「静かなる一頁」(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1993
冒頭の廃墟のような石造りの建物の一部を延々と映しているときは、いったいこれは何なのだろう?何を映しているのかもよくわからないし、それがどこかも分からないし、人も出てこないし、なぜこんなにえんえんと同じシーンを映しているんだろう?と、ひょっとしてビデオの故障じゃないか、と思ったほどでした(笑)。
まぁ何の予備知識もなく見始めたので、あとでネットでちょっとしたこの映画や監督の解説風の記事を読んで、なにか意味はあったんだろう(笑)とは思ったけれど、いまだにほんとうはよくわからないままです。
でも黒い(というのもモノクロだから黒か白か灰色しかないけど・・笑)マントをまとった、暗い印象の青年が出て来て、アパートらしい高層の建物の前で何か訊いたら、そこにいた人たちが、このアパートの何階の何号室で老婆が殺された、と言うのを聴いて、その言葉と、この青年の雰囲気を見て、ロシアの監督だと知っていたから、すぐにあぁ、「罪と罰」なんだな、と思いましたし、ずっとそのつもりで見ていてもその印象は変わらず、父親が馬車に轢かれて殺された少女が、青年の所へ来て葬式に出てくれと頼むシーンで、やっぱりだな、と思い、さらにもう一度やってきた少女と青年が対話して、青年が自分が老婆を殺した場面になると、「罪と罰」のセリフもそのまま言い、二人のやりとりもあの一番緊迫感のある場面だったので、間違いなくこれはソクーロフという人の現代版「罪と罰」なんだと確信できました。
あの青年が告白する場面は「罪と罰」の中でも一番好きな場面で、また実際全巻を通しても、最もテンションが高い場面ではないかと思っています。ドストエフスキーにおけるラスコーリニコフが、直接に俺がやったんだ、とは言わずに、誰だと思う?みたいにじわじわと、少女の信じる無垢の心をいたぶるように自分の犯行を示唆して詰め寄るときに、まさかと最後の望みを持っていた少女が、ラスコーリニコフの言葉とその眼をみつめて、とうとう一縷の望みも絶たれて、ただ「あぁ!」と悲鳴にも似たため息をつくように叫んで、広げた片手を彼の方へ拒むように突き出すシーン。あんな素晴らしいシーンはまたとないほどですが、ソクーロフのこの場面も、まったくその光景をほとんど忠実に再現して、この作品の中でも最もテンションの高いすばらしい場面を創り出しています。
「誰が殺したかを言うために来た」
「なぜ知っているの?」
「あててごらん」
というように青年はからかうように迫り、少女の神を信じる無垢な心をいたぶるように迫ります。
ただ私の印象というか記憶の限りでは、少女は小説(こちらの記憶ももうあやしいけど)のように、「あぁ!」と行って片手をいやいやするように突き出すという動作はしていなかったように思いましたが・・・でもあとはほとんど、私の記憶する小説のあのシーンのとおりでした。
少し気になったところがあるとすれば、若者が少し「悪魔」に近い役割を意識しすぎたんじゃないか、という点です。彼は少女に自分が犯人であることをとおめかしにほのめかして、貧しく薄汚い少女であっても天使のように無垢なこの少女に詰め寄り、彼女の信頼を完膚なきまで踏みつけ、くつがえして絶望に陥れるわけですが、まさに精神的にいたぶる、と言う言葉がふさわしいように、遠回しに、猫が鼠をもてあそんでから殺すようなやり方でもてあそぶ。その表情には悪魔のような笑みが浮かんでいます。
そして、事実、彼は少女に神様なんていないんだ、と言う意味のことを彼女に告げるわけですが、このシーンでの彼はその悪魔的な笑みをする、その演技を私は少し過剰ではないか、と思って見ていました。あの薄笑いはまさにサタンが落としたい者をうまく誘惑して堕落させ、してやったり、という薄笑い、自分の罠に相手がはまったことを勝ち誇る薄笑いのようです。
でも、彼はここでは悪魔になってはいけないんじゃないか、あくまでも少女の言葉どおり大地に跪いて神に赦しを乞う青年でもある、そのようになりうる両義的な精神を備えた青年で、この少女の純粋無垢な天使のような心に惹かれてもいるのだから、と思ったのです。
それでもすばらしいシーンでしたが、考えてみると、このシーンだけは映画的というより、これは舞台の芝居ではないだろうか、という気がしました。演劇の舞台を見ているようだったのです。事実二人の役者さんは、舞台でするような仕草や表情の演技をしていたのではなかったかと思います。
それはこの映画の中で突出していて、そこだけ特異なシーンをつくっているように思いました。だから、わざとそんなふうに、そこは舞台のお芝居的な演技にしたのかというふうにも思ってみましたが、それはやっぱり映画作品としては不調和になってしまうでしょうから、ないでしょうね。
あのシーンがあまりテンションが高く強烈なので、ほかの延々とつづく暗い建物の間を青年が黒マント姿でさ迷い歩くようなシーンはすべて、この特異なシーンを盛り上げるためのバックであり、青年の暗鬱な気分の海を表現したようなものじゃないだろうか、なんて思ったりしました。売春婦らしい女が言い寄ってきたりとか、「罪と罰」の中のシーンがほかにも再現されたりしていたと思いますが、それらが強い関連を持ってあの特異なハイライトに結び付いていくような印象は受けませんでした。あくまでも青年の暗い内面の投影としての世界のように見えました。
ただ、ほかにちょっと印象に残ったシーンは、はじめのほうにあった、人々が高い位置からどうやら奈落の底みたいなところへ、次々に投身していくシーンです。これは何だ?とよく分からないままでしたが、これもまた青年の内面風景の一コマだと考えれば、当然彼は自殺を考えるでしょうから、そういう人々の姿を幻想として見ることは考えられるわけで、あんなふうに滑り台の順番を待つ子供たちのように次々に嬉々として投身していくことができれば、それはそれでこの暗鬱さを断ち切るためにはいいかもな、と青年が考えても不思議はないような気がしたからです。もちろん映画の作り手の意図からすれば、全然見当違いかもしれませんが(笑)
高いところから見下ろされたような都市の暗い風景も、なにか書き割りのように薄っぺらい非現実的な、存在感の薄い風景で、あれもみんな青年の心象風景だと考えるほうが私には直観的には理解しやすいような気がしました。
静かなる一頁というのは邦訳だけれど、英語のタイトルは、Whispering Pages で、複数になっていますから違うかもしれないけれど、この作品は「罪と罰」を最もテンションの高いあのシーンに集約して見せた作品なんじゃないか、監督もあの一巻の中であのシーンを描いた数ページに特別なものを感じて、そこへ全部集約して自分なりの「罪と罰」を描いたんじゃないか。だからあのシーンだけが特別で、あとの青年が徘徊する都市の風景とか青年が「見る」光景は、みんな老婆を殺してきたばかりの彼の心象風景が投影された映像に過ぎないんじゃないか、と、そんな気がしたのでした。
探していたら、ソクーロフのこの映画のパンフレットみたいなものが出て来て、彼がインタビューに答える中で、ビデオってのは映画とは全然違うものだ。映画の作り手は、上映される映像のサイズを頭に入れて、そのサイズの映像を目指して作品を作っているのだから、映画館でそのサイズで観ないと、映画を観たことにはならないんだ、というようなことを述べています。
だから、私はまだソクーロフの映画を観たことにはならない(笑)。
まあ、クリエイターというのは、時々こういう自分の思い込み(ある種の創作上の信念みたいなもの)を普遍的なものだと頑固に信じて、その思い入れを誰もが受け容れるべき真実だと考えて言葉にしがちなものですから、たいていは話半分に聴いておけばいいと私は思っています。だいたい創り手のそういうご託宣を真に受けていたら、クラシック音楽をCDで聴くなんて音楽を聴いたことにはならん、ということになるでしょうし、日本語訳でドスト氏を読んだって読んだことにならんよ、となるでしょう。私たちは、そんな作家たちの思い込みを無視して、どんどん勝手なやり方で読んだり見たり、楽しめばいいと思います。・・・でもいつかちゃんと彼の言うサイズでも見てみたいね(笑)。
Blog 2018-9-5