河瀬直美「光」
河瀬直美の映画は、実質的なデビュー作になった「萌の朱雀」しか観ていませんでした。その作品がめでたく受賞して彼女の名が世に出た少しあとで、ドキュメンタリーだったと思いますが、作品ができるまでの様子に密着取材した番組を観たことがあります。
その番組では、若い彼女がその映画づくりの過程で撮影スタッフとうまくコミュニケーションがとれず、相互不信でスタッフの不満が高まってほとんど破綻寸前までいったのを、当時プロデューサーだった仙頭という若いプロデューサーが粘り強く両方を説得して、なんとか完成に漕ぎつけた様子がわりあい赤裸々に語られていました。
仙頭プロデューサーが、撮影現場でスタッフたちから離れたところで、2人とも立ったまま、制作が思うようにいかず、ほとんど鬱病みたいに暗い鬱屈した表情の河瀬監督に、「この作品を最後まで完成させたいのだろう?ここで投げ出したら何も残らないよ」というふうなことを自閉症の中学生にでも言い聞かせるように、厳しく優しい言葉で滾々と説いて聞かせていた姿が記憶に残っています。もちろん河瀬監督よりはだいぶ年長だったかもしれませんが、彼もまだごく若いプロデューサーでした。
作品そのものは、美しく、いい作品だとは思ったけれど、映画として面白い作品だとは思わなかったし、特異な世界を描いているので、こういうのが欧米の映画人からみれば新鮮な「日本的」あるいは「東洋的」な美の世界として評価されるのかな、というような印象で終わっていました。
でもドキュメンタリーを観て私が興味をもったのは仙頭プロデューサーのほうで、彼のエッセイ集
(もうタイトルも忘れてしまったけれど)が出たときは、すぐに買って読んだ記憶があります。
多分その本に書いてあったのだと思いますが(あるいはほかの雑誌記事とかインタビューでの記憶と混同しているかもしれませんが)、「萌の朱雀」は出来上がったらまず海外のコンペティションに出そうと考えていた。日本では国内でいくらいい作品をつくっても、正当に評価されないが、海外の名のあるコンペティションで受賞すれば、一気に国内でも追随的に評価が高まる。・・・そんなことを明確に実際的な戦略として意識してやっているというのが、そういう世界に疎い私にはとても新鮮でした。
私が仕事の関係で、少しは視野のうちに入っていた美術や実演芸術なども似たり寄ったりで、例えばダム・タイプなども日本で活動していても、ほとんど知る人ぞ知るで、一般に知られる存在ではなかったけれど、ニューヨーク近代美術館でインスタレーションをやったとか、海外での評価が高まると、逆輸入みたいにあらためて日本で評価され、京都市があわてて(?)何とか賞を出したり・・・(笑)
経済では先行的に経済大国という自信をつけた日本ですが、文化に関しては第二次大戦後半世紀たってもこういう状態はえんえんと続いてきたので、なにも映画に限ったことではなかったのですが、映画でもそういうことを逆手にとって明確に戦略的に、海外で勝負することを先行させるというのを公言するような若い世代のプロデューサーが出てきていることに、或る種の新鮮さを感じたのでした。
こういう出会いだったので、河瀬直美は仙頭プロデューサーという頭の切れるプロデューサーが世に送り出し、成功させた映画監督、という一種の先入観(笑)がずっとあって、その後は作品を見ることもなく、彼女のつくる映画はタイトルとチラシを見るだけで、やっぱりあの路線を踏襲しているんだな、と思い、日本でよりもフランスなどヨーロッパで活躍して評価されているのも、そういう成り行きの結果だろうと思って眺めていました。ハンセン氏病や今回の「光」の視覚障害者を取り上げたことも、ポリティカルコレクトネス好みのヨーロッパ流に合わせた戦略的な選択なのかなと。
レンタルビデオで比較的新しい作品を探していたら、たまたま「光」が1週間レンタルであいていたので、このあたりで一度見ておこうと思って借りてきました。見終わっていい作品だと思いました。映像も美しく、脚本も飽きさせないドラマチックな緊張感を孕んだラブストーリーになっているので、「萌の朱雀」のように退屈はしませんでした。
出演者は永瀬正敏も水崎綾女も熱演で、それぞれの役として存在感を見せています。ただ、ストーリーは、この種の内容だと、観る前からだいたい成り行きはこうで、結末はこうだろうと、大きく外れることなく、予想どおりになってしまいます。それをいい意味で裏切られるほど新鮮な展開は残念ながら見られませんでした。
視覚障碍者のための映画の音声解説をつくるボランティア(でしょう)がモニターの前でプレゼンをして、意見を聞いて修正していく、そういう場面から始まり、主人公はそのボランティアの若い女性美佐子(水崎綾女)と、その席で彼女の作品理解と作業の姿勢に詰問調で疑問を呈する、というかほとんど難詰するような言動で、一気に緊張感を高める、視力を失いかけているカメラマン雅哉(永瀬正敏)の二人です。
そこから緊張感を孕みながら二人が何度か接点を持ち、雅哉が失明の危機の前でどんどん絶望の淵に落ち込んでいくのと反比例するように、美佐子は彼と接点をもつたびに彼の人柄に触れ、彼の命であった写真の作品に触れる中で、写真や映画に向き合う彼の姿勢を理解して行き、彼に惹かれていきます。
(ただ、彼女の彼に惹かれていく心理的な描写があるわけではないので、いきなりのキスシーンは唐突と言えば唐突で、もう少し丁寧に彼女が彼を理解し、彼の作品に惹かれるプロセスが描かれないと、苦しむ彼に対する同情が愛に転化したんだ、みたいな感じになってしまいそうですが・・・)
いずれにせよ、2人の緊張感も漂わせながらの接触のプロセスがこの作品のメインストリームになっていて、甘いラブストーリーにならないのは、映画の音声ガイドをつくる過程での作品への向き合い方について、雅哉やほかの視覚障害をもつモニターたちと、美佐子の間に齟齬があり、彼女が結構きつい批判をあびるシーンが契機となっていて、二度そういう場面を繰り返し、両者の間に緊張感が高まっているからです。
その緊張感が解けていくのは、美佐子が雅哉を理解し、彼の作品を理解し、彼の写真や映画に向き合う姿勢を理解することとパラレルな進行であり、それはまた、美佐子がそれ以前の、映画への向き合い方から脱皮していくのと同時的だというふうになっています。
そのいくつかの軸が交わって、対立的な緊張が解けて一気に二人が愛情の絆で結ばれ、ひとつになる瞬間というのが、美佐子が心惹かれた雅哉の写真に捉えられていた夕陽の見える山へ二人で昇って行って一緒に夕陽を見、その光を浴びるシーンです。
まだ二人が緊張感に満ちた出会いから時を経ない最初のころ、偶然のように美佐子が雅哉の住むアパートの部屋に招き入れられて話すときも、窓から入る光が美佐子の顔に映って、光が2人にとって、またこの作品全体にとって、重要な意味を持つことが暗示されます。
彼女たちが映画の音声ガイドを作る作業をしている作品も愛がテーマで、最後のシーンで主人公らしい老人が小高い丘のような斜面をのぼっていく後ろ姿を映しているのですが、低い夕陽のような太陽の強い光が老人の行く手から老人の肩のあたりを眩しく照らして観る者のほうへ射しています。
このラストシーンにどういう言葉を与えるのがいいのか、あるいは与えないでおくべきか、を廻って美佐子と雅哉などほかのメンバーとが鋭く対立するのが、この作品を動かすクランクみたいな働きをしています。
実に計算高くよく練られた構成、脚本だと思います。というか、そこが出来過ぎている(笑)ところに、私などはむしろ予定調和的過ぎるんじゃない?と疑問を感じるほどです。その分、俳優たちの熱演も変な言い方ですが、演じすぎているように感じてしまうところがあります。
たぶん、現実にこういう場面があったとすれば、視覚障碍者のモニターたちは、あんなふうには美佐子を批判しないでしょう。その会議の席での視覚障碍者の女性たちの批判は、当たっているようにみえる(そのように作品では扱われている)けれど、果たしてそうだろうか、と疑問を覚えます。
この作品では、彼女たちの批判が正しく、美佐子が対象となっている映画作品への理解が不十分で、映像が表現しているものを、言葉で壊してしまっている、というふうな言い方が正当であるかのように描かれています。美佐子は傷つくけれども、それを乗り越えて努力して、彼女たちが満足するような仕上がりに改善してめでたしめでたし、彼女は成長しました、と言いたげです。
でも、そもそも映画の音声ガイドとは何なのか。美佐子を批判する女性たちや雅哉がそういう自問を潜り抜けているかどうか、この作品ではわかりません。その分、女性たちの言葉はへんに自信に満ちて、自分たちの解釈が絶対的に正しくて、美佐子が想像力を欠いているかのような一方的で断定的な批判をするのですが、その姿にこの作品の観客である私たちは或る種の違和感を覚えます。
ネタバレになるから、美佐子が対象となる作品のラストシーンにつけた言葉は書きませんが、それは果たして音声ガイドの書き手が書くべき言葉なのでしょうか?
私には、もしそれが対象とされた映画作品のラストシーンを正しく表現する言葉であるとするならば、それはその映画の脚本にこそ書かれるべき言葉であって、それが脚本にない言葉であるとするなら、それが余計な言葉であるか、或いは脚本のミスではないか、と思えるのです。
私が美術施設の活動について、美術館建設計画などの関連で調べていたとき、視覚障碍者のための美術というテーマが活発に論じられたり、そうした活動の試みが実際になされていることを知りました。触れる彫刻などでは、当然あってしかるべき活動ですが、決して実物に触れることのできない絵画のような作品についても、ちょうどこの映画の音声ガイドのように、美術作品に描かれた色や形、面や線について言葉で語って、その絵画の前に佇む視覚障碍者に「美術鑑賞」の機会を提供する、という、その活動に、私は自分の美術なり美術鑑賞なりの概念をあらためて考えることを求められるような、或る意味でのつまずきを覚えました。
私には、美術作品を言葉に置き換えて語るその言語活動は、あくまでも美術作品をひとつのきっかけとした、新たな言語活動であり、コミュニケーションのための新たな表現ではあっても、どうしてもその言語活動自体を美術活動であるとは認めがたかったからです。それはいまも変わりません。
映画の場合は、もちろん脚本のない映画もあるけれど、一般には脚本があって、それをもとに映画がつくられるでしょう。從って、或る映画作品を理解したいなら、もちろん映画そのものを観る必要があるけれど、補助手段としては、まず脚本を読むのが妥当だと思います。
同じ脚本からも監督により、スタッフやキャストによって、別の映像作品がつくられるので、脚本を読んだからと言って、そこから作られるであろう映像作品を確定できるわけではないけれど、映画を作る監督がその脚本によって作品をつくるように、私達も脚本を読んで映画のシーンを自由に想像することはできます。脚本自体がその想像力を強く、豊かに羽ばたかせるだけの力を持つことは、脚本の言語作品として価値を決めるものでしょう。それは映画作品の価値とは異なる独自の価値をもつものでしょう。けれども脚本をもとに映画がつくられるとすれば、脚本を読むことが映画作品の理解の助けになることもまた疑うことはできません。
では映画の音声ガイドとは何か。聴覚障碍者でない限り映画の音声は聞こえるわけですから、見えない(あるいは見えにくい)映像を言語的に説明する、それが音声ガイドの役割であるとすれば、それはもし映画が脚本通り、それに沿ってつくられるとしても、言語作品である脚本と映像作品である映画とは表現の方法が異なるから、様々な選択肢の中からそのつどひとつを選んで映像は確定されていく、その映像ならではの表現として、何がどのようにそこで選ばれたかを伝えることが音声ガイドの役割でしょう。
そうすると、私にはこの河瀬の作品で、美佐子が音声ガイドの対象としている作品のラストシーンに或る言葉を加えるのは、余計なことではないかという疑問を感じます。それは脚本の領分ではないか。少なくとも非常に微妙な点だと思います。
たしかに想像力に任せればいいんだ、という考え方だと、逆に脚本を読めばいいじゃないか、それ以上はすべて余計なことだ、となってしまうでしょう。
音声ガイドはあくまでも、その脚本という言語表現から映像表現に転じるときに、いやおうなく選択せざるを得ない、具体的な色や形の何をどう選んだか、という映像表現独特の選択を伝える役割を負うものだと思います。
しかし、それは脚本が観客の想像力に委ねようと考えたものに無理やり色や形を与えてはいけない。なぜなら、すぐれた映画の作り手なら、映像においてもそれをあからさまに与えようとはしないでしょうから。老人がどんな服を着ていたか、どんな姿で歩いていたか。それは伝えればいい。でも老人がその向こうに何を見ていたかは、映像そのものもまたあからさまに映し出しはしないでしょう。
いずれにせよ、河瀬直美の作品が決して退屈なものではないことが分かっただけでも、収穫でした(笑)。マイノリティーに関する素材の選択は戦略的なものかもしれないけれど、別段マイノリティーへの差別やそれに抗して立ち上がるマイノリティーの姿を描こうという作品ではないと思います。作品の中の作品中の老人が言うように、人はいつ死ぬか分からない。何があるかもわからない。平穏な日常の中にも突然そういう運命が侵入してくるかもしれない。ちょうど雅哉が失明の危機に直面するように、です。そのときに人はどうその現実と向き合うのか。そのとき人は何を求め、どんな選択、決断をしていくのか。何によって人は救われるのか。そういうテーマは、マイノリティー問題などより、ずっと普遍的なものです。
永瀬演じる雅哉や彼とぶつかりながら、心を通わせるに至る水崎綾女演じる美佐子が、苦しみながらも自分たちを訪れる現実に向き合い、その中で心を通わせていく姿は、その先は少しも描かれてはいないけれど彼らの未来への歩みを暗示するに十分でした。
2018-4-16 blog