チャン・リュル「キムチを売る女」
原題は「朝鮮泡菜」、2005年の中国・韓国合作映画です。
主人公は吉林省に住む若い朝鮮族の女で、どうやら夫が人殺しか何かして刑務所に入っているらしく、日本で言えば小学校3-4年生くらいの息子チャンホを女手一つで、もぐりのキムチ売りで生計を立てている女性。
私たちにはその社会的背景が分かりにくいけれど、中国の中でも北部の貧しい土地で、朝鮮族の女と言うのも珍しく、差別される存在であるようで、正常な営業許可も得られず、何人もの売春婦たちが住む住居に母子2人で暮らしています。ただ、この作品の主人公チュ・スンヒ(リュ・ヒョンヒ演じる)は貧しさにくすんでいるはいるけれど美しい。また男の子は可愛らしく、アパートの売春婦たちに可愛がられています。
彼女は毎日、自転車に大きな棚みたいな荷台にキムチの甕を積んで、営業許可を得ないまま路傍で売っていて、警官の取り締まりがあると逃げ出して場所を変えてまた同じことを繰り返すようなことをしています。
あるときキムチを買いにきた妻帯者の小太りの冴えない中年男キムが個人的な話をしかけ、はじめはキムチを買わせるように仕向けて拒むふうだったスンヒも彼の好意を受け容れ、愛人関係になります。息子のチャンホはそれに気づき、いやがって石を投げます。彼はどんどん荒野のほうへ歩き去っていきます。
この関係をよろしくないと諭し、自分が差配する(工場の?)食堂の納入業者にしてやろう、と言い寄るやや年輩の中年男も下心があって、見返りに当然のようにスンヒを抱こうとし、スンヒは拒否して飛び出します。
そんなとき、背が高く割りとカッコいい若い警官ワンがスンヒの美貌に惹かれて、営業許可がとれるよう手配してやろうと言い、スンヒがワンの紹介で役所へ行くと、係の女性事務員が親切に応対して無事営業許可がとれます。この係の女性はスンヒが朝鮮族だと知り、その伝統的な踊りを教えてほしいと言って、二人が躍る不思議な場面もあります。ここが唯一この作品の中で救いのような場面です。
しかしこの警官ワンも下心あっての「親切」で、当然のようにスンヒを抱きます。
さて、スンヒと冴えない中年男キムとの関係はズルズル続いていましたが、この関係は男キムの妻が知るところとなり、妻の身内の男たちに自宅である現場へ踏み込まれ、駆け付けた警察官たちにキムは愛人と認めず、スンヒを金で買った売春婦だと証言し、スンヒは売春の現行犯で警察の留置所に連行されます。
警察署内で昼間っから酒を飲んでいる警官たち。ワンは留置場に囚われたスンヒの所へ行き、手錠の片方の輪を自分の手首にかけて隣室へスンヒを連れて行き、当然のごとく彼女を犯します。その姿勢はそれ以外の男にもみられない、スンヒをただ自分の欲望を満たす道具としか扱わない酷薄なものです。
保釈されたスンヒにはまたもとのキムチ売りの毎日が待っています。ワンは婚約者を連れて何食わぬ顔でキムチを買いに来ます。婚約者は何もしらずスンヒのキムチを気に入っているようです。
家に戻ってくるスンヒ。自分の住まいの前に救急車が来て大勢の人々が集まっている場面。悪い予感に不安げな表情で人々をかきわけて走り寄るスンヒ。何の説明もないけれど、次のカットはスンヒが赤い風呂敷包みのようなものを抱えて歩く悲痛な表情を正面からとらえた映像です。彼女が抱えているのは息子の遺骨でしょう。これは葬列なのでしょう。自転車を漕いでいく女。ピンクの扇を持って踊る女。凧のように鯉のぼりの鯉を揚げている光景。
ワンが結婚することになり、ワンの彼女がスンヒの美味しいキムチを披露宴用に大量に作って届けるよう注文します。
スンヒがキムチを漬ける準備をしています。土間には鼠の死骸。以前は息子チャンホに捨ててもらっていたのですが、いまはもうチャンホは居ないので、自分で始末しています。たらい一杯のキムチにスンヒが最後の「調味料」をふりかけ注いでいます。
ワンの結婚式が華やかに執り行われています。スンヒが会場へたらい一杯のキムチを抱えてやってきます。台所へ、と命じられるままに運び、キムチを置いて去ります。
チェ・スンヒの白いシャツの後ろ姿。カメラはその後ろ姿をずっと追っていきます。途中で、けたたましい音を立てて、何台もの救急車が彼女の行く反対の方向へ走り去ります。いましがたスンヒがキムチを置いてきたワンの結婚式場の方角へ。どうやらスンヒはあのキムチにネズミ捕りの猫いらずを大量に入れたようです。
カメラはそのままスンヒの背を追って荒野のような土地をずんずん進みます。彼女の足取りはふらふらしたものではなく、どこか確乎として力づよいとさえ感じられるものです。ズンズン歩く、ムシムシ歩く、とでも表現するのがふさわしい。駅らしい鉄道が幾本もあるところを踏み渡っていくので、鉄道自殺でもするのかと一瞬は思いますが、そんな足取りではない。
スンヒは線路を渡りきって屋根と扉のある駅舎らしいものを通り抜け、扉が開け放たれると、観客の、したがってスンヒの目の前に、突然パッと緑の畑の光景が広がります。そこでカット。これははじめて自分(たち)を追い詰めてきたすべての社会的しがらみから自分を解き放った彼女の前に開けた「希望」なのでしょうか。
中国の辺境に生きる、朝鮮族として、また重犯罪者の妻として二重に差別されて、一人息子とキムチの無許可販売だけを支えにほそぼそと命をつないでいるところへ、その美貌ゆえに様々な男たちが彼女に近づき、踏みしだいて、彼女を益々追い詰めていく中で、生きる最後の理由だった息子をも失い、それまで耐えてきたものが炸裂する、そのプロセスを淡々と、ワンシーン・ワンカットの長まわしのシンプルなカメラでとらえていきます。
そこには誰も理屈を言うものはいない。どんな主張を聴かせようという人もいない。ただ社会の最下層で一番弱い立場に置かれた一人の女に焦点をあてて、抑制のきいたカメラで、その日常をたんたんと追っていく。
なんでもないとるに足りない一人の女、ただいくらか美しい容貌をもつだけで、無許可とはいえ日々の糧を得るために最小限のものを売り、一日の労苦以外のことを思うゆとりもない、罪のない日常にも、情け容赦なく、生き死ににかかわるような嵐が吹き、大波が寄せ、厄災が降りかかる。
女の日常はなすすべもなく侵され、壊れていく。追い詰められ、彼女の人間としての力は最後に炸裂することでしか示されない。ほとんど救いのない絶望的な一人の庶民の生き死にの一幕を、実に丹念に、しかし妙な意味づけなく淡々とあるがままにとらえていくカメラ。そこに作り手の強い方法的意志を感じる作品です。
(blog 2017.8.28)