東京公園(青山真治監督) 2011
これは後味のいい映画でした。まず殺しも裸も出てこない(笑)。血もなくセックスもない、暴力もない。犯罪もない。いまどきの映画が安易に使いたがるそういう小道具が一切ないだけでも、すがすがしい感じです。
だからといって退屈な作品ではありません。乳母車を押して次々に公園へ行く女をただ撮影して写真を送ってくれ、という不思議な依頼を受けた青年が、これは浮気調査か何かなんだろうかといぶかりながらも、依頼された仕事を続けていく、それがどうなっていくのか、それだけでも興味津々、公園という真昼間の明るい外気のもとで、そんな新手のよく考えられたサスペンスで引っ張っていく手腕は大したものです。もちろん、ネタバレ承知で言えば、これは推理劇でもなく探偵の必要な犯罪ドラマでもないので、青年が見出すのは浮気妻ではありません。彼女はごくふつうの奥さんでありました。
むしろ青年が依頼主の男とともに見出すのは、そういう仕事を依頼した男(被写体の女の夫)が、自分の妻と一度も「きちんと向き合う」ことをしてこなかった、という事実なのです。
物語をひっぱっていくこの糸と、もう一つ、いやあと二つ、物語をつくっていく糸があります。ひとつは主役の青年コウジとその姉~血のつながらない姉~ミサキとの関係、そしてもうひとつがいまコウジが付き合っている女性富永と、幽霊になってコウジと同居している富永の「元カレ」ヒロとコウジとの三角関係(?)。
幽霊がさりげなく登場してくるなんて思いもよりませんでしたが、近頃の映画ではよくあるので、驚きはしませんでした。この作品でもほんとうに自然で、全然違和感がありません。
どうしても幽霊を認めたくない人は(笑)、亡くなった人への思い入れが強くていつまでもその人のことが忘れられず、現実のいま生きることの中で常に意識せざるを得ない状況を形象化したもの、とでも理屈で考えればすなおに受け止められるんじゃないかと思います。
見かけ上、この幽霊の元カレであるヒロにメロメロでいまも立ち直るのが難しそうなのは富永という元カノで、なぜその元カレが自分のところではなくてコウジのところへ登場したのか分からない、と嘆いていたけれど、本当はそれだけその元カレ・ヒロとコウジとは心を許し合う親友だったのだろうと思いますし、コウジは富永のように嘆いたり愚痴ったりしないけれど、親友ヒロを失ったときに、その現実を受け入れることが富永以上に難しかったから、親友は幽霊になって彼の家に同居することになったのでしょう。
富永には見えず、語り合うこともできない元カレが、コウジには見え、語り合うこともできるわけです。コウジはしばしば彼を頼ってくる富永と二人で食事したり、彼女のように温かく迎え、相談にのり、親しい女友達としてたんたんとつきあっているけれど、深層心理的には富永を愛しているんじゃないでしょうか。富永もまた。それを姉に、「富永はどうなの?」という形で問われると、コウジは、「富永とヒロの間にははいれないね、永久に」と言うのですね。
さてもう一本の糸。それはこのコウジと「血のつながらない」姉ミサキの関係です。コウジがまだ少年で、友達とサッカーに興じているとき始めて出会い「あぁこの子が弟になるのか・・」とミサキは思ったという出会いから島で夫が寄り添いながら療養生活を送る母親に「あんたが弟想いの姉さんになってくれてありがたいと思っている」と言われるミサキが、自分にそう言い聞かせ、そういう関係であろうと心に決めていたのではあったけれど、実は女性としてコウジを愛していた、という、これも観客は富永が真っ先に気づいて、何も気づいていなかったコウジに語るという意外な経路で知ることになって、ものすごく新鮮な驚きを感じることになります。その弟コウジが三浦春馬というイケメンで、姉が小西真奈美ですから、わっ、わっ、すごいな、どうなるんやろ!とここでまたぐっと画面に引き寄せられます。ミサキもあの妻撮影依頼男のように、「きちんと愛する人(コウジ)と向き合う」のですね。
まぁそれは見てのお愉しみ。この監督はこういう関係を決してドロドロした日本的な泥臭い血縁の愛情のもつれやら、すぐに肉体の絡みになってしまうみたいなところへもっていきません。小西真奈美いやミサキの身の処し方もお見事。幽霊のヒロが消えるシーンもとても良かった。ようやく幽霊抜きで二人は「きちんと向き合う」ことになるでしょう。
なんというすがすがしい映画でしょう。非常に後味が良かった。
Blog 2018-11-16