そして父になる
(是枝裕和監督)
是枝裕和監督「そして父になる」
2013年の作品で第66回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した批評家の評価も高い映画でした。映画館で予告編も見たのですが、なんとなく重そうで観るのは気が重くてきょうまでやり過ごしていたのです。
たまたまレンタルビデオ屋でみかけて手にとったのは、先ごろ順天堂大学医学部附属の順天堂医院で、半世紀ほども前に新生児の取り違えをやって、当事者の一方の申し立てで事実を確認しながら公表せずに和解金で口封じをしていたらしい事件がマスメディアで大きく報じられていたことが頭にあったからかもしれません。
ネットでちょっと調べてみたら、1973年に東北大学医学部法医学教室の赤石英教授の論文「赤ちゃん取り違い事件について」によれば、赤ちゃんの取り違えは1957年から71年までに発覚したものだけで、全国で32件もあり、それらは実際に発生している事故数から見れば氷山の一角とみられるとのこと。
背景にはかつて自宅や実家で助産婦(いわゆる産婆さん)を呼んで行われた出産が、病院や診療所での施設分娩に変わっていき、施設分娩が第二次大戦直後の1947年には2.4%に過ぎなかったのが、60年には50%になり、70年には96%に達するという変化があったそうです。
1973年8月には新生児管理改善促進連合により、赤ちゃんのへその緒を切る前に安全で正確簡便な標識をつけることを強調した「新生児標識法」が決められ、全国に実施が求められることになった由。(以上は赤石論文に基づくデイリー新潮の記事~隠された「順天堂」新生児取り違え 父母は”生まれるはずのない血液型”めぐり離婚~による。)
こういう現実に起きている事故または故意の(この映画の場合)赤ちゃん取り違え事件は、それが明らかになったとき、当事者たちにどんな苦しみを与えるかは、どんな外部からの情報がなくてもだれにでもある程度想像がつくし、まして親としての立場を経験した人ならその苦悩の深さも現に愛情をもって育ててきた日々の印画を見るように実感できます。
そして、病院に責任があること(この映画の場合は故意に取り換えた犯人に責任があること)は明々白々ですが、その責任をいくら問うても、いくら罪を償うといっても、過ぎ去った歳月、実の親子が生涯で最も膚触れ合って、ほとんど生理的に無意識にまで刻み込まれるような愛情を交わし、育むかけがえのない時間を奪われたということは、何をもってしても償うことができない、取り返しのつかないことですから、当事者はもちろんのこと、そういう不幸を傍らで目にする者にとっても、ほとんど救いのない「事故」であり「事件」だと思えます。
けれども、現実には取り違えてわが子とされ、これまで愛情を注いで育ててきた子供が目の前におり、他方で本来は自分たちの愛情を注いで育てられるべきであった子供が目の前に現れているわけで、大切な人を亡くしたときのように、ただこの突如押し付けられる理不尽さに戸惑い、悲しみ、憤り、うちひしがれていることはできません。
失われた時間を嘆いてもどうしようもない。奪われた時間に憤っても時間は返ってこない。ベストの解決法なんてないけれど、なんとかよりよい方法はないか。どんな方法をとったところで、まだ小学校にも上がらない年頃の、なまみの子供を巻き込まざるを得ない怖さ。それは立派にここまで子育てしてきた母親にとっても、社会的にはそれ相応の評価を得ているエリートにとっても、経験したことのない、未知の混沌の世界への一歩であることでしょう。
この映画はその一歩を実に丹念に描き切っています。一方は家庭を実質的には顧みず、夫婦の間にも隙間風が生じているけれども、形の上では夫唱婦随の夫婦で、世間的には超一流企業のエリートサラリーマンの何不自由ない幸せな家庭、他方は認知症の親を抱え、三人の子を抱えて、生活力の乏しい、そういう意味では無責任な夫のせいもあって経済的には貧しい、さえない電器屋を営む夫婦だけれど、しっかり者の妻と子供への愛情は豊かで憎めないところのある夫で庶民的な相互の絆の温かさが感じられる家庭と対照的です。
福山雅治演じるエリートサラリーマンの父親も、リリー・フランキー演じる呑気な親父も、ピタリとその役にはまっていて、双方の家庭の気風を鮮やかに対照的に示していて、あまりにうまく典型的なその種の親父を演じているので、思わず「おるおる、あぁいう親父!」と笑いたくなるほどです。
福山に父親が似合うとは思えなかったけれど、実際にはまだ「父になる」ところまで行っていない、人間的には未熟で、おまけに自分が幼いとき父が再婚した若い「母親」になじめず家出した過去を持つなど心の傷を負って父性に拒否反応を示すというのか、父性から逃避しているところがあるために、わが子の父親への愛情にも気づかない「父親」ですから、そういうのはイケメンで仕事もできて高収入、挫折を知らないエリート然とした福山が取り澄ました表情で演じると、よく似合っていました。
もちろん実際の福山は芸能界でも稀な成功者かもしれないけれど、そういう人物ではないでしょうから、子供を相手に相好を崩したようなときの顔つきは、とてもいい表情をしていて、どうみてもあれは「父親」ではなくて、幼い子供からみても、抜群にカッコいいお兄さんだよな、と思えるのですが(笑)
取り違えの事実が明らかになるまでは、タイプは違っても、それぞれに世間並みにありふれた問題は抱えているかもしれないけれど、少なくともはたからみれば、幸せそうな家庭であったのが、この取り違えの発覚で、それまで潜在していた様々な問題が顕在化してきます。
作品としての主役は福山演じる野々宮良多で、その家庭に比重を置いて描かれているので、こちらの夫婦でそれまで燻っていた問題があからさまになってきます。どこにでもある、仕事への野心・熱心で家庭を顧みないエリートサラリーマンの家庭に特徴的な問題ではありますが、良多が実際には父親としての役割りを果たしておらず、息子の気持ちも妻の思いにもひどく鈍感で、いつも上から目線で接することしか知らないことが、取り違え問題を処理しようとしていく過程でどんどんあからさまになってきます。
良多はふだんから、息子の慶多がピアノをはじめ、いわば「できの悪い息子」であることを内心不満に思い、俺の子なのに俺の才能を受け継いでいないのか、と苛立ち、不満に思っていたようで、取り違えが分かった時、「やっぱりそういうことか」みたいなことを思わずつぶやき、それが妻のみどり(尾野真千子)を深く傷つけます。
慶多もそんな「父親」良多の姿勢を敏感に感じ取っていて、良多が慶多を斎木家へ行かせるために、「これはミッションだ」とゲーム世界での理屈みたいな比喩で諭すのに対しては素直に従うけれど、遺伝子でつながる琉晴が良多になじまないのとは違って、自分と一緒に遊んでくれ、おもちゃの修理も得意なリリー・フランキー演じる斎木雄大にはなつく様子をみせ、ラストに近いシーンで、良多夫妻が良多になじまない琉晴を斎木家へ連れて帰った時、琉晴が「お帰り」と迎える雄大の胸にとびこんでいくのに対して、慶多は再会して迎えようとする良太を拒んで逃げていき、「パパはパパなんかじゃない!」と言い放つのです。
琉晴を斎木家へ連れ帰るのは、慶多と交換でわが家にやってきた血のつながる実の息子琉晴の、放任主義的に育てられてそれまでの野々宮家のしつけの枠組みをはみ出すような、たとえば箸の持ち方ひとつにも、良多は気になってそんなところで「父親らしさ」を発揮して細々と注意したりして、結局はせっかく決断して交換によってわが子となったはずの琉晴にも、「パパやママのところへ帰りたい」と言われてしまうためでした。
良太の妻ゆかりが、次第に琉晴に愛情を感じるようになり、そのことで、慶多を裏切っているような気がする、と涙を流すところなども、わかるわかる、と納得のできる描き方で、こういう問題が一筋縄でいかないことを感じさせてくれます。
ラストシーンは良多に背を向けて歩き去ろうとする慶多を下の道で追う良多が色々話しかけて、両方の道が合流するところで立ち止まり、良多が、慶多がくれた花をなくしたことを謝ったり、自分が知らない間に慶多が自分の眠っている姿などの写真をたくさん撮ってくれていたことを話し、ミッションなんかもうおわりだ、と言って彼を抱きしめ、いっしょに斎木家のほうへ戻って行きます。
当然観客の私たちは、そのあとどうなるんだろう、と思います。でもこの作品は明瞭な結末も解決法なるものも示しません。たぶんどんな解決策であっても、ここに描かれてきたような様々な問題がきれいさっぱりクリアされるなんてことはないでしょうし、私達も見ていて納得はしないでしょう。
ただ、ここには一抹の希望はあります。どんな理不尽な運命であっても、それを引き受けざるを得ない状況のもとで、色々と潜在的な問題が浮かび上がってきて、当事者は悲惨なことになり、どん底の苦しみを味わうことになるけれど、そのことによって自分たちが忘れていたもの、自分たちに欠けていたもの、自分たちに見えていなかった大切なこと等々が、はっきりと自分たちの前に姿を現し、見えるようになる、ということ。
そのことによって、あとはでは、そこからおまえはどうするのだ、と私たちは問われることになる。もはや理不尽な運命を憤ったり悲しんだりしていても仕方がない。原因となった者を糾弾して解決するわけでもない。あくまでも当事者である自分が、その生き方を問われるのです。
タイトルはそのことを暗示しています。「そして父になる」。良多は少なくともこれまで、「父」ではなかった。この作品の終わる所から、彼も「父になる」のでしょう。それが誰の「父」であるのか、それも具体的に示されていると考えることもできるでしょうが、私はそのことは重要だとは思えません。現実の成り行きが、このまま琉晴を引き取ってあらたに「父になる」であっても、二人の子供を元の家庭にもどして良多があらためて慶多の「父になる」であっても、ここでカットされたこの作品は破綻しないでしょう。
それは現実的には、子供たちの気持ちを尊重しながら、二つの家庭で慎重に様子を見ながら決定していくべき事柄でしょうから、どちらの選択肢もあり得ると思います。良多が「父になる」ことのできる存在になったとすれば、それはいずれでも可能だし、選択がいずれであっても、両家は、もうできるだけ相手の家には行くな、ではなくて、むしろこれからも付き合っていくことになるでしょう。私はそう思います。
色々と考えさせられる作品でした。やっぱり少し重かったけれど、子供も含めて役者がみなすばらしかった。そしてこんな理不尽な状況の中でも、苦悩しながら道を見出していこうとする家族の困難な日々のうちに希望を見出そうとする作品に、決して後味の悪くない、しかしご都合主義的なハッピーエンドなどに終わらない監督の力量と矜持を感じることができたように思います。
2018-4-26 blog