「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督)
濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」。DVDが出ていたので入手したのですが、パートナーと一緒に見ようと言ったら、3時間に及ぶというので、夜、ちょっと重いなぁ、と消極的な反応だったので、きょうは終日の雨でおこもりの日でもあり、一人でゆっくり楽しみました。
これは評判通り、素晴らしい作品でした。シナリオを読んだときにも、いい脚本だなぁと思ったのですが、実際に映画になってみると、ほんとに淡々とした物語なのに、日常的なささやかな起伏が、映画表現としてものすごく魅力的な転換の連続で構成されていて、わくわくしながら見ていました。大抵の映画というのは、或る場面の次にどんな場面がくるか、なんとなく予測しながら見ていて、実際多かれ少なかれ予想どおりの展開であることが多いのですが、この作品は、その種の予測がつかず、シナリオを読んでいなければ、きっと次の展開はまったく予想できなかったでしょう。
考えてみれば、主人公の男が演劇の演出家(役者でもある)だという点を除けば特異な設定もなければ、大事件が起きるわけでもなく、殺人も暴力も事故もなく、特別な能力やキャラをもったヒーローやヒロインが登場するわけでもなく、いわば日常的なささやかな出来事が、かかわって行く人間の心にさざ波を立てていくだけのストーリーで、事件と言えば主人公の妻が他の男性とセックスをする現場を偶然予定が変わって帰宅した亭主が目撃してしまうことと、その妻が何か大切なことを告げようとしたはずの日にくも膜下出血で突然死んでしまうことくらいです。
どこにでもありそうな、そんな出来事が、男の心に深い傷を負わせ、なぜなんだ、という自問をずっと抱えながら、演劇のオーディションや読み合わせやリハーサルの仕事をする、その中でそれぞれ個性的な役者とふれあい、また仕事場へ通う車のドライバーとして与えられた女性との、はじめは互いに立ち入らないことをそれぞれが戒律のように守りながら、徐々にそれぞれ心を開いていくプロセスがあり、この女性ドライバーも心に深い傷を負った女性なのですが、そのプロセスの中で徐々に自分を解き放っていくといった展開になります。
シナリオの感想でも書きましたが、男が車に乗っている間ずっと聞いている、妻の声で吹き込まれたチエホフの「ワーニャ伯父さん」のセリフが、実にうまく使われています。変に意味ありげなわざとらしいものには感じられず、そのくせそのすべてが主人公家福の内面の語りと重なり、そのメタフォーであるかのように、また彼とその周囲の人間との関係性のメタフォーであるかのように、淡々とただ「読めばいい」と指示されて読むようなシナリオのセリフとして語られていくのです。
濱口さんの以前の作品、例えば大作「ハッピーアワー」では、主人公である4人の女性たちが、ちょっと日本人の女性ではあり得ないだろうと思えるほど、非常にはっきりとした、そう言って良ければ論理的な日本語を、堂々と語って、自分の意志を表現します。それは現代の日常生活の中の言葉としてはリアリティがない発語に思えるけれど、あの作品では、むしろ彼女たちの言葉のほうに作品のリアリティがあるように思えました。
今回の作品では、主人公の家福も妻も、そしてドライバーの女性も寡黙で、ほとんど必要最小限のことしか口にせず、互いに同じ場にいて、対話すべき状況の中でも、できる限り相手に立ち入らない、自分にも立ち入らせない、という空気をそれぞれが発散しているかのようです。言葉は全部それぞれの内側深くに向けられ、その思いも迷いも疑問も葛藤も、全部それぞれの内側の閉じた空間でしか演じられていないかのようです。しかし、その間も、テープから流れるチエホフの戯曲のセリフが、それらの内面と響き合う形で、頑なに閉じられたその内面をあからさまに引き出すかに見えるような暗喩的な働きをします。あくまでもそれはチエホフの一戯曲のセリフに過ぎず、別段それを実際に読み、語る主人公やその妻の内面などではないことを自明の前提としながら、です。
そして最初はそのように閉じられた内面を抱えた男と、同じように閉じられた内面を抱えたドライバーの女とが、遠慮がちに言葉を交わす中で、次第にその内面を開き、ことばを取り戻していく、という物語になっています。
家福がオーディションで採用した女性の一人は、ことばを喋ることができず、手話で演技する韓国人女性がいます。これがとても良くて、まずそういう人物を登場させているシナリオが素晴らしいし、演技のほうもとてもいいのです。彼女は実は家福が招かれて舞台づくりをしている国際演劇祭の主催側の担当者の男性の妻で、家福とドライバーは彼の自宅に招かれて一緒に会食します。
その場で家福が、その韓国人女性に演技をする上で何か困難はないですか、というふうなことを訊くと、彼女は、ほかの人には訊かないことを、どうして私には訊くんですか?と逆に訊き返します。そして続けて、「自分の言葉が伝わらないのは私にとって普通のことです。」と言います。その瞬間、たぶん家福も、私たちこの映画を見ている者も、ハッとさせられるでしょう。彼女の言葉に、この映画そのものの語ろうとすることを理解する一つのヒントがあるだろうと思います。
家福の演出する演劇の登場人物を演じるのは色々な国の人で、セリフもそれぞれの国の言葉で語られます。最初からお互いのセリフはそれ自体としては理解しあえない環境の中で登場人物として関わって行くことになります。この設定はもちろん家福たち、いやたぶん私たちみなが置かれている状況のメタフォーなのでしょう。自分の言葉が伝わらないことが当たり前でありながら、あたかもみなわかっているかのように接していく、と言った状況の中で、見たり聞いたり触れたりすることによって、一所懸命にわかろうとし、伝えようとして、失われた言葉を少しずつ回復しようとすること、それが長い長い日々と、長い夜を生き抜くということなのでしょう。
2022年03月18日blog