴な感じの少女です。でも、最初に兄の野外での葬儀に、ずうずうしくもファウストが参列して、彼女の隣に来て、そっと彼女の手を握ろうとすると、それを拒まず、むしろ意味ありげに微笑んで応じるわけです。その微笑みは、ちょっと純朴な少女のそれではなくて、少々淫らでしたたかなところを感じさせるものがあります。
母親は原作と違ってファウストに対して拒絶的で、娘が彼に近づいたと言うので娘を激しく叱責し、男は一度一人に許せば、後は限りなく、次から次へとお前を求めてくるぞ、というふうなことを言うのです。まあその母親の危惧ももっともだ、というような、ちょっと無防備で意外なマルガレーテのうけいれかたがあって、処女に潜む本能的な淫らさ、したたかさを垣間見せるような微妙な微笑でした。
つまりファウストの一方的な欲情の犠牲、というわけでもなく、彼女のほうにもそれなりの原因がある(笑)。だってほとんど40年か50年近くも歳の差がある、汚らしいひげ面、悪党面のおっさんですよ!そんなのに惚れますかね、まだ15-6か、17-8かというおぼこ娘が、です。そこは悪魔の仕業による、としなきゃ辻褄が合わない(笑)。
この作品で一番素敵な、美しい場面は、ファウストとマルガレーテが緑の森の中を散歩するシーンです。その緑が現実的な、生々しい陽光溢れる明るい濃い緑ではなく、古い色あせたフィルムのような、白っぽいモスグリーンというのか、白い苔のような色合いで、ちょうど色あせた古いセピア色の写真の茶色の代わりに緑色になったのを思い浮かべれば近いでしょうが、そういう何とも言えない抑えた色合いで、素晴らしい色調を出しています。これはそんなに古い映画じゃないから、ほんとにフィルムが色あせたわけじゃなくて、ソクーロフが明らかにこの色にせよ、と指示して作った色合いでしょう。みごとに幻想的な色合いを作り出しています。ここは本当にメルヒェンの世界の森のようで、その中でさすがに欲情男のファウストも純情な恋する少年のように、汚れない少女マルガレーテと初々しい会話に心弾ませる貴重な時間をすごします。
でも、結局のところマルガレーテは、悪魔との血の契約書にサインしたファウストの部屋に連れ込まれ、この欲情男の毒牙にかかります。マルガレーテの真っ白な裸体がベッドに横たえらえ、伸びた両脚の間の、暈しのはいった中心へファウストの醜い顔がうずめられていく・・・画面は暈されているけれども、相当にどぎついリアルで婀艶な描写といったところです。
あと印象に強く残る場面と言えば、ファウストの助手ワーグナーがホムンルクスを創ることに成功した、とフラスコに入ったその人造人間を持ってくるのですが、そのフラスコが割れて、生まれたばかりの赤ん坊のようなホムンルクスが石の床にたたきつけられ、まだびしょびしょに濡れた、ぬめぬめしたぶよぶよの身体をうごめかせて何か言いたげな表情を見せて死んでいくシーン。原作のように積極的にな役割は果たしませんが、映像ならではのその視覚的効果は衝撃なところがあって、気色悪さと共に印象づけられます。
ファウストは最後に悪魔の案内で冥界らしきところに赴きますが、そこには原作のような華やかなワルプルギスの魔女たちの饗宴もなければ絶世の美女ヘレネも待ってはいません。ファウストが悪魔の助けを借りて加担する皇帝の軍勢もなく、従ってその功績の褒賞に貰った海を埋め立てて人々の楽園を創るというような現実的な計画を描くこともありません。
ファウストは依然として自分に寄り添っていた悪魔を岩で打ち砕いて穴ぼこに埋め、悪魔との契約書を破り捨てて自由な人になると、遠く氷山のそびえる一面の雪原というのか氷原というのか、人っ子一人いない荒野を前にして、遠くまでいくんだ!(笑)みたいなことを叫んでどこまでも前進していく、そこで終わっています。
最初から神様などてんで信じる気配などなく、自分が欲情の生贄にした少女への贖罪もどこへやら、悪魔も殺してしまえばもはや彼の行く手を阻む者はなく、自由であるほかにいたしかたがないのでしょう。彼の空元気のような雄たけびは、その運命を引き受けるぞ、という決意表明ということなのかもしれません。
このラストは、ゲーテの原作のあまりにも豊かな古代幻想の世界や神話的な饗宴の世界に比べて、貧しく、そこまでに彼が抱え込んできたものとも釣り合いの取れない空虚な雄たけびであり、何も見えない未来ではありますが、現代のわれわれとしては自分たちがこのような世界に歩みいるほかはないのだという思いで引き受けざるを得ない世界なのだ、という意味では、不服ながら、このまま受け入れるよりほか仕方のないものなのかもしれません。
blog 2020年08月11日