『神様のいない日本シリーズ』(田中慎弥・著)
これは去年の11月に出た本。ツンドクのままだったのを、例によって車中読書のために、たまたま手にとったのを持っていって読んだのですが、結構面白かった。
全編、部屋へ籠もった息子に向けて、廊下に座った父親が扉越しに語りかける内容という設定。女のような名前をからかわれ、野球部で豚殺しの孫というようなことを言われて、いじめにあって野球をやめたいという息子に、祖父がなぜバットで豚を殺すに至ったか、その息子である自分(父)がなぜ野球だけは決して始めようとしなかったのか、二代にわたる家族の歴史を語りかける。
病死と伝えてきた祖父が実際は家を出て行ったこと、自分(父)の記憶する祖父は木製の古いバットを、うしろから手を回して持たせてくれた日の記憶だけであること。中学生の祖父は母親から高校には行かせてやれない、と言われ、その絶望とその頃に出会った後の伴侶となる年上の女性への性的な衝動に突き動かされる中で、祖父は豚を殴り殺し、死体を川へ投棄する。
それから十年もして、祖父は祖母と結婚する。そして男の子が生まれても、野球だけは絶対にやらすまい、と二人は約束する。その後、祖父は野球賭博にいれあげ、会社も家も捨てて出て行く。
自分(父)が中学になる少し前に、父親(祖父)から「野球をやれ」という葉書が届き、それから二、三ヶ月に一度は同じ内容の葉書が届くようになる。母親はその葉書を見せては、その都度目の前で破る。「野球なんかやるもんじゃない。野球をやりさえしなきゃいい。」と言いながら。
しかし、あるとき、親に見られたくない雑誌を隠して捨てようとした自分(父)は、父親(祖父)からの葉書であるはずの、消印のない書き損じの葉書を見つけ、母親の一人芝居であることを知って、そこに母親の夫に対する愛憎の激しさを見ることになる。
こうして自分は生涯野球をやらないという否定的契機を通して、ほとんど記憶もない、失われた父親と辛うじてつながっており、また、「お前には野球を続けてほしいんだ。」ということで、息子とつながろうとしている。
野球を続ける気持ちを萎えさせている息子に向かって、彼は今度は自分と妻との出会いを語りはじめる。それは文化祭の出し物として、偶然のなりゆきで、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を演じるはめになる、その出来事の中で、彼は将来の妻と出会い、将来の息子の名をもつ共演者を含む3人で芝居をつくり、舞台に立つ。
この若き日の父親と母親のなれそめのエピソードは、扉の向こうの息子に勇気を与えるだろうことが、最後まで読んでいく読者にも伝わってくる。
「ゴドー」は言うまでもなく、「待つ」こと、待ち続けることを描いた舞台劇だ。待っても待ってもゴドーはやってこない。でも明日になれば来るかも知れない。あるいは永遠に来ないかもしれない。そのことを待っている二人は知っていて待っているのか、あるいはやっぱり来るかもしれないと信じて待っているのか。
すでに母親の捏造だと知った「父からの葉書」を、それでも彼は「戻ってくる、かもしれない」と思う。奇蹟を信じるかのように。
そして、この奇蹟が、「まだ西鉄だった頃のライオンズに一度起きただけの奇跡」(日本シリーズで巨人相手に三連敗のあと四連勝)の28年後の再来(西武ライオンズの対広島カープ日本シリーズ戦)に重ねられ、よく響きあうリフレーンを聞かせている。
父を待つ子(父と子のつながりとその欠如)の主題が、日本シリーズと、「ゴドー」と響きあい、三本の弦がよりあわされることで、一貫した主題を強め、暗喩的な効果を高めている。
その対応がやや露骨で、しつこく感じられるところはあるものの、この作品には不可欠な装置だったと、いちおう納得して読み終える。
Blog 2009年03月11日