ジャンヌ(ジャック・リヴェット監督) 1994
ジャック・リヴェット監督の「ジャンヌ 愛と自由の天使」と「ジャンヌ 薔薇の十字架」とVHSで二巻に分かれた、あわせて238分、ほぼ4時間にわたる長尺です。
近くのレンタルビデオ屋にもないし、ビデオでもDVDでもいまは市販していないようなので、アマゾンのマーケットプレイスと別の通販とで別々に、いずれも「レンタル落ち」の中古VHSを購入して、やっと見ることができました。やっぱり半世紀遅れの映画ファンはちょっと名の知れた監督の映画を見るのでも大変(笑)。
でもこういう記録媒体さえなくて映画館で見るしかなかった昔は、一度見逃せばほんとに10年くらい見られない、なんてざらだったでしょうね。それを思えば、なんとかこんな形ででも手軽にどんな作品だったか、くらいは見ることができ、素人としてはそれで十分ですから、ありがたいと思わなくてはならないでしょう。
マーケットプレイスのほうは高かった(6千円)けれど、もうひとつのほうは何と500円で入手でき、ラッキーでした。
これだけ価格に差があっても商品としての質は同じ程度。充実したパンフレットもネットでわずか1円(+送料)で入手できました。
そのパンフレットに台詞担当のパスカル・ボニツェール&クリスティーヌ・ロランというスタッフが「二つの映画ができるまで」という記事を載せていて、その末尾に衣裳のことに触れて「色と素材に関して私たちが唯一贅沢をしたのは、大量生産の画一性を避けるため、草木染の布以外は使わなかったことだ。おかげでスクリーンに映し出されるときに思いもよらない効果、とても印象的で深みのある色の効果が加わった。」とあります。さすがにレンタル落ちの中古VHSを同じく中古のテレビディスプレイで見たので実感するのは無理(笑)。
けれども、史実にもとづいたドラマでもあり、「パリはわれらのもの」のような分かりにくさは無くて、物語性を追っかけて見ていけるので、長編でも楽に愉しんで一気にみることができました。
ただ、ジャンル・ダルクを描いた作品として、私なりに疑問に思った点はあります。どうしても先だって見たロベール・ブレッソン監督の「ジャンヌ・ダルク裁判」の印象が強いので、裁判のやりとりに焦点を絞ったブレッソンの作品のテンションの高さと比較して、信心深さでは非凡なものがあったかもしれないけれど、どうみても田舎の17歳のありふれた少女だったジャンヌが神の声を聴いて王太子シャルルに会うために守備隊長のところへ行くところから火刑に処せられるまでの、多様な密度から成る長い時間を描くこの作品が目の粗いものに感じられるのは仕方のないところかもしれません。
リヴェット自身、こう語っていたようです。
「ぼくはやや怖じ気づいていた。敢えてブレッソンやドライヤーの天才的な二本の映画に続く、処刑裁判の三番目のヴァージョンを作る気などなかった。」
(セルジュ・カガンスキ、クリスチャン・フェヴレによるリヴェットへのインタヴュー。阿朝吹由紀子訳・著の『ジャンヌ』~角川文庫~に収録の細川晋訳による「人間の声」より)
彼は『ジャンヌ』は長年の執着の結果なのですか、と訊かれて、「ジャンヌのことなんて考えてもみなかった」と答え、『狂気の愛』以来、自分が使いたいと思う俳優から出発して映画を作るようになっていたとその経緯を語り、『ジャンヌ』に関しても「何年も前からサンドリーヌ・ボネールのことが頭にあった。何かいい題材が見つかるのを待っていたんだ。時が経ち、ある日突然ひらめいた。ジャンヌ・ダルクだ。」(同前)とこの作品の主演女優がそもそもこの映画を撮ろうというモチベーションの中心にあったような口ぶりです。
それにしても、ジャンヌ・ダルクを主人公にして、ジャック・リヴェット監督は何を描きたかったんだろう?と考えると、ちょっとわかりにくいところがあります。それで、これまでもジャンヌ・ダルクを描いた作品は彼自身が挙げているブレッソン、ドライヤー以外にも色々あったようですが、きっとほかの監督だったらこんな場面は描かないだろうな、と(単なる憶測ですが)私が思うようなこの作品の特徴的なシーンを拾ってみましょう。
そうすると、兵士と共に王太子に会いにいく旅のはじめ、自分たちの連れが若い女性であることから、よからぬことを考えてジャンヌの両脇で藁の寝床に横たわっていた兵士たちが、まだ可愛らし子供にすぎないジャンヌの寝顔を見て、天使のようだなと感じ、自分たちの邪な思いを恥じていたとき、ふと目覚めたジャンヌが眠れずにいる両側の兵士たちを見て無邪気に声を挙げて笑い、まだ起きてるの?寝なさいよ、みたいに言ったりする場面、そして、戦の指揮をとるようになってからのジャンヌがイギリス側に降伏勧告を送って、その返事に娼婦だとかなんだとか悪態をつかれ、ものすごく感情的になって興奮し、怒鳴り返したりするシーン、あるいはトゥーレル要塞の攻撃に際してハシゴをかけて城壁を登ろうとしたジャンヌが肩(腕と胸のあいだ)に矢を受けて倒れたとき、痛い痛いと泣き叫んで、軽症だと言うのに、私死ぬの?と怖がるような場面、さらに最後に審問を受け異端と断じられて囚われ、何度も暴漢に襲われて激しく抵抗する場面、また最後の最後に、告解師から、きょうのうちに火刑に処せられると告げられ、髪をかきむしり大声で叫んで壁に身をぶつけるように突進して取り乱す場面・・・等々。
これらは、みな、ジャンヌの子どもっぽさ、或いは人間として、ただの人、女性としての弱さを示すような部分です。もちろん17-19歳の普通の女の子ならこんな目にあえば泣いたりわめいたり怖がったりするのも当たり前だし、まだしもコントロールが効いているほうかもしれませんが、神の声に従ってフランスを救った救国のヒロインという聖化されたジャンヌ像からは遠い、ふつうの弱い人間の姿です。
聖化されたヒロインとしてのジャンヌ・ダルクではなく、そういう弱さも幼さもある、普通の少女としてのジャンヌを描こうという意志は、たしかにそういうところに感じられます。聖女として伝説化され、理想化されたジャンヌ・ダルクに伴う神秘化、偶像化を回避して人間ジャンヌを描こうとする意図がみえるのは確かな気がします。
けれども、そうすると今度は逆に、なぜそんな「ふつうの女の子」が救国の英雄になり得たのか、当時の彼女と一緒に戦った兵士たち、将軍たち、そしてとにもかくにも一旦は彼女を神の声が聴ける存在として受け入れた聖職者たちや王太子らが、なぜ一介の田舎の少女であった「ふつうの女の子」をそんな特別な存在として受け入れたのか、という謎に答えられるものがこの作品自体に無くてはならないでしょう。
ロベール・ブレッソンのジャンヌなどは、見ただけで、あるいは裁判でのやりとりの中で彼女が語る言葉を聞くだけで、彼女がたしかに神の声を聴くことのできる特別な存在だったかもしれぬ、ということが感じられます。あの作品の演出、女優の演技、すべてがそういう特別の存在としてのジャンヌ像を指向しているので、観客にもそれはすぐに伝わってきます。
でも、持って生まれた資質や、神に選ばれた存在であることの、目に見える証は、このリヴェットのジャンヌには与えられていません。彼女がポワチエの審問に際して、将来示される「徴」として、オルレアンの解放、王太子のランスでの聖別、パリ奪回、捕虜になっているオルレアン公の帰還という4つを挙げて、それらの実現を通じて彼女が特別な存在であることは「結果的に」分かりますが、それはあとづけであって、当初から彼女が選ばれた存在であることを示す証ではありません。
たしかに審問官たち聖職者も、将軍たちも、王太子も、最初は半信半疑だったのですが、それにしても、私でなければ王太子を救うことが出来ない、フランスを救うことができない、という少女を、そんな半信半疑のままに受け容れ、王の軍勢を委ねたりできるものでしょうか。
なるほど聖職者たちや王の側近の中には、彼女に当初から一貫して疑いをもっている者もあったし、またもちろんフランス人であってもシャルルに敵対するブルゴーニュ派の人々は彼女など信じていないでしょう。
また味方の将軍たちも、王の命令だからジャンヌをかついでいるけれど、実際に戦場で兵を動かす指示は俺たちがやる、という態度をみせますし、ジャンヌを外して作成会議を開いたり、彼女の指示に従わない指示を出したり(河岸の反対側を迂回するように命令したり)といったところに、俺たちはただ彼女を御神輿として担いでいるだけさ、というニュアンスが感じられなくはありません。
彼女がそのために戦っている王太子にしても、総督ゴークールが見抜いていたように、ジャンヌたちが王自らの出陣を懇願したにも関わらず、共に戦ってパリ奪回をめざそうとはせず、近くのサン・ドニまで来て日和見していて、ジャンヌの率いる軍が勝てばパリに入城して自分の手柄にし、負ければ自分は関係なし、と遁走できる姿勢でいるわけです。
そこらは描かれていますが、それでも、物語自体がジャンヌに寄り添った視点で展開されているので、もしも彼女が神に選ばれた特別の存在ではなく、平凡な、しかし神がかった田舎の少女をうまく王太子派の勢力がかついで、フランス軍の求心力を高めて敵にうちかつために利用しただけだとすれば、重要なのはかつがれるジャンヌよりも、神輿をかつぐ側の事情であり、その意図や権力関係であって、そういうからくりの構造がきちんと明示的に描かれなければ、そこで起きていること自体が奥行きのないうすっぺらなものになってしまうでしょう。
ヒロインから聖性を剥奪して、ただのありふれた女の子にした分、彼女がジャンヌ・ダルクであるためには、周囲に彼女を支える仕掛けがなくてはならない道理です。実はこの作品を見ていて、彼女をかつぐ側の掘り下げが浅く思えてならず、彼女が受け入れられていくプロセスや受け容れる側の構造やモチベーションが曖昧だな、という気がしました。
シャルル、アルマニャック派の軍人や坊主たちは、圧倒的な兵力のイギリスと一体化したブルゴーニュ派に追い立てられて切羽詰まった状態にあり、オルレアンもすっかり包囲されて救いを求められながら万策尽きかけていたところだったので、人間ジャンヌを挙国一致の求心力のシンボルとして使おうという魂胆があって、狂信的に神のお告げ一本やりの少女がうまく利用できると考え、そういう象徴的な機能として活用したのだとすれば、そのからくりのほうに関心は移るわけで、その構造や力学が深掘りされないと、物語り全体が薄っぺらになるでしょう。そこがこの作品はジャンヌに寄り添った視点で物語られる分、目が粗い感じがしました。
太宰治はイエス・キリストを描くにあたって、「裏切り者」であるイスカリオテのユダの視点から、イエスの聖性を支えるために、いかにユダが献身的に駆けずりまわって現実的な手回しをしなくてはならなかったか、というのを非常に鮮やかに描き出しています。
ユダの目から見ればイエスは神の子として奇跡をおこなう神秘的な力をもった存在でもなんでもない、ふつうの薄汚れた中年男にすぎなかった。けれども、そんなイエスが神の子として奇跡をおこない、人々の熱狂的な信仰を集めるにいたったのは、自分(ユダ)が陰で現実的な部分を全部支えていたからじゃないか、というのがユダの告白でした。
もしもリヴェット監督がジャンヌからアプリオリな聖性を剥奪して、弱さも幼さも持つ普通の女の子としてのジャンヌという目で描こうとするなら、一方で、そのジャンヌがなぜ当時の人々に受け入れられ、まさに我々が考えるようなジャンヌ・ダルクたりえたのか、という疑問に、ジャンヌのアプリオリな聖性以外の部分できちんと答えなければならないはずで、それが示唆はされているけれど、曖昧な気がしたのです。
ただ、とても面白かったのは、太宰の「駈け込み訴へ」のユダが現実を担い、物質の調達や金銭面での面倒をみているのと同じように、お金に関わる下世話な話が出てくる場面です。
シャルルの戦争にもお金がかかるわけで、ジャンヌにシャルルが自分の傷んだ靴の裏を見せて、自分にはもうこの一足しかないんだ、と言い、側近のラ・トレムイユが新たに前払いしてくれないと新しい靴一足も買うことができないんだ、と淋し気に言って、財務も取り仕切るこの側近に、陛下には既に金貨千エキュの借金があると暴露された上でこの王よりも身なりのよい側近から12エキュだけ貸してもらい、その分、戦争の費用が少なくなる、と厭味を言われます。こういう場面など笑ってしまいます。
オルレアンの包囲を破り、町に入ったあと、指揮官デュノワと財務官ジャック・ブシェが戦に必要な矢が要るという話をするところでも、15000本分約500トゥール系リーヴル、火薬、鉛弾、袋に物入れ、と加えて300リーヴル等と戦費を交渉するような場面もあります。こういうところはジャンヌの戦を支える下部構造で、「駈け込み訴へ」のユダの影の下働きの部分に相当するでしょう。太宰の場合は、ユダの目でイエスの神秘性を地上に引きずり降ろしながらも、彼が人間としてのイエスを愛してしまったことがユダの真の悲劇で、ちゃんとイエスのキリストとしての聖性とそれを支えるユダの現実の拮抗を描いたうえで、両者の矛盾がユダの人格の中でどう表現され、どういう結末にいたるかまで、必然性を持って描かれています。あの作品は口述筆記で一気に語り降ろして短期間に書かれたそうですが、天才作家はポイントを外さず、透徹したまなざしが矛盾の底深くまで届いている印象があります。
リヴェットの『ジャンヌ』の世界では、神父らも将軍らも、ジャンヌの力説する神のお告げには半信半疑です。でも、彼女が王太子を救い、ランスで戴冠式を挙げることができ、フランス軍が勢いづくなら、つまりジャンヌの言うことが「もし本当だったら、もうけものだ」という、文字通りそんなことをつぶやく登場人物もあるので、その程度にはジャンルを受け容れる人々の受け容れ方は表現されてはいるのですが、でも、その曖昧さのままに一国の軍勢を彼女に預け、その生死を委ねるか、となると、やっぱり現実感がなくて、どこかで肝心のところがすっとばされている印象をぬぐえませんでした。
その分、サンドリーヌ・ボネールという名優らしい女優さんが熱演すればするほど、これがただのおばさんならぬただの17-19歳の少女、に見えてしまうところがあります。戦場でも指揮をするというより、敵陣営に降伏勧告を送って敵側から嘲笑されたり、無鉄砲な攻撃に自分も加わって矢傷を受けたり、あとは戦場ではプロの指揮官たちからは、ろくに戦争のかけひきも知らない小娘が神がこう言われたのだと無茶な指示を出そうとするので、できたら実際の作戦会議や指揮から外れていてもらいたい存在にすぎず、あまり本気で相手にされているようにも見えず、ひとり告解や祈りを実行したりして戦場をうろうろしているだけの存在にみえます。
ひとつには、この映画、予算のせいか、監督の美学によるものか、戦闘場面はほとんどありません。先のインタビューで、「群衆の数がかなり少なく、戦闘の規模が最小限に抑えられているのは、予算的な理由でしょうか」と訊かれて、莫大な予算がないことは最初から分かっていたので、「それは美学的選択の結果だ」と監督自身は答えています。
普通はジャンヌ・ダルクが救国の女神として崇敬を集める最大の要因であったろうオルレアンの包囲を破る有名な戦闘も、ただ会話の中で結果だけ示されます。ジャンヌが華々しい戦果を挙げて熱狂的な歓迎を受け、フランス軍の意気を高揚させていくプロセスが欠落していて、ただ砦を落として、戦勝だった、という情報だけが与えられるので、ジャンヌが審問で述べた「徴」が実感的には伝わってこない憾みがあります。
もっとも、そういう場面を例えばジャンヌが白馬にまたがる騎士として全軍の先頭を切って敵に襲い掛かるような戦闘場面が盛んに出てくれば、彼女を聖化する方向に行ってしまうでしょうから、そういうことはリヴェット監督の志向するジャンヌ像とは違うので、避けたかったのかもしれません。それにしても、砦の石垣にはしごをかけて登ろうと試みて肩を射抜かれる戦闘場面にしても、パリの城壁を前に堀を渡ろうとして荷馬車などを水の中に放り込んで橋代わりにしようと試みる場面でも砦の上から雨霰と降ってくる矢に足をやられる場面でも、なんだか戦闘場面ともいえない、のんびり、もたもたしていて、素人目にもあれではやられるよな、と思われるようなドジな兵士を演じています。
監督はこの映画をつくるにあたって、ジャンヌ・ダルクの復権を図る再審裁判の記録など、古い史料を発掘し、それらに依拠して、何が起きたのか、ジャンルがどんな発言をしたと当時の関係者が記録していたかをつぶさに研究して、それらの語る史実にできる限り忠実な作品にしあげたらしいことが、監督自身のインタビューや、パンフレットに掲載された台詞担当者らの証言で伺うことができます。
ただ、史実は史実であって、その何を拾い、どんな場面を選び、どう構成するかはもっぱら映画の作り手の問題で、そういった手つきから新たなジャンヌ像が浮かび上がってくるはずなので、「ふつうの女の子としてのジャンヌ」と「ジャンヌ・ダルク」が「ジャンヌ・ダルク」でありえたこととの、そう言ってよければ矛盾をどう作品化するか、という問題はもっぱら映画の最終責任者であるリヴェット監督の手にゆだねられていたわけで、私にはそこに必ずしも納得のいく答としてのジャンヌ像を見出すことができませんでした。
先に挙げたインタビューで、この作品『ジャンヌ』や『美しき諍い女』に関する限り、直線的なストーリー、よく知られた俳優、「きれいな」映像等々がみられるため、あなたはより「分かりやすい」映画に向かおうと思ったのか、と訊かれて、リヴェット監督はこう答えています。
「常にそれぞれの映画を、万人にとってとは言わないが、多くの人々にとって面白いものにしたいと考えていた。50人にしか気にいってもらえない映画を作ろうと考えたことはない。ジャン=マリ・ストローブとダニエル・ユイエですら、自分たちの映画は多くの大衆を感動させるはずであり、そうでないとすれば、単なる誤解や、彼らに反対する資本主義者の残酷な同盟のせいだと主張していた。意地悪な言い方をしたかもしれないが、彼らはまったく正しい・・・。」
ここには、「わかりやすさ」を観客への迎合や表現意識の風化だと決めつけて、独りよがりな「難解」な表現に価値があるかのように錯覚し、分かるやつだけ分かればいい、という唯我独尊にあぐらをかくような傲慢な姿勢は微塵もありません。
ほんとうにすぐれた作品をつくる人は映画作家も、こんなふうに、一部のシネアストやシネフィルの方を向いて作品をつくっているわけではなく、常にごくふつうの時たま映画を楽しみに映画館を訪れるような大衆に開かれた表現意識をもっていて、私たちずぶの素人観客が手ぶらでみても、というより手ぶらで素直にみればみるほど、その作品はエピゴーネンたちの作品とはまるで違って、「分かりやすい」ものだと思います。
映画評論も花盛りだけれど、批評についてもリヴェットはまっとうな考えを述べています。いまでは前掲のこの古本通販で1円で手にいれた文庫本も、たぶん入手が容易ではないと思うので、彼の言葉を引用しておきましょう。
「残念ながら、今では批評から多くのことを学ぶことはできない。セルジュ・ダネーみたいな人が貴重だったのは、批評を通じて何かを教えてくれたからだ。映画批評家は何に興味を持っていたか。アンドレ・バザン、フランソワ・トリュフォー、セルジュ。彼らはその都度、映画狂の世界に閉じこもるのでなく、年代や引用の出典に熱中するのでもなく、一本の映画について語った。彼らはぼくたちが映画を作ろうとするのと同じように映画を見た。映画史に対する興味からだけでなく、人生、世界で起きている出来事、音楽、絵画などに対する興味からだ。」
”映画狂の世界に閉じ”こもり、”年代や引用の出典に熱中する”どこかの国の評論家や自称シネフィルさんに聴かせてあげたいセリフですね(笑)
Blog 2019-3-2