序の舞(中島貞夫監督) 1984
いい映画の素材になりそうな実在の女流画家を描いたモデル小説を原作としているのと、京都を舞台にした物語なので、色んな意味で期待したのですが、きょう文化博物館で見て来て、ちょっとがっかりしました。そして、小津や溝口の作品がつくられた時代は古いのに古びず、なぜ今日見たこういう作品が古びて感じられるのか、不思議だな、と思いながら見ていました。
文化博物館の解説チラシによれば、監督は「市内の空地に明治期の京の町並みの大がかりなオープンセットを建てさせ」、キャメラ、美術、照明にも「京都で生まれ育ったスタッフを起用、京都人の生活感に徹底的にこだわって演出」と書いてありますが、その「京都人の生活感」が私にはどうにも感じられなかったのです。
これが「祇園の姉妹」なんかみると、もう山田五十鈴の歩き方一つでも、あの祇園に生きる逞しい女をまざまざと感じさせるものがあるし、ほんのつかのまとらえられる路地の何でもない光景にも「京都人の生活感」が匂い立つところがあるから不思議です。
プロの映画評論家ではない私には技術的なことも、またなぜそう見えてしまうのかも説明できませんが、そういう言葉を持った人がいたら、このおそらくは大部分の観客が感じるだろう確かな感覚の違いがなぜそうなるのか、聴かせてもらいたいものだと思います。
素人の私にもわかるこの作品のちぐはぐさの原因のひとつは、キャストがほとんどミスキャストじゃないか、と思われることです。そもそも主役の島津津也を演じた名取裕子さんは、ほかの作品では綺麗ないい女優さんだな、と思って気に入っていたけれど、この作品のように絵を描かずには生きていけない芸術家を演じるような人だろうか、と思うと、それは無理じゃないか、と思います。絵を描き始めれば寝食を忘れて没頭し、なにもかも絵のために犠牲にするのを厭わない、そういう鬼気迫る生粋のアーティストの姿を、この映画のどのシーンにも見出すことができませんでした。
それに、この女優さんは、この作品で設定されているような師匠との関係に雪崩れていくような色気があるかというと、ちょっと違うのではないか、という気がしました。もちろん彼女はとっても綺麗な女優さんだし、師匠の高木松渓役の佐藤慶が彼女の胸を開いて役得とばかり乳首を吸いにかかったりするのを見ると、この野郎!って思いましたが(笑)
彼女の母親役をつとめたのが岡田茉莉子で、これも私に言わせれば大ミスキャスト。だって彼女に京都のこういう葉茶を売るつましい店の女手ひとつで姉妹を育てて苦労の皺を刻んだおかみさんをやらせるのは無理だって、素人でもわかります。顔も体形も立ち居振る舞いも言葉も雰囲気も全部違う。彼女は若いころものすごい目力のある美人で(私が最初のころみて印象に残ったのは、佐分利信との「ある落日」だったか・・・)大好きな女優さんでしたが、或る程度年配になってこういう自分に合うはずもない役をやらされるのはつらいものがあったんじゃないでしょうか。
そうしてみると主要な女性でそんなに変じゃなかったのは姉の志満を演じた水沢アキかな、と思います。ごく普通だったのが良かった。少なくともすごいミスキャスト、とは思わなかったです。
わけありで生まれてくる赤ん坊を里子に出すのを仲介する、もともと遊郭の芸妓だったらしい喜代次役で「特別出演」の三田佳子などは、ちょい役といっていいわき役ながら、その種の色気もあり酸いも甘いも?み分けた末の女性としての存在感が際立っていて、さすがだな、と思いました。
男性で主要な役を演じた佐藤慶も、ほんとなら高名な日本画家なわけで、封建制の男尊女卑時代とはいえ、単なる小物のスケベ男ではないので、それだけの深みなり重みなり、それ相応の芸術家としての存在感を見せる必要があると思うけれど、やはり軽すぎるのではないか、という気がしました。
もうひとりの「先生」を演じた風間杜夫は汚れ役の佐藤慶と対照的に得な役だったせいもあるかもしれませんが、無難でした。
やっぱり役者さんの配置、適材適所というのはものすごくたいせつだな、というのを感じた作品でした。
Blog 2018-12-22