「ニーチェの馬」(タル・ベーラ監督)
タイトルを見て敬遠していたのですが(笑)、先日小田香さんの「鉱」を出町座で見て、このブログに感想を書きながら、小田監督がタル・ベーラのお弟子さんというだけじゃなくて、あの映画自体の「監修者」となっていたなぁ、と思ったら、なんとなく以前に見た「倫敦から来た男」というやたら長々と不必要に(と思えるほどの)長回しで登場人物の表情など捉えていた変な映画(笑)のことがまた思い出されて、レンタルビデオ屋にそれはなかったけれど、「ニーチェの馬」という同じ監督のこれまた変なタイトルのDVDがあることは前から気づいていたので、今日借りてきて見ました。
難しげな哲学がやりたいなら何も映画で迂回しなくたって 、論理の言葉できちっと詰めていけばいいじゃないか、という気持ちがあるので、こういうタイトルの作品は敬遠していたわけです。でも、英語のタイトルはThe Turin Horse で単なる「トリノの馬」で、ハンガリーは知らないけど、torinoらしき単語が入っているので、英語のタイトルと同じなんでしょう。
トリノならイタリア人の友達がいて、訪ねて行って、友達の友達の家に泊めてもらって、家族から歓待され、仮装してパーティーに出たりして楽しい思い出のある町。
誰やねん?「ニーチェの馬」なんて邦題つけたのは?(笑)やめてほしいですね、こういうペダンチズムだか神格化だか知らないけど、わざわざ話をややこしくするようなもったいぶったタイトルに変えちゃうなんてことは。
そうでなくても、これが伝説の巨匠の「最後の作品」だ!なんて、映画会社や配給会社の宣伝文句ならわかるけど、知ってか知らずか監督自身が自己神話化に加担してるみたいなところがあるんですから。
でもこの映画は前に見た「倫敦から来た男」よりは単純でわかりやすかったですね。もちろん監督を崇拝する信徒さんたちから見れば、「わかりやすい」なんてごくごく上っ面のことに過ぎない、ってことになるでしょう。もちろんここではそういう上っ面の意味で、ってことで十分です。
先に全体を見てすぐにわかることは、あぁこれは旧約聖書創世記の、神が世界を創り給うた6日間を逆に辿って見せる終末論的な寓話なんだな、ってことです。
それは「地は形なく、むなしく、闇が淵の面にあり」光もなかったところへ神が「光あれ」と光を創造した創世記の第一日目から、「すべて命あるものには食物」が与えられる第6日目に至る創世の六日間を、きちんと遡って、ランプの光の下に男も女もおり、水も食物も与えられた日々から、すべてが失わた闇と沈黙の世界に還っていく構成によって誰にでもわかるようにかたどられています。
登場する人物も物も舞台装置も最小限に絞られていて、その数少ない要素の組み合わせが作る世界は自ずと寓意を孕むようにできています。
そうじゃなきゃ、そもそも彼ら(二人の主役)はなぜここへ来たのか?なぜもっと早くこんな場所から脱出しなかったのか?なぜ必要なことが分かりきっている備えをもっと早くにしておかないのか?等々、普通なら疑問に思うでしょう。
これが余計なものを削ぎ落とした人間の様相だと言ったって、もともと家も井戸も竃もランプも彼らが着ている衣服も長靴も、なにもかもが、彼ら自身ではないだろう他者としての人間が作り出したものであって、現実に他者が現れようが現れまいが、彼らだって他者と関わり、社会的人間として生きているわけです。
そして、彼らがそうした社会に参加し、働きかければ、彼らが陥っていくような様々な困難、井戸が枯れるとか、ランプの火がつかなくなるとか、馬が動いてくれず町にも行くことができないとか、そんなことは簡単に解消できるのです。それはちっとも彼らの宿命などではない。
でもここで描かれた世界には、そうした外部はないし、他者もいません。たまたま登場する他者に見える人物たちは、皆二人が拒むための存在に過ぎず、寓話がその寓意を伝えるために必要な小道具にすぎません。
本来は主役を務める男は荷車で町へ行ったり来たりしていたはずなので、他者と関わりを持ち、限られてはいても直接的な一定の社会性を持っていたはずなのですが、ここでは敢えてそうした目に見える関係性を切断された状況が作り出されて、閉じた世界を舞台としています。
目に見える社会性を全部カットしてしまい、最小限の要素の組み合わせだけで描かれる墨絵のように間の多いシンプルなモノクロの世界は自ずと寓話の世界に転じます。
人が生きるために必要な最小限の要素、水とジャガイモ、そのジャガイモを茹でる竃とランプの為の火種、雨風を防ぐための粗末な家、荒塗りの土壁に小さく硬そうなベッド・・・そんなものとあとは外部との唯一の交流手段らしい駄馬と荷車だけを備えて、低い丘陵地帯で外の世界から隔離された吹きっさらしの荒地に、昨日と同じように今日があり今日と同じ明日があるような単調な繰り返しの日々を送る父と娘は、エデンの園を追放されたアダムとイヴのなれの果てでしょうか。
映像のドラマが始まる前に、ナレーションで、ニーチェのトリノでのエピソードが語られます。それは、ニーチェが精神を病んでしまう直前のことだったようですが、トリノの街路で一向に歩き出そうとしない荷馬車の馬に苛立った御者が激しく馬を鞭打つ光景に遭遇したニーチェが、駆け寄って馬の首を抱いて、御者に鞭打つのをやめさせた、というのですね。それからニーチェは心を病んで死ぬまでの10年間を母親らに見守られて生きた。だが、あの「ニーチェの馬」のその後は知られていない、と。
そこからこの映画が始まるので、この映画はあの「ニーチェの馬」のその後を描いたものですよ、ということが示唆されているんだと考えればいいのでしょう。このナレーションだけのことなら、何もわざわざ著名な哲学者先生を引っ張りださなくたっていいのに、なんでそう深遠っぽく見せたいわけ?と半畳を入れたくもなりますが、もう一箇所、2日目に髪のうすい変な男が突然やってきて、いきなり滔々とわけのわからないことを言うだけで言って出て行くのですが、そいつがまぁ神が死んだとか、昨日のように今日があり今日のように明日があると思っていたとか、永劫回帰を匂わすようなことを口走るのですね。これがタル・ベーラ先生のニーチェなんでしょうから、そいつが登場したらこの冒頭のナレーションを思い出してよね、っていう信者さんたちへの目配せなんでしょう。
映像としての冒頭のシーンは黒いコートを着た一人の髭面のやや険しい顔をした年配の男(後のナレーションで「オルスドルフェル」という名だと知れますが、別段その名に意味があるようには見えません)が駄馬に曳かせた荷車に乗って、強い風と靄の中を鞭を振るって進むのを延々と映し出します。後方の低い位置に靄に霞む白っぽい太陽が見えます。
男が馬に鞭を入れてただひたすらに風の中を疾走するこの映像はなかなか力強くて、長くても退屈はしません。駄馬と書きましたが、それは競馬のヒーローになるようなスマートな馬じゃなくて、首も胴も太くてずんぐりした、なんだか薄汚れたまだら模様みたいな肌合いの、どう見ても荷車を引っ張っていく労役用にしか見えない馬って意味です。
でもこの駄馬が画面では実に生きていて、その進行方向の左のすぐ前やや下方に視点を据えた移動するカメラによって風雨に逆らって進んでくるその表情をアップで捉えるような映像が、すごく迫力があって、駄馬がその一瞬ごとに映画的名馬になっています。
やがて男の家らしきものの前に着いて、一人の女が出迎え、荷車と馬を切り離し、厩へ入れたり、後始末をします。ひどく風が強く、寒そうです。向こうには囲むように丘陵地帯が見え、家のあるあたりは何もない吹きっさらしの荒地といった感じです。
手のひらにのる程度の石を粘土質の土にはめ込んだような壁の簡素な家の中に入ると、家の中は薄暗く、外へ開いているのは窓ひとつ。壁は荒塗りしたままのグレーの土壁で、その隅に男の狭くて硬そうなベッドがあります。男は右腕が使えないようで(麻痺か何かで)なんでも左手だけでやっていたらしいことにここで初めて気づきましたが、この男のために女が男の衣服を脱がせ、着替えさせたりします。着替えが済むと男はベッドに横たわり、女は蓄えの大きなジャガイモを二つ、鍋の水に入れ、竃の火にかけて茹でます。茹でる間、女は窓際の椅子に座って、窓を通して見える外の風景をじっと眺めています。この間聞こえてくる音楽は画面と同様に、とても単調です。
ジャガイモが茹で上がると、ここで初めて女が「食事よ」と男に声をかけます。それまで、この映画は男も女も一言も声を発しません。馬もです(笑)。
男は起きてきて、食卓らしい机の前に座ります。粘土づくりのようなごつい皿にのせられた大きなジャガイモ一個。これを男は熱がりながらも手で皮をむいて、適当なところで潰して小さくし、そのまま手掴みで食べます。食べる男の表情をアップで延々と撮るのがこの監督の流儀です。向き合って座った女の前にもジャガイモ一個。同じように手で皮を剥きながら手づかみで口に運びます。
粗末な食事が終わると女が後片付けをします。竃では火種の薪が赤々と燃えています。女は薪を足します。この調理に使う竃の火は部屋に三つあるオイルランプの灯りを灯す火種にもなるようです。
「もう寝ろ」と男の声。女は寝る前に水を使ってどうも顔を洗っているようでしたが、よくわかりませんでした。灯りが消えると闇です。
「おい、お前」と男が呼びます。
「何?」と女が応えます。
「木喰い虫の啼き声が聞こえん・・」みたいなことを男が言い、お前気づかないか、みたいなことをいいます。(実際のセリフはちょっと違っていたかも知れません)
「どうしてかしら、父さん」と女が応えるところで、初めて、あぁこれは父と娘なんだ、とわかります。いや、二人のどうも「男」と「女」ではなさそうな感じから、そうだろうなとは察しているのですが、本当のところはわからないので(だって、事情あって、伯父と暮らす姪かも知れないし、歳の離れた夫婦で旦那の方が大怪我をして不能な上偏屈なのかも知れないじゃないですか・・笑)、ここで初めて確信が持てるわけです。
「わからん」と父が応えます。
あとは暗闇の中で唯一明るい被写体、竃の火から漏れる明かりが延々と映されます。
ここまでは「一日目」です。
次に「二日目」の文字が出て、二日目が始まります。
朝父親が起きると、家の外の井戸で水を汲んで戻った娘が父親の着替えを手伝います。男も穿かせてもらったズボンをずり上げるくらいはやりますが、あとはほとんど突っ立ったまま娘に着せてもらっています。ベスト、上着、黒マント、長靴などを身につけて厩に行き、娘が荷車を引っ張り出し、馬を金具で牽き棒に馬を繋いで、父親は馬に鞭打って動かそうとしますが、馬は動こうとしません。
男は使える左手に持った鞭をやたらに振るって馬を打ち据えますが、馬はビクともせず娘がやめて、と父親を止め、男は諦めて馬を厩に戻して出かけるのをやめてしまいます。
この場面は当然、先に書いたように、映画の冒頭にナレーションで語られるニーチェのトリノでのエピソードと重なってきます。
仕方なく男は家の中で手斧を振るって薪を割る作業をしています。娘は金盥に湯気の出る湯を入れて洗濯して、白いシャツを屋内に干しています。干された白いシワシワのシャツの面を間近に捉えたカメラが故障したみたいに動かず、その像を捉え続けます。
常に家の外で吹きすさぶ風の音が聞こえています。
男の髭面の横顔のアップ、ランプの火、左手にアイスピックみたいなのを握って皮のベルトか何かを突き刺して穴を開けている男。
「食事よ」と娘が声をかけ、またジャガイモ一個。茹でたてのやつを手で皮をむしり取って食べます。食事の後、父は窓辺に座って外を眺め、娘は後片付け。
その時戸を叩く音がして、髪の薄い太り気味の中年男が入ってきます。バーリンカという焼酎を分けてもらえないか、と言うのです。いいよ、あげるよ、と言うと男は中へ入って机の前に座り、いきなり滔々と喋り始めます。それがものすごく長い長い語りで、その間ずっとオルスドハフェル(女の父親)は黙って聞かされているわけです。我々観客もね(笑)。
バーリンカはありふれたリキュールらしくて街でなんぼでも買えるのに、なんで?みたいな感じでオルスドハフェルが訊くと、「町は風でやられて滅茶苦茶だ」と髪の薄い男が答えます。まさか台風15号や19号が行ったわけじゃないでしょうが、何か街では途方も無いことが起きているらしい、ってことは男の話から伺えます。
しかしどうもそれは、台風で家屋が倒壊したとか、大雨で住居が浸水して泥にまみれた、というふうな具体的な話ではなさそうで、人間がみんな堕落してしまった、というようなデッカイお話のようです。風というのはどうやら「風邪」と書くほうが良さそうで、よほど悪いヴィールスを感染させてダウンさせる精神のインフルエンザみたいなもののようです。「町は風にやられた」じゃなくて「町は風邪にやられた、精神のインフルエンザに!」くらいに字幕変えたほうがいいかも(笑)。
人間が一切をダメにし、堕落させた。神も加担はしたが、人間自らが「審判」を下し、そのおかげで世界は堕落した。汚い手を使って不意打ちし、触れたものをみな堕落させ、大空も夢も自然も不死も奪っていった。優れた人たちは、この世に神も神々もいないってことをもっと早く理解すべきだった。気づいてはいたが傍観して理解しようとせずに、ただ途方に暮れてやり過ごしてきたのだ。神もいなければ善も悪もない。それなら自分自身も存在しない、だから優れた者たちは燃え尽きたのだ。俺も自分が間違っていたことに気づいたよ。俺は、この世は決して変わることはない、昨日あったように今日があり、今日のように明日があると思っていたが、それは間違いだったんだ。変化はすでに起きていたんだ!
・・・なんのことか分かります?(笑)
まぁ正確に記憶してるわけじゃないし、確かめるために見返す面倒もしてないので、実際に彼が語ったところとは違うでしょうけど、大雑把にはこんなところです。わかる方が異常では?(笑)
でもまあせっかくニーチェ先生の名前まで出して目配せしてくださっているのですから、彼の哲学でも読み直して、なるほど「神は死んだ」というセリフや永劫回帰みたいな概念をタル・ベーラ先生はこんなふうに解釈して、いま世界で起きていることをニーチェならこう読み解くだろうと考え、それをこのハゲちゃびん君の口から語らせてるんかもしれないなと思って、若い方はどうぞ頑張って哲学してくださいね。私はもう残された時間も少ないので遠慮しますが(笑)。
ともかく何分か独演会でこの人に喋らせた挙句、タル・ベーラ先生は、聞き手のオルスドハフェル君に「いい加減にしろ!くだらん!」と言わせています。そんなこと言わせるためだけに登場させるなら、最初からこんな長話させるの、やめときゃいいのにね(笑)。
さて三日目です。やれやれ、この調子だと先が長い(笑)。
でも大体が繰り返しですから、少々映画館で爆睡していても大丈夫。目が覚めて画面を見たら、さっきと同じだった、ってことがこの監督の映画に関しては珍しくなさそうですから(笑)。でもこの映画に関する限りは、あなたの見ているのは必ずしも「さっきと同じ場面」ではなくて、そう思えるほど同じことを毎日繰り返している父娘の日常の「さっきとそっくり同じように見える場面」にすぎないかも知れませんから、要注意です(笑)。
女、ベッドから起き上がる。水を汲みに出る。外は寒風吹きすさぶ。重い木の覆いを取り外して釣瓶を落として水を汲み、二つのバケツに入れて家の中へ戻ってきます。
そこへ馬車がやってきます。父が、追い払えと娘にいい、娘はまた外へ出て行きます。井戸のそばへ来た馬車にはなんと7人もの家族らしい人々が乗っていて、井戸で水が飲めるぞ、と騒々しく降りてきて井戸の覆いを勝手に外したりしています。
出てきた娘が追い払おうとしますが、一緒にアメリカへ行かないか、などと支離滅裂なことを言っていて、立ち去ろうとしません。今度は父親が手斧を持って出てきて脅したので、馬車の家族は騒がしく悪態つきながら去って行きます。
家の中に戻った娘、手にした聖書のような分厚い書物を開いて声を出して読みます。「教会という神聖な場所に来て許されているのは神に対する畏敬の念を表わす行為だけである」なんてことが書いてあるようです。なんだかこれもよくわからない。
風が不毛の地を吹く、ってなナレーションがあって、3日目も終わります。
4日目、竃の火に薪を足す女。バケツを持って水汲みにを出ます。ほとんど砂あらしみたいな風。
釣瓶を落とすけれど水がくめず、父を呼びます。井戸が枯れたようです。
娘は厩へ行きます。飼葉が減っていないのを見て馬に「なぜ食べないの?」と訊きますが、馬は返事をしません。当然か・・・。せめて水を飲んで、と娘は水を飲ませようとしますが、馬は水も飲もうとはしません。すでに死を予感したこの馬の微動だにしない無表情の演技はすごいです(笑)。
父親は娘に身の回り品を持ち出せるようまとめろと指示します。もうここにはいられない、と。
再び娘は厩へ行き、荷車を出し、荷物を積み、馬を後ろにつないで、その荷馬車を自分が馬になったように牽引して行きます。重そうな車輪をカメラが捉えます。
吹き荒ぶ風。風に舞う木の葉。丘の上に一本の木。画面の右端からその丘へ登っていき、中央のその木の近くで丘を向こうへ越えて見えなくなります。でもじきにまた姿があらわれ、全く同じ道を辿って画面の右端へ戻ってきてしまいます。この辺りのロングショット、うまいし綺麗です。
家に戻ってきて、家の中から、窓辺にいつものように座って外を眺めている娘の表情を外からカメラが捉えて、ゆっくりとアップにしていきます。なんだか窓が留置場か刑務所の窓のように見えます。
5日目。いつものようにベッドで起き上がる父親に靴下を履かせ、ズボンを穿かせる娘。
馬の顔。相変わらず無表情ですが・・・飲まず食わず動かず。娘は外に出て厩の扉を閉めます。それで厩の中は真っ暗闇でしょう。閉めた木の扉を延々とカメラが捉えます。
何度もこの「延々と」何かほとんど意味のないものを捉えるカメラというのは、この監督の特技です。彼はこの長回しが自分の映像言語だと言っているようです。そういうのを信徒さんのように深遠なものと捉える必要はないかと思います。言ってみればそれは癖のようなものでしょう。
大江健三郎はいつまでたっても句読点がない、ひどく屈折しまくっていて長ったらしい悪文を書く癖があります(笑)。でもそれが記述される中身にフィットする時は必然性のある表現として、スタンダードな国語の先生が褒めるような文章では表現できないものが表せるだろうし、それが文学として新しい文体を開いたと言われる所以でもありましょう。でも彼の文章は普通のエッセイを書いても悪文ですよ(笑)。それは彼の癖で、彼の資質と一体のものでしょう。まただからそういう小説が生み出せたのでもありましょう。
タル・ベーラ先生の映像文体も、あの退屈で無意味な長回し(と思える部分があるの)は、単に彼の資質と骨がらみの「癖」だと思えばいいと思います。それが非常に効果を発揮する映像というのは、もちろんあるしこの映画では比較的それが多くて、非常によく効いていると思います。
さて、家の中で男は窓際でうずくまり、女は縫い物をし、ずっと風の音が聞こえています。
熱々のジャガイモを食う二人。途中でやめて窓際に座る男。
どうしたのー真っ暗だわ、と女。
ランプをつけろ、と男。
何かにつまずいて音を立てる女。忌々しい!と。
竃の火種をとってランプに火をつけます。ところが初めはつくように見えたランプの火がつかなくなります。油入れたというのに、火がどうしてもつかないのです。父親がやってみてもダメです。
何が起きているの? と娘。
わからん。。。寝るぞ、と父。
火種まで消えたわ、と娘。
また明日やってみよう、と父。
ナレーションで、寝息だけが聞こえる、と。もう嵐は去り、静まり返っている、と。
6日目。
音楽だけが聞こえ、真っ暗です。
やがて食卓を挟んでいつものように向き合って座る父と娘の姿。
父は皿にのったジャガイモの皮を手で剥こうとするけれど、水も火もなくして茹でることもできず、生のジャガイモだから固くて皮など剥けるはずもなく、潰すこともできません。
「食え・・・食わねばならん」と父は言いますが、娘は微動もせず、ただ目を伏せ俯き加減でじっと机についているだけです。
父は生のジャガイモを音を立てて一口齧ります。でもとても食べられた代物ではありません。
動かない二人。次第に画面は暗転します。真っ暗闇になって、the end でクレジットの文字が流れ始めます。その間の時間はタル・ベーラ先生にしてはそう長くなくて適度な時間です。先生の長回し癖の中では、ラストのこの暗闇の長回しが一番良かったのでは?(笑)
人間ってこんな風に生きて、こんな風に死んでいくものだぜ。いや今君らは楽しい毎日を送っているかもしれないけれど、もうすでに「大変なこと」は起きているんだよ。そして人類はこんな風に滅びの道を辿っているんだよ、というのかな。そんなネガティブな現代の寓話として、いや観る人が寓話とみなせば当然そこに色んな寓意を読み取るわけだから、それはそれでいいんだろうと思います。
寓意はイソップやラ・フォンテーヌみたいに一意的でなく、様々であった方が豊かになって楽しい。この作品もそんな色々な寓意の読みを喚起するような多義性があるんじゃないかと思うし、少なくとも映像的な強度があって、印象に残る作品でした。
ニーチェ先生の肯定だの否定だのなんてどうでもいいことで、私なら作品を見た人の色んな寓意の読み取り方の豊かさの方にずっと興味が持てます。
見終わって連想するのは、巨岩を山の上まで運び上げる懲罰を課されて、やっと山頂に手が届くと頃まで来ると必ず岩が転げ落ちてしまうので、この苦行を永遠に繰り返さなくてはならない、あのシシュフォスの神話です。
ここで描かれているのはシシュフォスのような永劫回帰的な世界ではないけれど、人間の課された宿命とでもいうほかはないような根源的な状況を強く印象づけるような像を与える点で、観る者に似た経験をさせるようなところがあります。
或いは馬いじめの場面からすぐ連想されるのは、ロバいじめの「バルタザールどこへ行く」(ロベール・ブレッッソン)でしょう。あれも暗い映画でしたね(笑)。
blog 2019-10-23