祇園会館でみる「マイ・バック・ページ」
祇園会館は「オリオン座からの招待状」をみた映画館です。あのときも、この映画を見るにふさわしい場所だと思いました。
今回も川本三郎の回顧録を山下敦弘監督が映画化した「マイ・バック・ページ」を見るにふさわしい映画館だと思いながら見ていましたが、映画の中でこの映画館が使われていて、たまたま自分がいま座っているまさにこの座席で、妻夫木聡演じる沢田が映画を見ているシーンが映し出され、二階席の最前列なので、膝を接している壁の前面に張ってあるタイルの模様も見えたので、妙な臨場感を覚えました。
映画の描く時代がほぼ自分の学生時代と重なっているため、いまの若い人に分かりにくいだろうこの時代の空気というのはよくわかります。その分、たとえば女の子が「すご~いっ!」なんて言うと、あ、あんなふうな反応はあのころの女の子はまだしなかったよね、なんてつまらない細部が気になったりすることはありました。
しかし、そういう日常の確実に消えていく細部ほど再現の難しいものはないと思うので、山下監督はじめ若いスタッフはよく健闘しているという印象でした。ただ、この時代の空気感という意味では、この映画よりも、前に見た「時をかける少女」の実写版のほうが、泥臭くてださい分、あのころの私たちの世代が浸っていた色や臭いを思い起こさせたように思います。
それはむろん、この映画が時代の空気を描こうとしたというより、その中で記者としての、あるいは一人の若者としての夢、野心、誠実さ、欲、優柔不断、向こうみず、優しさ、矜持、弱さ等々、ありったけの矛盾を抱えて悩み、逡巡し、巻き込まれ、あるいは自ら踏み込みすぎ、袋小路に入って行ってしまう一人の青年の、この時代を生きた軌跡に焦点をしぼっているので、その軌跡を映す鏡の役割をする、いわゆる「過激派」のリーダー松山ケンイチ演じる梅山(片桐)との接点に強いスポットライトがあてられて、その展開で引っ張っていきます。
その展開は、脚本(向井康介)がしっかりしている印象で、安心してついていけます。また、キャストもよく、妻夫木は純粋だがいささか甘くて優柔不断なこういう役にはぴったりだし、松山ケンイチはこの限りなくいかがわしく、うさんくさい、にもかかわらず、その大柄な肉体と狂気じみた鋭い光の宿る眼が印象的で、閉じた組織のリーダーとしてそのメンバーが依存し、同時に恐怖心をいだいてついていくような資質をよく表現できていたと思います。
出色だったのは、さきごろまでNHKの大河ドラマ「江」に千姫役で出ていた忽那汐里です。主人公である沢田がつとめる朝日新聞いや東都新聞社の週刊誌の表紙を飾るモデルとして社を訪れ、沢田と言葉をかわします。これが後で効いてくる。二人の映画をめぐる雑談の中で、彼女が、主人公が泣くシーンが好きだと言い、沢田が男が泣くなんて、と否定的に言うのに対して、彼女は、ちゃんと泣ける男の人って私は好きです、という意味のことを言います。
ラストで沢田が初めて涙を流し、とまらなくなるシーンで、これが実に生きてくる。それまでの展開にどんなに違和感をおぼえていた観客も、このシーンで泣かない人は無いでしょう。泣く直前の、沢田が過去の情景を思い出すときの、ふっと時間の停止した妻夫木の表情の演技は見事なものでした。
あ、忽那汐里ちゃんの話でした(笑)。ええ、この女優さん、千姫よりもこの映画のほうが断然良かった。沢田としゃべっているとき、目を大きく見開いて沢田の顔を覗き込むようにしていた、あの表情のチャーミングなこと!いっぺんにファンになってしまった(笑)
この女優さんは、周囲がうまく育てて使ってくれれば、きっと大きくなる、いやなってほしいですね。もちろん私が知らなかっただけで、とっくにブレイクしてNHKが大河ドラマで使っているくらいだから、今頃何を、という話かもしれませんが。でも使うならこういう映画でこういうふうに使わないと勿体ない。
ところで、原作にも登場するこの女優さん、21歳で亡くなった、ということですが、誰だったのでしょうね。原作を読んだときもすごく印象的な存在で、気になったけれど・・・
滝田役、いや前園勇役の山内圭哉も良かったですね。というか面白かった(笑)。週刊誌で沢田の先輩役の古舘寛治もよかったし、概してこの映画はキャストがみな適材適所で、一人一人が良かったなぁと思いました。
持ち上げてばかりなんで、少し違和感を覚えた点を書きましょう。
もともと川本三郎の「原作」にあたる「マイ・バック・ページ」を読んだときにも、若き日の川本の考え方、行動の仕方に、既に違和感はありました。なんでここで踏みとどまれなかったんだろう?というふうなことも、その中に含まれています。それは彼の周囲にいた友人たちや先輩たちの中にもあったのじゃないかな、という気がしたのです。
だから、映画の中で新聞社の幹部らしい三浦友和演じる男が、沢田の「新聞記者ってそんなに偉いんですか?」という反問に、「偉いんだよ!」と頭ごなしに押さえつけるような、ああいう連中ばかりではなかったと思うし、沢田から離れていった周囲の同僚たち、上司たちを、そういう権力側の人間、組織防衛のために隠蔽につとめ、保身のために沈黙し、誠実な記者を遠ざける、というふうな人種と十把一絡げにするのは間違っていると思います。
ところが、あの時代の川本だけではなく、何十年も後になって、ようやく当時を距離を置いて語ることができるようになった川本が「マイ・バック・ページ」に書いた文章を読んでも、若き日の自画像との距離がどうもはっきりと読み取れないのです。すべては時の経過によって回想の中の風景として、ある種の許しの感覚に覆われているような印象があって、依然としてこの人はセンチメンタルなままなんだ、と思えて違和感を覚えたのです。自分に背を向けて去って行った友人、同僚たちの思いに言葉が届くというより、徹底して孤立していくほかなかった自分のほうに言葉が引き寄せられている、というふうに見えました。
この違和感は今回映画をつくった若い世代の脚本家や監督たちもおぼえたはずだと思います。それを単に背景となっている時代の違いで、自分たちにはよく実感できないと解釈したわけではないでしょう。でも、それにしては、その距離の取り方がこの映画の中で十分に表現されていない、そこが私の最大の不満です。
ごく具体的な例として、だれでも川本の「原作」を読めば、なぜここで踏みとどまらなかったのだろう?と疑問に思ったり、なぜ菊池、いや梅山(片桐)という、どうみてもいかがわしい男を信用してしまったのだろう?と疑問に思うでしょう。そういう疑問は「原作」で川本も自問し、映画の中でも沢田が自問します。しかし、それは本を読む私たちには、ある程度見当がつく。というより、「なぜだろう?」という問いは、あまりにもナイーブだろう、もしためにする自問でないならば、と思えてしまいます。
そこを単にいまではうかがうことの難しい当時の時代の空気のせいなんですよ、というのでは答えることにはならないでしょう。また、記者としての欲だとかなんとかいうふうな身もふたもない解釈では満たされないでしょう。沢田の優柔不断な性格に帰するだけでも足りないでしょう。
それは一つのクリアな答えで答えられるものではないでしょう。しかし私は映画はそれを描かなければならないと思います。そうでなければ、いまあの「原作」を映画化する意味はない。
わずかな手がかりがないわけではありません。たとえば、沢田が梅山を自分の部屋にかくまって、二人がくつろいで話をし、やがて梅山がギターをひき、二人で歌うシーンがあります。これは、なぜ沢田が梅山を信用してしまったのだろう?という疑問に対する答の手掛かりの一つだと思います。伏線もあります。
つまり、いまこの映画をつくるなら、「原作」との距離を、あるいはあの中で描かれる川本の若き日の自画像との距離を、映像表現全体として示す必要があります。何十年後かに書かれた「マイ・バック・ページ」にはその距離感はない。だからこそ、これを原作として採るなら、必ずそこに、この「原作」を読む山下監督なり脚本の向井さんなりの距離感が表現されなければならいはずです。
ないとは言わないけれど、その点についてはまだ満足とは言えませんでした。まさかこの才能ある監督たちは、「原作を忠実に再現しよう」と思って制作されたわけではないでしょう。
Blog 2011-12-4