『ペンギン・ハイウェイ』(森見登美彦)
森見さんの新作を読んだ。これはとても面白かった。そして泣けた(笑)。
彼の作品は、友人でついこの前まで同僚(上司)だったTが、以前から面白いぞ、とご推薦だったけれど、私は読むことは読んだが、彼の面白がらせようという意図と手管が見え透いていて、わざとらしく大仰で、なじめなかった。
ところが、『宵山万華鏡』で様子が変わった。これは本当に可憐な、いい作品だった。正々堂々たる大作というのではないけれども、まさに愛すべき佳品だった。いまでも赤い金魚のような浴衣姿の少女たちが宵山の人の波に埋め尽くされた路地を駆け抜けていく姿が目に浮かぶようだ。
そして今回も一足先に読んだ友人Tが、「いままでのとまた全然傾向が違う」と言い、「村上春樹のまねしとるけどな」と言いつつも、ファンとして薦めてくれたので、湊かなえの『夜行観覧車』を読み終わるとすぐに読んでみた。
日常性の真っ只中にありえないものが登場し、この世界の法則性からはありえない事が起こり、なぞがなぞを呼び、主人公たちがそれを追及していくと、この世界の破れ目、あちらの世界との接点が垣間見える、そういう物語の結構やお膳立て、あるいは文体での人物の会話の「間(ま)」のようなものとか、そんなところに友人Tが同時代の有力な作家の影をみたのは、それなりに分からなくはないけれど、それは本質的なことではなくて、私自身は気にならなかった。 村上春樹の「この世界」と「あちらの世界」との構造は、倫理を孕んでいる。彼は私の考えでは漱石に匹敵する倫理的な作家だと思う。
でも森見のこの作品はそういうものではない。言ってみればこれは現代の「かぐや姫」であり、メルヘンであり、ファンタジーなのだと思う。それは『宵山万華鏡』と少しも変わらないし、まさにその延長上にある。
私たちが彼の作品を読んで感じる印象は、もちろん村上春樹の作品を読んで感じる印象とはまるで違ったものだ。
私はこの作品を読みながら、私が幼いころに好意をよせ、その未分化な愛と憧憬を優しく受け止めて、幼い感情がもどかしく覚醒し、成長していくのを見守りながら、最も美しい時期に去っていった10歳以上も年長の女性のことをずっと思い出していた。
この作品に描かれているのも、そんな現代のかぐや姫であり、いつかあちらの世界へ旅立つことを宿命づけられた理想の女性、憧憬の対象との出会いと別れだ。
なぜ宿命づけられているかといえば、この出会いと別れは、心身の成熟しきらない思春期に独特のものだからだ。それを未分化な愛と性が生み出す幻想としての憧憬や理想と言ってしまえば身も蓋もないかもしれない。
けれど、これは誰もが通ってきた道であり、出会いも、別れも、避けることのできないものだ。
ペンギン・ハイウェイの「海」は、村上春樹のこちらの世界とあちらの世界の接点にある二つの月とは違う。「海」はいわばアドレッセンスの未分化で無垢でウェットな溢れんばかりのセンチメントにほかならない。
だから、その世界を支える海が消滅するとき、私たちは感傷の涙を流し、現実に立ち返る。頁を閉じたとき、もうそこには、これが失われるなら世界が消えてしまうか自分が生きてはいられないとさえ思えた幻の片鱗も残ってはいない。あとには、二度と返ってはこないアドレッセンス固有の世界への、切ないばかりの愛惜の思いがあるばかりだ。
これは、頁を閉じても消えず、むしろ二つの月が見えるようになる(かもしれない・・笑)村上春樹の世界とは似てもにつかない世界だけれど、私はこちらも好きだし、今回の作品は『宵山万華鏡』とともに、若い人にお勧めしたい。
Blog 2010年06月26日