浮草(小津安二郎監督) 1959
旅まわりの芸人一座が船に乗って、どうも伊勢湾の小さな漁村みたいなところへやってくる。以前にも立ち寄っているところらしく、座長の駒十郎(二代目中村鴈治郎)以下古い団員にはなじみの村のようだけれど、実は駒十郎にはいま女房として一緒に旅をしているすみ子(京マチ子)の知らない古い愛人で一膳飯屋で生計を立てているお芳(杉村春子)がいて、彼をまだ父親だとは知らずに、おじさんと呼んでいる息子までもうけていたのだ。
この村へ長いブランクの後に帰ってきて興行を打つのだが、客が集まらず、団員の士気も上がらない。しかし駒十郎は公演の傍ら、いそいそとお芳のところへ出掛け、いまは成長して郵便局に勤める爽やかな青年になった息子清(川口浩)と釣りに出かけたり将棋をしたりしてくつろぐのを何よりの楽しみにしていた。清は郵便局員をしているが、勉強を続けて上の学校をめざしたいと考えて努力する青年だった。
ところがある時お芳のところへ行くのをすみ子がみとがめ、事情を知る古参の団員に問い詰めたすみ子はお芳の店へ押しかけて駒十郎を連れ帰ろうとしてお芳とぶつかり、また清にも遭遇し、自分が長年裏切られてきたことを想い知らされ、怒りが収まらない。
激しい雨の中の帰り道、駒十郎とすみ子は路地を隔てて向かい合い、互いに激しく非難しあう。 この場面はだいたい静謐な画面に終始する小津の作品の中では珍しく、非常に激しい、劇的な場面で、古風な男尊女卑的な立場の駒十郎が男の身勝手を地でいくように、上から目線で怒鳴りたて、叱責して押さえつけようとするのに対して、すみ子が堂々と対等に駒十郎とわたりあう強い姿が、とても美しく、カッコイイ。
何十年もの間、裏切られていたことを想い知らされ、腹の虫がおさまらないすみ子は、可愛がっている若くて女ざかりの魅力芬々たる団員加代(若尾文子)に、理由を告げずに、清を誘惑してくれと頼む。はじめはいやがっていた加代だが、ちょっと面白いと思ったか引き受け、清に近づいて誘惑する。
清はすみ子が予想したとおり、たちまち加代の魅力の虜になり、逢う瀬を重ね、もう上の学校へいって勉強を続ける夢も捨てて、加代と一緒になることしか考えられなくなっていく。
ところがここで、もともとはすみ子の企みの手伝いで清の気をひいてみればよかったはずの加代が、事情も知らず純情一途に気持ちをぶつけてくる清にほだされ、自分も清に想いを寄せるようになる。それで学業を捨てて一緒になりたいと迫る清に本当のことを告げて学業を続けるよう、自分とはもうつきあわないように言うが、清は事情などもうどうでもよく、聴く耳を持たない。
加代が清に近づいたことを知った駒十郎は怒り狂って加代を責め、それがすみ子の差し金であったと聞くやすみ子を呼びつけ、自分のことは棚に上げて激しく殴打し、出ていけと罵る。また加代にももう清に会うことを禁じる。すみ子は最後には詫びて仲直りしようと言うが、駒十郎は怒りがおさまらず、答えようともしないで飛び出していく。
ところがこの駒十郎と清が、加代のことで激しく対立する。駒十郎は清に、加代とは会うな、と言うが、清は聴く耳を持たない。お芳は駒十郎が実の父親だと清に告げるが、清はそんな事だろうと思っていたよ、と態度を変えず、駒十郎を拒否して出ていく。
そのころ一座は客の入りも減って興行が成り立たなくなり、借金をかかえて解散するしかなくなってしまう。一座の団員にわずかなものを渡して解散し、みなバラバラになっていく。駒十郎はお芳のところで清と3人で楽しく余生を送ることを夢見ていたが、清に厳しく拒否されてそれも叶わず、一座も解散となって途方に暮れるが、加代に清を託して、自分はこれまでどおり旅に出る、と言って一人駅に向かう。
駒十郎が駅へいくと、そこには列車の到着を待つすみ子が一人で待っている。離れていたところにいたすみ子が駒十郎のそばへきて、駒十郎のくわえたばこに火をつけてやり、自分も一本もらって吸う。ふたりはともに車中の人となり、4人掛けの隣同士の席に座って旅の人となる。
古い映画だし、言って見れば古臭い人情噺だけれど、これが見せるからやっぱり小津はすごい。といっても「東京物語」や「麦秋」なんかの小津とはずいぶん違うようです。それらのいわゆる名作の評価が高い、小津らしい作品とされているものが、静かな緊張感に満ちた映像なのに対して、この作品はずいぶん動的な要素にあふれていて、もし人々が小津らしい作品というのに小津の映画作りの文法みたいなものがあるのだとすれば、それを破ってかなり自由奔放に撮った映画のように感じられるところがあります。
もちろん映画史的な知識も小津の作品の前後関係とかもいちいち調べたこともないので、このカラー作品が小津の作品史のどこにどう位置づけられるかとか、それが例外なのかそうでないのかとか、そんなことは一向に知りませんし、関心もありませんが・・・
とにかく京マチ子と若尾文子がほんとに綺麗でチャーミングでした(笑)。
私の感想としては、それを言えばもういいようなものですが、作品としてはやっぱり中村鴈治郎の駒十郎が要で、あの細いもともとツリ目の目をめいっぱいつり上げて「このアホ!」と怒鳴り散らすあの石頭の旧弊な女性差別的DVおやじ(笑)の強烈な存在感がこの映画の中心です。
ほかの役者はみなこの中心のまわりをぐるぐる回っていて、時折軸に触れては跳ね返されたりおさえつけられたり反発して場外へ飛んで行ったり、という具合。なかなかうまくこの中心軸に寄り添って一緒に回っていくなんてできないのですが、結局のところ古女房の京マチ子が寄り添ってまた一座の再起を夢見て旅回りに出ていくわけです。
この中心軸が反発を買おうがめちゃくちゃ身勝手なオヤジであろうが、あれだけの存在感をもつからこそ、激雨の中、路地を挟んで対峙しながら思いっきり怒鳴り合う京マチ子の強い女っぷりがあんなに美しく、カッコ良くも見えるのでしょう。また彼に抑えこまれる果敢無い存在だからこそ加代の思わぬ展開による清への想いが一層可憐に思われ、清を誘惑する彼女も、本気で清を愛するようになる彼女も、ともに素晴らしく魅力的な女性にみせてくれるのでしょう。
昔の愛人お芳の杉村春子の芯の通った堂々たる姿勢も、純情一途の青年を演じた若い川口浩も、おもな古手の団員たちを演じた役者たちも、みな実に味のある役者でこの作品の世界を支えています。
カメラは宮川一夫。よく言われる小津のローアングルとか、対話する二人を交互にとらえる切り替えの特色だとか、そういうのはこの作品では見られないように思います。
そのかわり?といっては変ですが、雨の中の激しい口論の場面とか、駒十郎と清がまだ親子と明かさないときに、お芳の家で将棋をしたり、一緒に釣りにいったりして見せる幸せな親子の情景とか、京マチ子と若尾文子が並んで化粧などしながらくつろいで話しているときのような、ぞくぞくするように美しい2人の女性の姿とか、列車に二人並んで腰かけ、またいっちょやるか、と語り合う二人の表情とか、そういうところに名カメラマンぶりが発揮されていたんじゃないかと思います。
技術的なことはわからなくても、見ていてぐっと引き込まれたり、しみじみと胸にしみこんでくるものがあったり、感情が激しくゆさぶられる映像というのは誰にでもわかるものですから。
Blog 2018-12-10