「切れた鎖」(田中慎弥)
何度も芥川賞候補になり、今回表題作で三島由紀夫賞を受賞した著者による、「不意の償い」「蛹」「切れた鎖」の三作品を収めた作品集。
正直言って電車の中で読むには辛かった。いろんな意味でつらい。まず当然ながらエンターテインメントと違って、文体はいわゆる純文芸誌に載るような、というより、純文芸誌に載るほかはないような文体だし、そこで描かれる世界も辛くなるような世界だ。
私にとってまだ一番マシだったのは「不意の償い」。団地の幼馴染で、将来結婚しようと「密約」を交わした幼い日から、ずっとその狭い世界を出ずに住んで、親同士が働いていた商店街の真ん中のスーパーに就職内定して・・・という誠に狭い狭い世界に生きる若い男女が、親の目を盗んで初めてのセックスをした日に、その両親4人が不審火によるスーパーの火事で死んでしまう。
表面的に読んでいけば、その疚しさからオブセッションにとりつかれた男「私」が、妻の妊娠を契機に?次第に錯乱していくのを一人称で書いている。
"・・・私には、ふーっと吹き消せるのではないかというくらい近いところにスーパーを焼く火が見えるようだった。妻が十二年前の火に焼かれて妊娠したのだとしたら、急激な欲求を妻の体へぶつけたことは罪とも呼べないかもしれないと思った。街を包んでいたにおいが鼻の奥に蘇り、スーパーの商品だった生焼けの肉の山に頭を突っ込んでいる犬や猫が、小豆色のダウンジャケットの、夫に無理をされたばかりの妻の体を嗅ぎつけて気持悪い声ですり寄ってくるところを想像した。"
・・・といったあたりまでは、まだ正気の領域だが、電車の中で話し込んでいる七十くらいの二人の女、一人は猿に、一人は狸に似た女を見るあたりになると、もうその領域を越境してしまっている。
"「燕が妊娠・・・」とどちらかが言ったのだ。右手で銀色の棒へ体を引き寄せあからさまに見下ろすと同時にこちらへ向けられた二つの顔は本物の、真っ赤な皮膚の猿と灰色の毛の生えた狸だった。猿は手に血だらけの燕の死体を持ち、狸は小さな卵を握って砕き、孵化寸前だった雛を爪に引っかけていじくり回していた。・・・"
あるいは;
"火事だ火事だと叫びながら空を覆う何百匹かの蝙蝠が落す真っ赤な糞で道がどろどろになっていた。産婦人科の前で服を着ていない猿と狸が、一つの胴に足が二十本、頭と尾が五つある黒い犬を路面へ仰けに押えつけていた。顔は妻と私の両親と妻の両親だ。腹の上には蝙蝠の糞を浴びたように血まみれの生れたての人間の赤ん坊が乗っておりこちらの顔は高校生の私で、もどかしそうに腰を動かしていた。猿が、「ははあ、どの穴に入れればいいんだか分からないんだな。」と言えば、
「人間が獣に入れるんだからどこでもいいだろうに。」と狸。高校生の私の目と耳と口からちろちろと炎が出ていて、それを見て喉が渇いたおかしさを支えに団地まで辿り着いた。"
かなり強烈でグロテスクなイメージを喚起する、この印象的な文体が、象徴的な親殺しの最中の性の営みがあらたな生命を妻の体の中に産みつける、力強くも汚辱にまみれた生命のグロテスクな相を鮮やかな赤黒い炎のように見せてくれる。
「蛹」というのは一見不思議な作品で、人間は登場しない。これはかぶと虫の蛹の内面をくぐって見る世界だ。ここでも生命(性)の営みは独特のグロテスクな色彩を帯びている。
"地上では闇と光が何度も入れ替り、彼と同じように角を持っているかぶと虫の雄と楕円形の雌は光が去ると土から出、闇の中で絡まり合った。幼虫の期間があったとは考えられない激しい動きだった。行動が闇そのものになり闇全体が揺れ動いた。一匹の雌に数匹の雄がのしかかり、その褐色の集団が幹の表面を這いずり回るガチャガチャという音が闇の中心であり光に代る何ものかであるようだった。最後に残った雄が雌と番う。その一匹と一匹の行為は、翅を閉じているのに体の内側を剥出しにしているかのような、二匹の汚れが闇に滲んでゆきそうな恐しい闘いだった。・・”
「切れた鎖」は、夫を新興宗教である「裏の教会」の女に奪われた女の嫉妬と憎悪が、憎悪の相手への強烈な民族差別や性的な侮蔑として投射され、娘や孫もその内面から憎悪に染め上げていく、その振る舞い、その偏狭な生き方の強さのうちに、人間とか女というよりも、生命そのもののグロテスクな姿を見せ付けられるようなインパクトがある。
それにしても、前の席にならぶ初夏のいでたちの爽やかなお嬢さんたちの姿を眺めながらの車中、この種の作品を読むというのは、心的落差おおきく、かなり辛いものがありました。
blog 2008年05月27日