山田詠美「ジェントルマン」
山田詠美は文藝賞をうけた作品から始まって、学生がそれで卒論を書いた『ぼくは勉強ができない』、それに私が読んだ範囲では一番良かった『風味絶佳』まで、いくつかの作品を読んで力量がわかっているので、書店で『ジェントルマン』が平積みになっているのをみて迷うことなく買って読みました。
が、今回は私にはどうも苦手な作品の部類だったようです。最初はなんだこれは、なんで山田詠美がこんな馬鹿みたいな高校生の凡庸な目線でどうしようもない文体で書くんだよ、という退屈極まりない印象で、だけどそれはきっとこのままで終わるはずはない、何かの仕掛けに違いない、と思って我慢して読んでいくと、20ページといくらか読んだところで、漱太郎が四十路のオバサン先生を凌辱する場面が出てきてガラッと景色が変わってきます。
ああ、やっぱりね、とは思いましたが、その後もあまり面白くない。というより、私にはあんまりなじみのない世界なので(笑)、登場人物の誰にも寄り添って読んでいくことができず、ふ~ん、という感じでとにかく読み進んで、最後はやっちゃった、というひどく凡庸なドラマのラストみたいで、正直がっかり。
山田詠美ってこういう作家だっけ、と前の作品読んでからもう何年もたっていたので、感覚を思い出すことができなくて、なんだか次の作品を手に取る気が薄れてしまいました。『風味絶佳』はいつでも読み返せるように手近にいつもおいてあるってのに・・・
考えてみると、私はこの小説の中の夢生のような性の感覚に疎くて、その手の作品にうまく感情移入できないんじゃないかという気がしてきました。三島由紀夫でもその手の感覚が前面に出てくる作品はだめだったし。映画でも名作とか言われて、あれを見なきゃ、とか言われても、やっぱりどうも苦手で・・・
偏見があるわけじゃないつもりだし、「n個の性」ってとても魅力的な考え方だなと思うことは思うのですが、こういう感性で触れるような映画だの小説だのということになると苦手で・・・
これはやっぱり「作られた感性」なんでしょうかね。
でもそういうのに過敏でも敏感でもなくて・・・ずっと以前のことだけれど、パリに住む日本人女性に通訳をつとめてもらって、国立のよく知られたミュージアムの関係者に次々にインタビューしたときのことです。
施設の周辺のビルの中に分散して存在したオフィスの一つを訪ねたときに、お目当ての男性の担当者のそばにもう一人の男性が座っていて、二人ともニコニコいい笑顔でこちらに応対してくれて、親切に質問にも答えてくれた。
でもそのもう一人の人は名前は紹介してくれたけれど、なんでその人がそこにいるのか、どういう人なのかもよくわからなくて、なんだか妙な感じで、でも何が妙なのかもわからなくて、それでもまあインタビューを終えて外に出ると、通訳をしてくれた女性がちょっと意味ありげに笑って、「・・・でしたね」と小声でささやく。よく聞こえなくて「え?」と二度聞き直すと、「あの二人、××ですよ」という。
そのとき、自分の中でなにか妙な雰囲気だな、と感じていた疑問形のモヤモヤがスッと消えて、あ、なんだ、そうなんだ、と妙に納得できたのを覚えています。
それがわかったからって、どうってこともないのだけれど、国立の施設を管理するかなり重要なポジションの人がそういう関係で、真昼間からああやって一つのオフィスにいて、来客にもいつも二人で応対して、ニコニコしながらくっついている、ってのがどうもわからない、とフランスという国のそのへんの感覚に不思議な印象を覚えたのでした。
だけど、若いとき一所懸命読み解こうとした『言葉と物』のフーコーのような偉大な人にせよ、数多くの著名な知識人や俳優たちにせよ、「n個の性」を生きた人は数多くて、たぶん日本だってよくは見えないけれど数は少なくはないのでしょう。
そう考えると、私はひょっとすると、この領域の世界の少なくとも半分を知らず、わからないまま小説を読んだり映画を見たりしていて、なにかこう全然見当違いの見方をしているんじゃないか、と空恐ろしい気がします。
そしてもし「n個の性」ということにこの世の性の真実があるとすれば、逆にその中のたった一つの女性という性に執着してきた(?)自分がひどく偏った、頑なな感性の持ち主にも思え、なぜそうなったのかは、はたしてかつてのボーヴォワール女史の言ったような「作られた性」の裏返しに過ぎないのかどうか、気になるところです。
blog 2011/12/29