美しきセルジュ(クロード・シャブロル監督) 1999
フランスの田舎町なのでしょう。むこうに高い丘や林が見えカーブする一本道をバスが走ってきて村に入り、一人のちょっとおしゃれな感じの青年が降り立ち、友人が迎えます。どうやら肺結核を病んでいるらしく、夏はスイスで、冬はこの村で静養するように、ということで12年のブランクの後に故郷へ戻って来たらしい。
皮ジャンの背を少しかがめたような姿勢で向こうへ行く男を、「セルジュか?」と懐かしそうに呼び止めます。男は半ば振り返りますが、そのまま向こうを向いて行ってしまいます。迎えに来ていた友人は、その男がへべれけなんだ、と言います。
物語はこの肺病病みのフランソワ・バイヨンと、かつての親友だがいまは義父グロモーといつもつるんで飲んだくれてへべれけになっている村の鼻つまみ者のセルジュとを軸とする、セルジュの妻イヴォンヌ、同居するその妹マリー、そして妻たちの「父親」グロモーらとの間の、人間くさい関係が中心です。
セルジュはすっかり頽落してしまった自分に愛想をつかしていて、なかなかかつての親友フランソワと旧交をあたためようとはせず、避けているふしがあります。フランソワはそうした旧友の姿が気にかかり、積極的にセルジュを訪ね、或る意味でその家庭に幾分か土足で踏み込んでいくようなところがあります。
ネタバレ的にさっさと言ってしまえば、セルジュと妻の関係は、二人の最初の子供が障害が原因の死産だったので、医者は次に生まれる子もそうなると決め込んでいる状況で、それ以来ぎくしゃくしたものがあります。
そして、セルジュは妻イヴォンヌの妹でまだ17歳のマリーと関係して(一度だけとマリーは言いますが)酔っ払った時それを妻にも打ち明けたために、同居しているけれど、三者の間には緊張関係があります。
マリーはまだ17歳だけれど、性に関しては既に大人びていて、セルジュによれば「あいつはセックスのことしか頭にない」少女で、フランソワに関心を持ち、近づきます。
その上、マリーの父親ということになっているグロモーですが、亡くなった母が打ち明けたところでは実はマリーの実の父親はほかにいてグロモーではなく、マリーは不倫の子であり、このことはマリー本人を含めてほかの周囲のみんなが知っていてグロモー本人だけ知らない、というわけです。
ところが、セルジュの家に出入りしているうちに親しく言葉をかわし、未成年だけれど女性としてのマリーに惹かれていくフランソワは、マリーからグロモーが実の父ではないことを聞かされます。
そして、あるときフランソワは酒場でグロモーにからまれ、「未成年の娘にちょっかいを出すなどけしからん」みたいな言いがかりをつけられたうえ、「父親のこの俺が言うのだぞ」と繰り返しマリーの父親であることを強調し、しまいには「俺はマリーの父親だ、そうだな?」としつこく食い下がるので、フランソワはとうとう「(あんたはマリーの)父親じゃない」とホントウノコトを言い放ってしまいます。
するとグロモーはとたんにその脅迫的な態度が変わり、勝ち誇ったように笑いだして、ほら、とうとうこの男が証拠を見せたぞ、というようなことを言い、マリーから聴いて知ったであろうフランソワの言葉を、自分がマリーの父親ではないらしい、という彼自身が以前から持っていた疑念の確証とみなして、そのことを確信します。
そして、その直後にグロモーはセルジュの留守宅へ行き、一人でいた「自分の本当の娘」ではないことを確信したマリーを凌辱します。フランソワは墓場へ逃げるグロモーをつかまえて激しく殴打しますが、後の祭りです。
フランソワはセルジュにこのことを伝えますが、セルジュはむしろグロモーの弁明の言葉をなぞるかのように、自分の娘でもない若い女と同居して3年間も我慢したんだ、と同情的な言葉さえ漏らすのでした。
フランソワは村の教会の神父とも親しく何度か話す場面があります。そのつと最初は互いに紳士的に言葉を交わしているけれど、基本的に信仰薄く、教会は村人たちの苦を少しも救おうとしてこなかったし、お説教をして、ただ祈れ、というだけの口ばかりの存在だと考えているフランソワの態度は、話をするうちに漏れ出てしまい、傲慢だと神父の怒りを買います。
けれどもフランソワは、じゃ神父は行動するのか?と反問し、自分はセルジュを救いたいのだ、村人を助けるために自分は行動する、と神父と教会に訣別します。
彼は変わり果ててしまった、かつての親友とその一家を、彼の言葉で言えばなんとか「救いたい」と考えて行動し、繰り返しセルジュの家を訪ね、セルジュの相談に乗ろうとし、そのつど拒まれたり避けられたりして落胆し、肩透かしをくらい、そんな中でマリーとも親しくなり、セルジュの家庭の複雑さを知っていきます。
はじめはセルジュの妻イヴォンヌのことが嫌いで、セルジュに彼女といたら幸せになれない、別れるべきだ、と助言したりしていたフランソワですが、徐々にイヴォンヌとも接して、当初のイメージがくつがえされていきます。
ダンス会場でマリーと踊るセルジュ。一人で座っているイヴォンヌは先に帰っていく。それを送って行けと勧めるフランソワを断り、マリーとダンスを続けるセルジュ。言い争いになり、フランソワを殴り倒して、お前にはうんざりなんだ、とマリーと飲み直しにいくセルジュ、といった場面があり、宿のおかみから、ここにいてもあんたは苦しむだけだよ、帰りなさい、と村を出ることを勧められ、神父からも村を離れよと忠告されます。
しかしフランソワはセルジュは僕を必要としている、と言い、やっとわかりかけてきたんだ、言葉じゃだめだ、手本を必要としている、と言って神父からお前は自分がイエス様のつもりか、と罵られます。しかし、フランソワは「何かをすることが大切なんだ。こもっていたことが間違いだ。外へ出ます。村人を助けるためにー。あなたにできますか?」と言います。
セルジュの妻イヴォンヌは第二子を身ごもっています。彼女が森の中で焚火のための小枝を拾い集めていると、フランソワが来て手伝って運びます。1カ月先に生まれると言っていた赤ん坊でしたが、イヴォンヌの陣痛が始まり、フランソワが報せを聴いてかけつけ、彼女をベッドへ運んで大雪の中、医者を呼びに飛び出します。
医者は発作で倒れたグロモーのところだと聞いて、また吹雪の中を歩いてグロモーの所へ行くと、ベッドのグロモーの脇にマリーがついています。医者は、もともと第一子が障害か何かで死産だったので、第二子を孕んだと聞いても、どうせだめだと言っていた男で、このときも、どうせ無駄だ、と動こうとしません。マリーも、医者を連れて行くな、と拒みます。しかし、ベッドに横たわるグロモーは、行ってやれ、と医者を促します。
フランソワは強引に引き連れるようにして医者をイヴォンヌの所へ連れて帰り、取って返して行方不明のセルジュを探しにみなが止めるにも関わらず咳をしながら雪の中へ飛び出していきます。
そしてとうとう洞窟の奥?かなにかで、また酒に酔って眠り込んでいるセルジュを引きずり出し、ようやくの思いで家に連れ帰ります。
そのとき赤ん坊の泣き声が聞こえ、ほっとしますが、その声が途切れて沈黙が訪れ、フランソワは「だめか・・・」と壁に凭れた背からずり落ちていきます。
けれど次の瞬間、再び元気のよい赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。セルジュの笑顔のアップ「聴いたか!」と。
この作品では一見どうしようもなく頽落してしまったかに見えるセルジュ、グロモー、マリー、そしてイヴォンヌらが、それぞれに運命に翻弄され、互いに不幸な関係の捩れで傷つけあい、閉塞的な村の環境の中でみなの蔑みや憐れみの視線を浴びながら、自分たちではどうしようもない泥沼であえぐ姿が的確にとらえられていて、ここへ12年ぶりにかえってきたセルジュの親友フランソワが、かつて友人たちの中でも飛び抜けて優秀で親しかったセルジュの変わり果てた姿を見て、その理由をさぐり、なんとか元のセルジュに戻したい、救い出したいと願い、肺結核の身を顧みずに献身的な行動をつらぬいて、セルジュの救いの糸口にたどりつく、という物語です。
どこにも悪者はいないし、酒に溺れて本当に頽落してしまった人間、悪意の人間、欲望だけに囚われた救いのない人間はいません。酒に溺れてへべれけになっても、本当はイヴォンヌへの愛もフランソワへの友情も心の底では失っていないセルジュ、まさに美しきセルジュで、そのありのままの姿を、彼の陥っている閉塞的な環境から救い出そうとするのがフランソワ。そういう一人一人の人間が実に丁寧に描かれています。
人の救いに関して無力な教会や神父に対する鋭利な批判もフランソワの口を借りて出てきます。人間の堕落を悪ときめつけ、見放してしまう無力な教会に対して、フランソワは友情によって、かつての親友の人間としてのやさしさや愛情、友情を最後まで疑わずに、埋もれ火のように深く厚い灰の層に埋もれていたそれを必死で掘り出し、掻き立てて、ついには本来の輝きを取り戻させる賭場口までもっていきます。
セルジュが関係をもった妻の妹の17歳のマリーは、小悪魔的な女ではありますが、自分を犯した「父」の瀕死の床に寄り添い、医者を連れて行こうとするフランソワにノー!と拒否します。また、その「父」グロモーは、悪の血筋のおおもとであるかのような男ですが、妻の不倫でマリーが生まれ、そのことを知らない者は自分だけという屈辱的な状態に置かれてきた男で、実はそのことにうすうす気づいて内心真実を知るのを恐れながら、酒浸りになってセルジュとつるんでいたわけで、その背景を知れば、さもありなんと肯定はできないまでも納得はできます。
フランソワを挑発して、マリーから彼がマリーの実の父親ではないと聞いたフランソワの口からはっきりと、自分がマリーの父親ではないと聞かされ、すぐにマリーを犯すとんでもない老人なのですが、その彼も発作で倒れ、診察に来ていた医者をフランソワが呼びに来たとき、どうせ赤ん坊は今度もダメと動こうとしない医者を促して、イヴォンヌのところへ行ってやれ、と言うのです。
こんな風に、ひとりひとりの、かなりひどい人物にも救いがあり、人間としての彫りが浅くないところが素晴らしい。
根っからの悪人はおらず、みな善悪ともに備え、状況と関係性によって、なるべくしてそうなる必然性をもってそうなっているようにみえてくるのです。
みなそれぞれに、驚くような行動、一般的にはどうかと思うような行動をとるけれど、また同時に、それと矛盾するような行動に出たりもします。そして、或る行動をとったことを自分の心中で深く悔やみ、次には変化もします。
主要人物の中で、唯一、最初から最後まで変わらないのは、自信家の神父だけで、彼は自分の言動が正しいと信じて疑わず、つねにその固定した立場、視点からフランソワを批判し、攻撃します。
これに対してフランソワは現実の人間関係の中で行動し、自分自身を変えながら手探りで親友を救おうと走り回り、失望し、挫折し、また起き上がって走り出します。その姿は、村人にとっては、長い間村にいなかったために実情を知らない、お坊ちゃん的な理想主義者に見えていたでしょうが、やがてそうではなかったことがわかるでしょう。
Blog 2019-2-11