座頭市物語(三隈研次監督)1962
先日三隅監督の「大菩薩峠」を見て、雷蔵だけじゃなくて、この監督自体のつくる映像には、ほんとに昔の時代劇の美しさがあったなぁ、としみじみ感じたので、手元になんか残ってないか探してみたら、座頭市のたしかこれ、のちに続く長いシリーズ作品のリストの最初にくる作品ではなかったかと思いますが、一本だけみつかったので、あらためて見ました。
やっぱり良かった。ほかの座頭市シリーズも、女性版の市もレンタルビデオで見ているけれど、中身の記憶はほとんどなくて、印象だけでいうと、この最初のモノクロ作品が最高じゃないか、と感じています。
3年前まで各地を放浪して、全盲の按摩として、さんざん差別され、いやな思いをしながら生きて来た市が、そういう身でよくある針とかのかわりに、刀をもてあそぶようになって、というより大変な修行をしたのでしょうが、我流ですさまじい居合の技を身につけます。その後はやくざ渡世で、この物語りの舞台、下総まで流れ着いて、かつてこの市を偶然見かけた折に、その抜き身の技を見たものだから、いつでも来るようにと声をかけられたのを頼りに、飯岡の助五郎、例の役人と結託してしたい放題している土地のやくざのところに草鞋を脱ぎます。
はじめは馬鹿にしていた助五郎の子分たちも、市が燃える蝋燭を宙へ投げ上げて、居合一閃、火がついたまま縦に真っ二つ、という壮絶な技をみて度肝を抜かれ、一目置いて世話をするようになります。彼の世話係を命じられた三下のタテキチが小悪党で、お咲という娘をたぶらかして妊娠させると棄ててしまい、お咲が溜池に投身して死んでしまうという事件があり、タテキチのまっとうな妹お種はやくざの兄のそういう振る舞いを激しく非難します。
タテキチはこの妹さえ、彼女に横恋慕している兄貴分に売り渡して手引きするのですが、彼女のあやういところをたまたま市が助けて、このお種が市を慕うようになる、この脇の話が殺伐としたやくざ同士の出入りや男同士の命を懸けた戦いの世界に彩を添えています。
そのお種という妹を演じているのは万里昌代という女優さんですが、やくざな兄をもちながら、本人はまっとうな、貧しい庶民の娘という感じの、色気なんてものはないけれども、端正な顔立ちで、兄貴にははっきりとモノを言う、勝気なところもある妹という役柄にぴったりの清楚で初々しい女優さんで、とても良かった。
とくに、市がタテキチの兄貴分に迫られて危うい所を市に助けられて一緒に夜道を帰る場面。画面の右上に大きな真ん丸の月が煌々と輝いているところを二人が帰って行き、市が夜道だから気をつけてというと、娘が月がとっても明るいから大丈夫、というような言葉を交わす。そして、市がお種さんはきっと綺麗な人なんだろうな、見たいな、と言うと、謙遜しながら、お種が私はこんな顔ですよ、さわってみて、と市の手をとって顔にさわらせる場面、ここはとても素敵な場面です。男女のこういう場面で色気抜きのこんな素敵な交情のシーンというのは、めったにあるもんじゃありません。
さて本筋の話と言うのは、時代劇では定番の、飯岡の助五郎と笹川の繁蔵一家の争い、講談の天保水滸伝の物語で、だいたいは講談でも映画でも役人と結託して大勢の子分を擁していた助五郎が悪者で、肺結核で喀血しながらこの出入りで死ぬ凄腕の浪人平手造酒(ひらて みき)が用心棒として雇われている繁蔵一家のほうが善い親分にされてきたわけですが、この映画ではどっちもどっち、やくざはやくざで、どっちの親分もそれぞれ二人をいざというとき使えるだろうというので「無駄飯」を食わして飼っているだけの番犬としか思っていません。
その座頭市と平手造酒との深い共感と宿命的な対決にいたる緊張感と悲劇がこの作品の主軸です。市は世の中から差別されて地を這うように生きてくる中で、そういう世の中を見返してやろうと対峙していまの自分をつくり上げてきた男で、いまもまっとうな世間ではもう生きられない自分を自覚して、極道の世界の片隅でひっそり生きていこうとしながら、その凄腕ゆえに進んでのことではないのに否応なく斬った張ったの世界に巻き込まれていくが、その中で差別や弱者をいたぶる極悪非道には泥まず、抗う生き方を通してきたような人物。
他方の平手造酒も侍の世界の秩序からはドロップアウトして自分のあるべき場所も生きる目標も失い、なおかつ当時の死病(肺結核)に深く身を冒されて常に死を目前に見据えざるを得ない身で、やくざの用心棒に身を落として虚無的な生き方をしているが、人を斬り殺すためにこの刀は使わぬと親分に断わって居候を決め込んでいるような浪人です。
この二人の出会いがいい。溜池のほとりに坐って釣りをしている市の耳に、草を踏み分けて近づく足音が聞こえてきます。たぶん市にはその足音を聞くだけで、その人物がなみなみならぬ武芸を身につけた侍だとわかったことでしょう。造酒は市のとなりに腰を下ろして釣り糸を投げます。春だなぁ、とのんびりと声をかける。
少しやりとりがあって、造酒は市が盲目であることを知ります。しばらくすると、市が、「だんな、浮きが動いていますぜ」と言い、造酒が「浮きが見えないはずなのになぜ?」と驚くと、市は「なんとなく気配で・・」と答えます。さらに加えて、「もしやだんなはどこかお身体が悪いんじゃありませんか?」と市が言います。造酒は驚いて否定しますが、この瞬間、彼にも市がただならぬ人物であることがはっきりと分かるのです。後のシーンの会話でそれも明かされますが、市は造酒の吸う息、吐く息の気配で、彼の胸が深く病んでいることを感じ取っていたようです。「
この平手造酒を演じるのが栗塚旭で、食いつめ浪人ながら眼光するどく、自分の死をみつめながら、死に場所を探している凄腕の虚無的な浪人というこの役柄がぴったり。
この二人が、ちょうどお咲という娘が溜池に身を投げて死んだ日に再びこの池のほとりに釣りに来て再会しますが、娘が身投げしたから今日は殺生禁断の日だ、酒につきあわんか、という造酒の申し出に応じて、市は造酒が滞留している寺へ伴われていき、酒を酌み交わします。
ここで市が造酒の背中を按摩の腕で揉むシーンがあります。造酒の背中へまわって、背のコリをほぐす普通の按摩ですが、二人が肌を触れあわせて接触するのはこの場面と、ラストの斬りあいで市が造酒を斬った瞬間の場面だけです。
だからこの二つの場面の符合を三隈研次監督は明らかに意識していて、最後に橋の上で剣を交え、数合の後に市の仕込み杖の刃が造酒を仕留めた瞬間、ちょうど斬った市の背中に造酒が覆いかぶさるような姿勢で、このお寺での酒を酌み交わしたとき市が按摩をして造酒の背中に触れていたのと真逆の位置関係になって、造酒は「みごとな腕だ」と言って果てるのです。市は盲目の目が涙するかのように慟哭の表情をみせます。
先走りましたが、二人が仲良くなって、飲みかわしているところへ繁蔵が来て、市が飯岡一家にいることを知らずに出入りの計画を話したのを助五郎に話されては一大事だと思った繁蔵の手下二人が、造酒がとめるのも聞かずに飛び出し、市を殺してしまおうと後を追います。造酒もまた顛末を見届けようとあとを追っていく。そして追いつかれた市は送ってきてくれた小僧さんを帰し、提灯の灯りを消して、暗闇の中で、「これでおまえさんたちとは五分と五分」と言って対決、一瞬の鮮やかな抜き手で二人を斬って捨てます。これを木陰で離れて造酒が見ています。この暗闇の中での斬りあいのシーンもすばらしい。
飯岡一家と笹川一家の出入りに際して、市は敵方の用心棒である造酒と斬りあうのを避けるために、飯岡一家から逃げ出す算段をし、助五郎も、敵方に凄腕の用心棒がいるときいてそれに市をあてようともくろんでいたものの、平手造酒が病に倒れたときいて、市の逃げ腰の態度に業を煮やしたこともあり、おまえなど無用になったからとっとと出ていけ、と言い、市はうまく出入りには不参加ですみそうな成り行きです。
他方、笹川一家では、病床の平手造酒が、出入りに参加できない自分の代わりに座頭市は鉄砲で仕留める、と繁蔵がいうのを聴き、鉄砲だけはやめてくれ、俺が行く、と病を押して出入りに加わります。彼は自分の死に場所を求めていて、自分が生涯はじめて共感をおぼえ、自分と同じくらい腕の立つ市に斬られて死ぬなら本望と、市が出入りから抜けたことを知らずに、覚悟を決めて出かけていくわけです。
一方市のほうは助五郎の情報で平手造酒が喀血して倒れたと聞いて、造酒が寝ているはずの寺へ見舞いに駆け付けますが、造酒は既に出入りに加わるために出かけたあとでした。寺の小僧が、彼は鉄砲で市さんを撃たせない代わりに、と言って自分が出て行った、と告げます。これを聞いて市は造酒が死にに行ったんだと気づき、とめようとあとを追います。
笹川一家と飯岡一家の出入りは、昔見たオールキャストの「怒涛の対決」など、いろんな映画にも描かれていますが、飯岡一家が船で乗り付けて河辺から原っぱみたいなところで、戦国武将の軍団のようにワァーッと鬨の声などあげながら双方突進して斬りあいに及ぶ、というような芸のない凡庸なシーンをつくらず、この映画では多勢に無勢の不利を知る繁蔵が一計を案じて、狭い地域におんぼろ長屋みたいな庶民の家々が立ち並んだ生活の場へ助五郎一家を誘い込みます。この場面はなかなかよく考えられていると思います。庶民が新興宗教みたいな手持ちの平太鼓をどんつくどんつく鳴らして騒いだり、やくざどうしの出入りの場に庶民の生活の匂いをたっぷり盛り込んで、異様に盛り上げています。
繁蔵一家は自分たちが知り尽くした家々や路地などを活用し、四方八方から囲い込んで敵を切り殺す作戦で臨み、それがまんまと成功します。おまけに助五郎たちが、病で倒れて出入りに参加できないと聞いていた平手造酒が来ていて、その凄腕でバッタバッタと敵を切り殺すものだから、2倍の人数で圧倒していたはずの飯岡一家も総崩れとなり、助五郎は逃げ出し、あやうく討ち取られるところ。
そこへ市が現れて、造酒と対峙します。こんな無駄な争いはやめましょうよ、と説得します。でも造酒はここを死に場所と思い定めて来たので、あとへは引きません。彼は有象無象に斬られて死ぬくらいなら市に斬られて死にたいと思ってきたのです。
二人は、小さな木橋の上で刃を交えます。この殺陣もなかなか見事で、美しい所作になっていて、魅せてくれます。
座頭市というまったくの正義の味方でもなければ悪の権化でもない、世の中から差別された長い年月の果てにやくざ者として世の片隅でひっそり生きて行こうとしながら、ぎりぎりまで追い詰められれば降りかかる火の粉をはらうにやぶさかではなく、いかに巨大な力に対してでも牙を剥き、たった一人ででも世の秩序に抗って跳ね返す・・・そんな力を一人で磨き、身につけてきたこの特異なキャラクターの魅力は言うまでもなく座頭市シリーズに共通するものですが、その中でもこの最初の作品は日本映画、時代劇の最も良き時代の様式美を失わず、モノクロの光と影の世界にみごとに表現していて、脚本もとても優れているし、日本の時代劇の底流にある、世の中の秩序から抑圧されたりはみ出たりした者の側の虚無的な思想・態度に寄り添った共感のありようや、時代的な制約ともいえる硬い枠気味の中でも溢れるような抒情性もたっぷり盛り込み、チャンバラの見どころも実にシャープな美しい場面に仕立てて見せてくれています。
Blog 2018-10-18