バーニング(イ・チャンドン監督) 2018
村上春樹の短編「納屋を焼く」の映画化だというので、期待して見に行きました。珍しく京都シネマで(笑)。私のとっている新聞、朝日でも日経でも、この作品をそれだけで取り上げて比較的好意的な評価をしていました。でも、私はこれは原作とは全然違う作品だな、と思いました。
もちろん話の構成は、少なくとも結末以外は原作の構成をそのまま借りたことは一目瞭然だし、登場人物の、たとえばミカンの皮むきのパントマイムみたいな独創的なシーンやそこでのセリフまでそっくりそのまま使っているから、原作の映画化というのは形としてはそのとおりです。
しかし、この映画は小説で言えば純文学というよりエンターテインメントであるジャンル小説としての推理小説、犯罪小説に属するものなんだろうと思います。
村上春樹の作品では、もちろんこの映画のような結末のシーンはありませんし、それだけではなくて、そういう結末を暗示したり、実はこうだったんですよ、というようなことを匂わせたり、方向づけたりするような要素は私の記憶する限りは無かったと思います。文字通り、彼女はふっつりといなくなるし、納屋が「わたし」の綿密な調査では焼かれていないはずなのに、男がもう焼いた、というのも、「わたし」にとっても、読者にとっても謎のまま残されていたと思います。
謎が謎として残されるのは、作者にはちゃんと明確な結末があって、そこをわざと隠蔽し、省略し、曖昧にしている、ということとは全く別のことだと思います。もしもそうであるならば、この映画のように、無数の暗示させる(実際には顕在化させている)伏線的要素をあらかじめ作品のうちに散りばめて、その物語の内的な運動が指し示すゴールに向かう必然性をかならずや与えるはずで、作品のうちに書かれていないものによってその作品を語ることはできません。
この映画作品では、村上春樹の「原作」とは全く異なって、映画の作り手には、最初からこれは男ベンが女へミを殺す、作品自体には明示的映像として現れはしないけれど、物語の見えない着地点が明確に見えていて、その着地点だけは見せないけれども、あらゆる明示的な要素がその見えない着地点へ向かうベクトルになるように作品自体が作られています。
語り手が「原作」のように既に名の知られた作家で、彼女が旅行先で連れて帰る男のほうが、彼が知られた作家だから興味をもったという若造であるのに対して、映画では語り手のジョンスのほうが頼りない若造で、彼女が連れて帰る男のほうが海千山千の年上の男であるという設定自体も、この作品なりの(「原作」とはまるで異なる)必然性に沿って変更されています。
ベンが色んな国で拾って来たらしい若い女たちを集めたパーティーと、そのパーティーで語る女たちの話にまったく興味がなさそうな顔してあくびばかりしているベンの姿とか、ベンの家のトイレの引き出しにストックされた女たちの数々のアクセサリー、とりわけ最初の出会いのころにジョンスがへミに与えた景品のピンクのバンドのついた安物の腕時計とか、ジョンスがヘミから旅行中の餌やりを頼まれた猫がヘミが消えたあとベンのところにいて、逃げたのを探していて、ジョンスがヘミのつけた猫の名を呼ぶとすり寄ってきて、ベンは自分が拾ってきた猫だと嘘を言っていたがまさにそれはヘミの飼いネコだったことがわかる場面とか、それこそ、これでもか、これでもか、というくらい「物証」を挙げて、この作品はベンが青髭みたいな若い女性の連続殺人者で、ヘミもその犠牲になったんですよ、ということを語っています。
いや、それは決定的な「証拠」にはならないよ、というのは、現実の裁判の証拠と混同しているからであって、そりゃ退屈な話にあくびくらいするさ、アクセサリーは別に殺した女から奪ったわけじゃなくてプレゼント用のストックさ、ピンクのバンドの安物の景品時計なんか類似商品がいくらでもあるさ、猫が自分の名を呼ばれたからって理解している、って生物学的に厳密に立証できるのか?とか(笑)いくらでも弁護人は反論できますからね。
でも映画の映像として先に挙げたような場面を出すということは、映画的には明白な「証拠」でなくてはなりません。そうでなければ逆に、なぜそういう場面があるのか、まったく意味のない、たんに観客を混乱させ、惑わせるためだけのお遊びで、それこそ支離滅裂なC級映画になってしまいます。
この映画ではそれらの要素がみな同じ方位を指すベクトルをもっているので、たとえ監督さんが、いや俺の意図はそうじゃなかったんだけどなぁ、なんて無責任なことを言ったとしても(笑)、作品自体がそれを示しているのだから、そういう見方しかできないようになっています。
小説であれ映画であれ、作品として作って不特定多数の他者の前に公開してしまえば、もはや作り手の「意図」などに還元してしまうことはできません。
中学生のころ現代国語の時間に、志賀直哉の短編など教科書に載っているのを読んで、この部分はどういう意味か?と解釈させられることがよくあった折に、先生の解釈が疑問で、そんなこと作者が生きていたら訊けば分かるじゃないか、と不満に思っていたことがあったけれど、そのときは深くも考えずにいました。
大学へ入りたてのころ、武谷光男がニールス・ボーアの相補性原理を批判して、すぐれた理論物理学者もしばしば自分のやっていることを間違った解釈で語る、と書いていたのを、なるほどなぁと思って読んだ覚えがあり、芸術家が自分の作品を語るときも同じなんだろうな、と思ったり、マルクスがどこでだったか忘れたけれど、歴史を生きている渦中にある人間にはその歴史的意味を理解することは困難(あるいは不可能)だ、という意味のことを書いているのを読んで、あれも同じことを言っているんだろうな、と考えたりしていたことがありました。いまも私のものの見方の根幹を作っていることの一つです。
これも何十年か前に、テレビドラマで、そのころ人気のあった若い女優さんが、ふだんは清楚で従順なお嬢さんにしか見えないけれども、親に隠れて援助交際で男とひそかにつきあい、或る時は友達の家に泊まると言って、ひそかに男とハワイだかグアムだかへ行ってくるくるような日常を送っている女子高生を演じたことがあります。
母親が娘の引き出しにその証拠を見つけて問いつめ、こんなことをして自分がどうなるか、将来どうなるか、と嘆き、責める場面で、娘が母親の一般的な道徳律による裁断に対して、そんな先のことどうなるか分からないじゃないの、というように抗うと、母親が、あんたも大人になったらわかるわよ、とか、私の歳になればわかるわ、とか、もう少し生きて見たらわかるわよ、というような意味のことを言うのです。それに対して娘が返した言葉が「生きてみなきゃわからないじゃないの!」でした。このセリフにまだ若かった私はいたく感動したものです。
この娘にとっては、いま幼いかもしれない、無知かもしれないけれど、自分の感性と身体を挙げて、リスクを負って、全力で自分自身の生を生きていくことでしか、なぜ生きなくてはならないのか、なぜあれをしてはいけない、これはいいのか、どんな些細なことも自分自身で本当に心の底から納得して生きることはできないじゃないか、ということでしょう。そうでなければ、いつも親や先生や世間が外部から与えられる規範に従って生きるしかないし、それは自分の人生じゃないよ!というのが、その少女の言いたいことだったでしょう。
人は生きて見なければ生きるとはどういうことか分からないし、生きている渦中にあるとき、人は地べたを這う蟻のように生きることはできても、その生の意味を鳥のような目で俯瞰してとらえることはできない・・・矛盾するようでもあり、結局人生不可解みたいなことになってしまいそうですが(笑)、でも私が色んなことを考える上で、こんなものの見方が基本になっているように感じます。
さて、閑話休題。話をこの映画に戻しましょう(笑)。
「原作」とは違って、この映画では、納屋ならぬ「ビニールハウス」を焼くことが、殺人のメタファーになっていることはあきらかですが、それは他のあらゆる要素のベクトルが示すとおり、ベンが殺人者だからこそ、明確にその言葉が殺人のメタファーだと言えるのだと思います。
この作品の結末部分には、韓国社会の階級的格差みたいなものとそれに対する怒りの爆発というようなことを感じさせるところがあります。ベンという男は単なる殺人者というだけでなく、貿易関係の仕事をしているとかいうけれど、なにか汗水たらして働いているようには見えないくせに高級マンションで女たちと享楽の日々を過ごし、世界を旅行してまわり、外車を乗り回しているような有閑階級らしいし、語り手のジョンスのほうは貧しい出身のようです。
また、ジョンスの父子関係も結末に至る成り行きの背景として暗示されています。一度だけあらわれるビニールハウスが焼かれる炎を少年がみつめるシーンは、ビニールハウスに火をつけるベンではなくて、ジョンスの幼いころの悪夢だったと思います。ジョンスの父親は暴力事件で裁判中で最終的に有罪の判決を受ける、という話の本筋と一件無関係な話が出てきますが、ジョンスがこの父親の暴力の血筋を引いている、ということでしょうし、それがラストシーンにつながっています。それは階級的な差別に抗う者の怒りの爆発としての暴力なのでしょう。
そういう意味では、この作品は村上春樹の「納屋を焼く」からストーリー、プロット、セリフなどみな借りているけれども、本質的にはその「原作」とは似ても似つかぬものを目指していて、むしろフォークナーの ”Barn burning" と相通じるものがあるように思います。
フォークナーのこの短編はもちろんストーリーはまったく今回の物語とは関係がありませんが、やっぱり自分の敵とみなした農家の納屋に放火して燃やしてしまって息子にも世の中には敵か味方かしかいないんだみたいなめちゃくちゃな理屈で裁判官の前で嘘をつかせるような男が登場して、息子も父の暴力的な性格を恐れているような小説でしたから、父子関係や暴力が主題として通じるところがあるように感じます。
この映画の英語のタイトルがたしか"Barn burning"でしたから、フォークナーの短編と同じです。村上春樹の「納屋を焼く」のほうも英訳はそうだから、それでどうこう、というわけではありませんが。
そして、もともと村上春樹の短編自体が、フォークナーの作品から或る示唆というか刺激を受けて、まったく別の形で成立したものかもしれません。作家のエッセイとか証言で確かめているわけではないから単なる思いつきの想像ですが、こういうタイトルをつけてフォークナーの結構有名な短編を意識していないはずはない、と思うからです。そう考えれば村上春樹の「原作」も、納屋を焼くことに、得体のしれない暴力的なもののイメージを込めたのかもしれません。
でも、それは百歩譲ってそうだとしても、この映画の解釈(それが原作の「解釈」だとして見たときに)のように、殺人の意図をあらわにした殺人者による殺人ではないでしょう。それは作中の青年の言葉にあったように、焼かれるのを待っている存在、ということのほうに力点があるような、それを消滅させてしまう力ということになるでしょう。或いはそういうものを村上春樹の「原作」は暗示しているかもしれません。そこまで抽象度を高くすれば、それは可能な解釈だと思います。それなら、村上春樹の短編はこの映画のおどろおどろしい場面よりも、ずっと怖いです。
ところで、この映画には美しい場面がいくつもあります。ヘミが半裸でダンスする場面がその中でもとりわけ素敵でした。 ジョンスを演じたユ・アインは、「六龍が飛ぶ」でしたか、テレビの韓流史劇の第五王子の役で、父に事実上の謀反をして幼い弟らを斬り殺す、板挟みの心情を見事な表情の演技で感心させた若手俳優ですが、この「バーニング」では、いつも少し口をあけた、あまり鋭敏な回転の速い青年ではなく、実は心中深くには父親から受け継いだ暴力性や屈折した田舎者の心情、性格を秘めているのでしょうが、物語の中では主として、ヘミやベンに翻弄され続ける、少し頭の硬いうすぼんやりした青年を演じているので、表情も豊かとはいえず、その演技派ぶりを十分に引き出す機会を与えられていないように思いました。
Blog 2019-2-11