小田香監督「セノーテ」
出町座、朝9時45分、劇場のお兄さんが、前に立って今から上映します、と言ったとき、観客席は一番後ろの隅に座っていた私だけだったので、いや悪いなぁ、俺一人の為に上演なんて…と思っていたら、場内が暗くなる寸前に若いのが2人入ってきて席についたので、なんとなくほっとしました。でもこれなら万一感染者がいてもコロナはもらわずに済みそうです(笑)
小田香さんはこのブログでも書いたことがある「サタンタンゴ」や「ニーチェの馬」、「倫敦から来た男」の映画監督タル・ベーラの映画学校で指導を受け、卒業制作として、ボスニア・ヘルツェゴビナの炭鉱の奥深くに入って坑夫たちの働く姿を撮った「鉱 ARAGANE」(2015)という作品を、やはり出町座で見たことがある監督です。
ドキュメンタリー映画というのはほとんど見たことがなかったし、前作も、若い女性監督がなぜそんなところまで行って、何に惹かれて炭鉱を撮ったんだろう、という素朴は疑問もあり、その少し前にタル・ベーラの作品も見ていたので、彼が激賞した日本の若い映像作家という触れ込みでもあったので見に行きました。
そのときは、必ずしも見たからといって腑に落ちて帰ってきたわけじゃなかったのですが、ドキュメンタリーと言いながら何か時々テレビなどでみるようなドキュメンタリーとは違って、まあ光も届かない炭鉱の底のことですから、頭につけたヘッドライトが照らさないところは真っ暗で、見えません。そこへぬっと坑夫の顔が光の中に現われたりしたかと思うと、カメラが闇を映していて何も見えなかった?、そういうところに作り手の視線が生々しく感じられるようなところがありました。
撮影された対象なりそれをとらえた映像が美しいとか迫力があるとか、そういうことではなくて(それはごく淡々とした坑夫たちの仕事ぶりであり、日常生活にすぎない)、それを撮っている視線の対象への向きあい方なり動き方なりというのに、ちょっとプロのカメラマンとは違う素人ならではの(実際には素人じゃないわけですが)興味の持ち方や戸惑いとも見える振る舞い方や、ド素人の私のようなのが見ればミスに見える映像(真っ暗で何も撮れてないや、とか、ピンボケじゃないか、とか、何を撮ったのか分からないじゃん、というようなことだけど)が逆に面白いな、というような印象がありました。
それで今回は私自身にも炭鉱よりは面白そうな対象だと思えた、メキシコはユカタン半島にある隕石がぶつかったところに石灰岩が堆積して地下水に浸蝕されて、鍾乳洞みたいに融けた石灰質の石筍、石柱、石のつららができたりしている大小の洞窟湖が舞台だったので、より興味が持てそうでした。
マヤ文明の時代には唯一の水源で、羽根の生えた大蛇みたいな主が水底に棲むと信じられたりして、雨乞いの儀式に生贄が投げ込まれたりもしたらしいところだというので、これはちょっと見たいな、と思って朝から出町座へ自転車を走らせた次第。
今回の作品の方が前作と比較すれば、自然の要素も、人の要素も変化に富んだ多彩な表情を見せ、さらに人々の洞窟湖をめぐる語りやマヤの創生記の朗誦によって遠い過去へ遡り、神話的な時間まで呼び寄せるといった具合で、ずっと映像の時空が広がって華麗な映像の織物をみるようです。
ドキュメンタリー的手法による映像とはいえ、そこに描かれた洞窟湖の湖水やそこで泳ぐ魚、奇怪な形をした洞窟の岩塊や浸蝕をうけた石灰岩の石筍や石柱といった物たちは、距離を置いて撮られたカメラの前の堅固な客体という印象を与えず、それらの属する世界の内側から世界に寄り添い、じかに触れて感じ取ろうとする触覚のような視線によってとらえられています。
そう感じたのは水中撮影が多いせいなのかもしれませんが、対象を外からではなく、その内側からとらえた映像だという印象が、見ていてずっとありました。
そう言えば炭鉱の映像も、あれは地の底まで降りて行って、まさに世界の内側(地球の内側)から撮った映像でしたね(笑)。
今回も洞窟湖と共に生きてきたマヤ族の子孫たちを含む地域の人々は、洞窟湖が神々に属するあの世へ通じる世界だと考えているようです。マヤの創世神話にもこのような水の世界が語られているそうですから、洞窟湖というのは世界を産んだ母神の子宮のようなもので、そこに湛えられた湖水は生まれたばかりの世界が浮かぶ羊水なのかもしれません。
小田香さんはもともと泳ぎができなかったのに、スキューバダイビングを習って水中撮影に臨んだのだそうで、この世界を宿した母神の子宮のような、世界の始原である洞窟湖の底へ降りていき、生れ出る世界をその内側からとらえようとしたのでしょう。
その触覚的な視線がとらえる世界はまるでCGアートの世界のように様々な形象が輪郭をなくして融け出し、溢れるような色彩となって流れ、また集まって塊になり、ぶつかり、光の粒となって散乱し、降り注ぎ、浮遊し、あるいは暗闇の中をさまよい、突然青空が見え、奇怪な獣のような黒い岩塊の表面を撫でていく手触りを感じる、といった具合で、見る者の視覚というより直接触覚を刺激するような映像で、絵画でいえば客観的な自然や事物を描きながら、一見極端なデフォルメを施したかにみえる、その歪みの度合いに作り手固有の世界との関わり方が垣間見えるようです。
もちろん映像は意図的なデフォルメなどではなく、ましてやCGなんかではなく、目の前の<自然>をいわば<そのまま>撮った映像なのですが、まるでそうではないようにみえる形象と色彩、光と闇の映像から溢れ出す過剰さ、衝撃的な強度にこそ、作り手固有の対象との関わり方があり、独特の視線のありようが示されているのだと思います。
カメラがとらえる地域の人々の表情は、洞窟湖などとは対照的に、むしろ平板でスタティックな印象を与えます。そこではしかし、彼らが洞窟湖を語る言葉や朗誦される神話の言葉、あるいは静止画のように撮られた一人一人の表情が語る無言の<ことば>に、やはりはるか世界の始原まで遡る時間が表現されているのではないかという気がします。それをあえて空間的には平面的に撮ることで、洞窟湖と著し対照をなしてこの作品全体にメリハリを与え、転換のリズムを作り出しているように思えます。
マヤ族の子孫でもあろう地域の人たち一人一人がただカメラの方を向いているだけの表情を、動かないカメラを長回ししてスチール写真のように撮る映像は、私にタル・ベーラ監督の「倫敦から来た男」のラストの何でもない登場人物の一人である女性の表情を異様に長時間アップでとらえた映像を連想させました。
それらの人の顔というのは、目尻の皺ひとつとっても、彼や彼女が固有の場所で少なくとも数十年生きてきた歳月を孕んでいるのでしょう。いや、それにとどまらず、私たちがよく孫を連れた老人の顔など見ると、思わずもう一度老人に手を引かれた孫の顔をまざまざと見て、思わず笑ってしまうほど、まごうかたなき孫であるなぁ、と得心する日常的な経験にみるように、DNAの継承という科学の知識などなどなくても、人の顔には数百年、数千年の歳月が堆積していることが直観できるようです。
あの一人一人の地域住民の表情は、彼らが語る洞窟湖の物語や、彼らが朗誦するマヤ神話の言葉とともに、彼らの世界が経てきた悠久の時を唱和するもののようにも思われます。
blog 2020年12月18日