村上春樹『街と、その不確かな壁』(未刊の雑誌掲載版)
★この雑誌掲載作品は下記にあるような事情で刊行されず、全面改稿による新たな作品『街とその不確かな壁』という表題の単行本として刊行されました。以下、最初は雑誌掲載版を読んだ時の感想、そのあとに置いたのが単行本を読んでの感想です。
村上春樹の『街と、その不確かな壁』を古い掲載誌(『文学界』1980)のコピーで読んだ。これは、春樹ファンの長男が、前々回帰省した折に、これ読んだ?と訊いて、読んでない、というと置いていってくれたコピーだ。
雑誌掲載作品を単行本化するときや、版を新たにする機会に、作者が大幅に加筆・修整することは少なくないけれど、長男によれば、この作品は作者が単行本に収録することを拒んで、雑誌掲載のままいわばお蔵入りさせてしまった作品だという。
作者自身がもはや自分の生み出した作品として読まれたくないと考えている作品まで掘り返して読みたいというのはファン特有の心理だろう。私自身は現存作家では彼がもっとも優れた作家だと思って、新刊が出れば必ず読むけれど、ファンというわけではないので、作者自身が自信をもって送り出した、すぐれた作品だけ読めば満足だ。
でも今回はそういういきさつで、偶々作者自身が刊行を拒んでいるらしい若書きの作品を読むことになった。54ページほどの中篇小説。
語るべきものはあまりに多く、語り得るものはあまりに少ない。
おまけにことばは死ぬ。
一秒ごとにことばは死んでいく。路地で、屋根裏で、荒野で、そして駅の待合室で、コートの襟を立てたまま、ことばは死んでいく。
お客さん、列車が来ましたよ!
そして次の瞬間、ことばは死んでいる。
可哀そうに、ことばには墓石さえもない。ことばは土に戻り、その上に雑草が茂るだけだ。・・・(略)
いきなりこんなふうに始まる。私はなぜか横光利一のごく初期の小説(「頭、または腹」)を読んだときの印象を思い出した。
「ことば」が擬人化されて主語のように書かれているのが、「列車は沿線の駅を小石のように黙殺した」というような文体(うろおぼえ・・)を連想させたからかもしれない。
そして、同時に、庄野潤三の『プールサイド小景』の冒頭の雰囲気を思い出した。それは、描写ではなくて、ちょっと理屈っぽい、悟ったような作者のご託宣で始まっているところが似ているからかもしれない。
そう言えば村上春樹と庄野潤三はこの関西の豊かな中産階級という共通の基盤がある。さらに私が彼のベストの作品と思っている『静物』を、村上春樹も若い読者向けの短編の紹介を装った評論で、詳細に論じていた。
ただ、今回読んだこの作品は作者自身がみずから葬った作品なので、ここでどうこう言っても仕方がないし、フェアでもない。
村上春樹は先日「カフカ賞」を受賞したそうだけれど、この小品に登場する「壁」や「門番」にカフカの「掟」や「城」の影を見ることは容易だろうし、ファンなら作者本人の意志に反してでも、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」をはじめ、ここにも既にムラカミ・ワールドに通じる小道がいたるところについていることを指摘できるだろう。
ただ、ごく普通のサラリーマンや主婦のような大人の社会人の読者が読むとき、ここには作者が永遠に封印した、ある種の気恥ずかさを感じざるをえない部分があることは否定できない。
私はそれを、学生映画や、あえて「自主制作」を強調したがる映画などに、しばしば見るので、前にそのことについては触れたおぼえがある。
そのときには、その気恥ずかしさを、ある種の幼稚さだと見ていたけれども、正確に言えば、幼稚さそのものというよりは、幼稚さを客観視できないことが問題なのだろうと今回思った。
つまり、書いている(作っている)本人は大真面目なのだけれど、それが不特定多数の読者(観客)にどう見えるか、という自分(の作品)を客観視できる複眼がないということなのだろう。
そこで、本人の大真面目な熱演が客席のクールな目には、滑稽であったり、しらけさせるものであったり、失笑を買うようなものになってしまうらしい。
だから、結局のところ、客観視とか複眼とは他人の目、ということになるのだろう。
そう考えると、クールが売り物のような村上春樹に珍しい、本人だけが大真面目で熱い言葉を書き付けた痕跡の見られるこの作品は、普通の作品を読むのとはまた違った楽しみがあると言うべきか。
blog 2006年11月05日
★ 以下は、2023年春、単行本として刊行された全面改稿による新しい作品を一読した感想です。
村上春樹『街とその不確かな壁』を読む(2023年4月刊行の新刊単行本版による)
アマゾンで予約していた村上春樹の新作『街とその不確かな壁』が届いて、この2日間吉本試論の方を書いていたので読むのを我慢していましたが、終日雨のきょう、一気に読んでしまいました。この作家の文体にはもう慣れているし、熟度も増しているので、とても読みやすくて、650頁を越える長編だから明日までかかるかと思っていましたが、あっという間に読めてしまいました。
ただ、彼のパラレルワールド的な世界に多少はなじんでいる読者でないと、その世界にすっと入って行くのは結構難しいかもしれません。以前に女子大生が何か面白い小説を紹介して、とよくやってきたので、異なる現役の作家から1作品ずつ選んで貸したりしていたとき、私が特に推薦していた村上春樹の『東京奇譚集』や高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』は、意外にもあまり彼女たちに好評ではなくて、「よくわからなかった」「難しかった」といった感想を聞かされたものです。
今回の作品は1980年の『文学界』9月号に掲載されたものの、その後作者の意向でお蔵入りになっていた『街と、その不確かな壁』という比較的短い中篇作品を一から書き直した長編で、当初の作品のアイディアの骨組みは生かされているようだけれど、すっかり書き換えられ、堂々たる作品に仕上がっています。
ただ、やはり「街と、その不確かな壁」が原型になって書かれた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と重なる印象が強くて、パラレルワールドやそこからの脱出といった基本的な構図はもちろん、次々に登場する影とその引き剥がし、門衛、図書館、夢読み、一角獣等々の諸要素は、村上春樹の読者にはおなじみのもので、既視感を覚えながら読まざるを得ないでしょう。
春樹ファンの中には「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を村上の最高作あるいは要になる作品と高く評価する向きもあるようですが、私はどちらかというと苦手で、「つくりすぎやろ」という印象を持っていて、「ねじまき鳥クロニクル」のような作品のほうがずっと好きだし、「ノルウェーの森」「海辺のカフカ」「騎士団長殺し」「IQ84」いずれも好きですが、前者の系列に属する性格の濃い今回の作品はどちらかというと苦手なほうです。
作品としての仮構線を設定するために随分エネルギーと紙数を費やしている印象で、たしかにそれでもやりおおせてしまうところに作家の圧倒的な力量を感じはしますが、フィクションとしての構築物を構成する柱や梁の一本一本をこう説明して読者に納得させようとすると、肝心の物語性が生き生きと勝手に動き出して作品の中のドラマチックな波動を生み出し、広げていく力が弱くなってしまうところがあるような気がします。
一気読みさせるだけの円熟度は感じさせるけれど、作品世界に没入して激しく心を揺さぶられる、という印象は今回の作品にはありませんでした。登場人物にもそれほど魅力的な人物がなかったことも残念でした。発端になる高校生の「私」が恋する一学年下の少女も、メルヘンの少女のような印象だし、少し面白いかなと期待した図書館長前任者の子易さんもそこそこだし、ましてやカフェの女性店主も、イエローサブマリーンの少年はいまいちだし、登場人物が極端に絞り込まれている中で、魅力的な人物がいないことは物語に生命が吹き込まれないひとつの弱点に思われました。
ただ作者が焦点をしぼっているのは、人物とか事件とかではなくて、「わたし」(と彼女)が作り出す仮構の世界と現実の世界との関係で、その境が曖昧になり、またときに反転するようにも見え、一方から他方へ入ったり、逆に脱出したり、そのことが人間にとって何を意味するか、という私たちが現実の社会の中で経験するパラレルワールド的な世界の喩としてのフィクショナルな世界のありようそのものなのでしょうから、個々の登場人物の掘り下げがどうのとか、諸要素がどうだといったことは、つまらない揚げ足取りにしかならないかもしれません。
従って、きちんとこの作品を評するには、原型としての「街と、その不確かな壁」や「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を再読して、どう作者が作品の結構を作り直していったかをよく点検してみなければならないでしょう。ただ小説を楽しむだけの一読者として、独立した作品として今回の新作を読むと、やはりちょっと「つくりすぎやろ」という印象でした。
blog 2023.4.15