「立ち去った女」(ラヴ・ディアス監督) 2016
フィリピンの映画です。上映時間228分と長いけれど、じっくり腰を据えて見ていると、前半睡眠不足もあって、少しうとうとするとことはありましたが(笑)、どんどん引き込まれていって、見終わったときには深い感動がありました。すばらしい映画だと思います。
ときどき日本映画で少し長いのがあると、観客が我慢して観てくれると思っているのか、というようなことを言ったり書いたりする自称映画評論家がいたりしますが、そういう人はこういう映画を見せたらどう言うんだろうか、と思います。監督の著名性や既に作品の国際的な評価が上がっていることを知らずに素直に見たら、こんなの見れない、って言うんじゃないかな。なにかカメラで対象に向かうときの姿勢や時間の感覚が全然違う感じがします。その作家の時間に入り込むと、ちっとも長いと感じられなくなるのは不思議です。
この映画の主人公は中年の女性ホラシアで、最初これはどういう場所なんだろう?と思って観ていたら、刑務所でした。元恋人であった地元の有力者の陰謀で殺人事件の犯人に仕立て上げられ、冤罪で30年間刑務所暮らしをしています。彼女は元教師で、刑務所の中でも子供たちや囚人に自分が書いたらしい物語を読み聞かせてやり、みなに信頼され愛されている存在です。
その彼女の刑務所での「友人」だった女ペトラが、実は真犯人で、彼女が真相を明らかにして自殺したことによって、ホラシアの無実が明らかになって釈放されます。しかし、彼女が服役中に夫は死に、息子は行方不明、ただ7歳(だったと思う)のときに分かれた娘一人とだけ連絡がつき、娘と再会の喜びにひたりますが、ホラシアはすぐに息子を探しにいく、と言って出て行きます。長年彼女の家を管理していた女性に土地の権利書を与え、遠慮する女性に、この土地を売って新しい人生をスタートさせるように言って出ていきます。
彼女は食堂みたいな店を経営して片足が不自由な女に店をまかせ、自分は息子を探すと同時に、自分を陥れた黒幕のもと恋人で大家族に囲まれて幸せそうな裕福な暮らしをし護衛つきで教会に通う男ロドリゴへの復讐の機会を狙っています。
彼女は弱い者、社会から疎外された者に優しく、貧しい子供たちにはもちろん、夜の街で貧しいバロット(アヒルの卵)売りの男に親切にし、親しくなっていつも話をしています。また、ちょっと頭の弱い、いかれたような物乞いの女にも優しくしています。そしてそんな中で、深い心の傷を負っている「女」実はゲイのホランダにも出会います。ホランダは夜の街でホラシアとバロット売りの男がいる前にどこからともなく現れ、街路でとても自然にステップを踏んで踊って見せる。そのシーンがとてもいいです。
このホランダがとても重要な役割を果たします。ある夜、ホランダが暴漢たちに襲われ、殴られたりけられたりレイプされたりして、ボロボロになってホラシアのところへ転がり込んできます。優しくホランダを介抱し、休ませるホラシアに、回復したホランダは心を開き、ゲイゆえに家族らに迷惑をかけまいと家を出て来て周囲の人たちから差別を受けながら深く傷ついて生きて来た自分のことを語ります。そして、ホラシアの求めに応じて歌を歌い、二人は酒を飲みかわします。この、二人が意気投合し、心を開いて、歌を歌う場面はこの作品の中でも特別すばらしい。本当に素敵な場面です。
酩酊したホラシアも、自分の過去をホランダに打ち明け、ホランダが飛び込んできた日に自分はロドリゴを殺しに行くつもりだった、だからホランダが来てくれて感謝している、人殺しをせずに済んだ、と語ります。ところが、ホランダが彼女の過去を知っている、と言い、ホラシアがひとには絶対に隠してきたのに、ホランダの持っていたペトラの告白の書類を読んでいたと白状すると、ホランダは激怒して、ロドリゴを殺すつもりで持っていたピストルをホランダの頭に突きつけます。怒りをおさめて、ホラシアは眠ってしまいます。
翌日、ホラシアは、ロドリゴが殺されたことを知ります。ホランダは取り調べ官に対して、「ある人にお礼をするために殺した」と言い、「その人だけが私を差別せず、やさしくしてくれたから」と言い、その人の名を明かすことはなかったのです。
ホラシアは雨の中で子供たち(大人の男女もいたけれど)に、刑務所で子供たちに朗読していた物語を何も見ないで話してやります。その物語は刑務所でも、子供たちには難しいと言われた言葉でつづられており、実際、同じ物語を語るホラシアの再度の朗読を聴いても、私にもよくは理解できない詩のような言葉でつづられた物語です。
でも、それは刑務所の中で彼女が書いた物語に違いなく、彼女を陥れたロドリゴが「彼」として登場するような、自分の遭遇した冤罪事件にまつわる象徴的な物語であったことは確かだろうと思いました。というのは、この同じ物語が刑務所で子供たちの前で語られるとき、ホラシアは読みたい人、と言って手を挙げたペトラに読ませるのです。ところが、ペトラはこの物語の後半、「だがどうする 許しを請う日を待っていたのでは? 真実が暴かれるのを求め続けたのでは? 彼の魂を浄化するにはそれしかない。それだけが彼の魂を救う・・・」というあたりまで読み進めると、表情が変わり、それ以上読み進められなくなって、ホラシアに、「どうしたの?」と訊かれるのですが、それ以上読まないで終わるのです。、それはまだこの時点ではあきらかになっていないのですが、ペトラが真犯人で、ホラシアの物語が自分の犯した殺人をめぐる物語であることを覚ったからに間違いありません。このことがあとでわたしたち観客にもわかるのです。
ホラシアは最後の朗読のあと、街を出て、マニラへ行き、息子を探して、尋ね人のビラをいたるところに貼りだし、配布します。そしてラストはそのビラが地面に散り敷かれた上を、ぐるぐると幾度も幾度も輪を描いて歩きつづけ、無限に循環する時を示すかのようなホラシアの姿をとらえた象徴的な映像で幕切れになります。息子は見つからないし、たぶん永遠にみつからないのかもしれません。自分で復讐は果たせなかったし、一度は果たせなくてよかった、と思ったホラシアですが、自分が優しくしたゲイのホランドが自分に代わって殺してしまったことをどう感じていたでしょうか。そういうことは一切くどくど説明されたりはしません。ホラシアは良かったとも思わないし、悔いもしないでしょう。ただ宿命のようにその起きてしまった現実を受け入れて次へ自分の行動を振り向けていきます。
この映画にはいろんな要素が入っています。最初の刑務所でみなが農作業をしているような場面にも、また回復したホランダとホラシアが屋外で言葉を交わす明るい場面でも、ラジオのニュースがフィリピンでは誘拐事件が多発している、というような社会的な事件のニュースが明らかに内容を聴かせるだけのアナウンサーの明瞭な声、音量で聴こえています。監督はこの映画の冒頭で、この物語の舞台が1997年であることを明確にして、時代的な背景をはっきり意識した作品としています。
ゲイのホランダが日本語のセリフを言い、日本語の歌を歌う場面があります。これも私たちが見ているとちょっと複雑な心境を強いられる微妙な場面です。決して、喜んでもいられないし、かといって何か露わなメッセージ性のあるシーンでもありません。しかし、これは意味のない戯れでも、監督の気まぐれでもなく、ホランダに日本語をしゃべらせ、日本語の歌を歌わせることには、フィリピンにとっての日本、という関係性についてのこの監督の確固とした認識の視点が表現されている、ということがこの映画の場合には信じられます。色んな意味で、このホランダはこの作品の中で非常に重要な存在です。
この作品の中で2度も全文が朗読される物語に触れないわけにはいきません。書き写すのは難儀だったけれど、DVDを止めながら写してみました。
”漆黒の塔” 作者 南の虹
私は鏡のない部屋に住んでいる
窓は小さく 入る風もほとんどない
部屋の窓はブラインド式の3枚ガラスだが
汚れた空気や蚊が入るから開けられない
網戸は破れている
部屋の隅々にネズミの通り道があって
壁の裂け目から次々の放たれるのは
誇り高き無礼なゴキブリども。
エアコンが取り付けてあった壁の小さな穴は
段ボールを粘着テープで貼り付けて塞いであった
この部屋の隅々で思いをめぐらせてもがく
苦しむ魂たちが 息もできず
汚れて湿った死にかけの大地から逃れようとする
彼の意識にある炎は
鉛色をした夢の続きか
狂気の沙汰なのか
彼の意識は自由なる世界を捨てたのか
もし彼が正気でないなら
来るべき自由よりも今を永遠に望むだろう
だがどうする
許しを請う日を待っていたのでは?
真実が暴かれるのを求め続けたのでは?
彼の魂を浄化するにはそれしかない
それだけが彼の魂を救う
その瞬間 残された唯一の機会だと彼は気がついた
心を解き放ち、束縛を振りほどけ
自由になる時は今。
そして彼は淵に沈む魂の力を残らず拾い集めた
疲れ切った手でドアを開けた時
きらめいた光の音に驚き 目を閉じた
彼を倒そうとして風が吹き始める
彼は力を振り絞り
心に残された希望にしがみつくだけ
そして再び彼は目を開けた
これは子供たち、聴かされてもわからないですよねぇ(笑)。
もうひとつ、ホラシアが夜ひとりで原稿を書いているシーンで、その原稿が読み上げられる形のナレーションがあります。
”終わりのない夏には意味がある”と彼女はつぶやいた
蒸し暑さからどう逃げる?
そう言いたい彼は言えなくなっていた
もう彼の欠点は直せない
時間もない
機会もない
なにもない
彼があの時に戻れるなら
たとえひと時でも機会があたえられたなら
彼は全てを捨て去り
全てに背を向ける
今を忘れるために
でも何が残る
全て失ったのに
このシーンのあとに、ホランダが歌う場面がきます。ホランダが好きな歌はときくとホラシアは、”Somewhere" だと言い、ホランダが、オズの魔法使い?と笑って言うと、ちがうちがう、ウエストサイド物語だよ、と言ったり、とても楽しそうなやりとりのあるシーンで、この映画でも出色のシーンでした。
こういう映画を観ると、きちんと2時間くらいに起承転結をまとめて完結している映画が、なんだかこぢんまりした箱庭的な人形たちの家のように、嘘くさいものに思えてきます。この映画には、私などが行ったこともなく、特別な関心を持ったこともないフィリピンの社会やその底辺で暮らす人たちの生活が何となく直観できるようなところがあります。それだけの広がりと奥行きのある世界です。チマチマした映画にうんざりしている人、映画なんてつくりものの世界だし、ともの足らず思っているような方が時間があって心にゆとりのあるとき、じっくりご覧になると、また違った世界が広がるんじゃないかと思います。
ヒロインと仲良くなるバロット(あひるの卵)売りのおじさんなんか、いかにもフィリピンの伝統的な下層庶民の姿なんだろうな、という気がします。「敗戦直後」の日本社会のかすかな残影の中で育ってきた私などには、わずかな懐かしさのような感じとともに、すっかり変わってきた日本の視点から興味深く感じられるフィリピンの社会の断面が重なって見えるようです。
もうひとつ、忘れれるところでしたが、ヒロインのホラシアが、自分のところを出て行ったゲイのホランダを探して海辺で戯れる若者たちのところへいくシーンもすごく素敵です。
ホラシアを陥れた元恋人の権力者ロドリゴも決してうすっぺらい悪人として描かれていません。成人した子供たちや孫に囲まれ家族に愛され、地域の人たちからは畏敬され、護衛をつけて教会へやってくる権力者の彼が、なじみの牧師に、懺悔の告解をしたい、と申し出るところがあります。良心の呵責に耐えられず心から悔いて懺悔したい衝迫にかられているというふうには見えません。決して神を絶対的に信じる立場で牧師の前に跪いて、罪の許しを請う、というふうな存在には見えません。或いは告解すべき神を信じてもいないのかもしれません、ほんとうは。
しかし人間的に底知れず奥深い、聡明なホラシアの恋人だった男が、そんなに薄っぺらな男であるわけがない。たとえホラシアの新たな夫との出発を妬んだり憎んだりして、ホラシアを殺人犯として陥れるような極悪な罪を犯したとしても、人間として善人・悪人と色分けして片付くはずもない、それだけの巨きさや奥行きの感じられる男、いまもおそらく何不自由なく自分の思うようにできる権力を持ち、自分がもちたいと思った幸福を手に入れた人物なのですが、30年の歳月を経て、そういう一見満ち足りた人生を送って老いも感じ始めるような年齢になったときに、きっとそういう人生にむなしさとまでは言わないけれど(彼がその境遇に或る意味で満足してきたことは確かでしょうから)、どこかでそういう人生、生き方を相対化するような自分の中の想いというのも自覚するにいたったのだろうと思わせる、そういう微妙な場面です。
教会で、ちょっと話がある、と牧師を誘い、礼拝堂の外のベンチに坐って、つかの間笑いを交えながら気軽な世間話でもするように言葉をかわすだけの短いシーンですが、ほかには個人としてクローズアップされたり、セリフのあるような場面もなく、ただこのワンシーンでだけ焦点があてられるロドリゴですが、この場面は決定的に重要なもので、ロドリゴの人間としての奥行きを見せていて、彼に復讐しようとしているホラシアの思考や行動に重みを加えていることは確実だし、彼女が書き、人々に朗読するあの詩の言葉で書かれた短い物語にも「彼」の姿は確実に投影されていると思います。
Blog 2018-9-6