共喰い(青山真治監督)2013
これはレンタルビデオ屋のDVDを借りてきて観たのですが、今回観た中では一番いい、心に残る作品でした。
原作を読んでいなかったので、映画をみたときは、これって中上健次の世界じゃないか、と思いました。「枯木灘」や「地の果て 至上の時」・・・主人公である高校生遠馬(菅田将暉)は秋幸よりも幼く、ずいぶんやわだし、おやじ・円(まどか=光石研)も秋幸のおやじほど迫力はなく、軽くてむしろお人よしにさえ見えるけれども、遠馬がおやじも買っている女を買って帰ったあと、怒りもせず、どんどんやったらええ、とけしかけ、「わしとお前でどんどこどんどこやっちゃったら、親子二人分の子ども、産むかもしれんぞ」なんて言うのですが、あの場面など、秋幸が兄妹相姦みたいなこと(だったと思う、もう何十年も前に一度読んだきりなので忘れてしまったけれど)を告白して、おそらくはそのことで倒すか倒されるか、いわば父親殺しをしなければ自分が生きられない息子の立場から、親父を倒すか自分が倒される(罰せられる)か、いずれかを望むように語ったときに、父親は、衝撃を受けもせず、怒りもせず、構わん構わんと言うように平然と受け容れ、秋幸を許容してしまう印象的な場面がありました。
たしか四方田犬彦があの作品を論じて、その場面をとりあげ、「脱構築」みたいなことを言って、なんだか中上の小説が当時流行?のデリダ理論のおあつらえむきのサンプルみたいに論じられるのを見て、そんな理論に還元されるようなものなら中上が小説書く意味ないよな、と感じたのを記憶していますが、この映画のあの場面も、中上の小説のあの場面を連想させました。まぁ荒ぶる父と息子の関係では、多かれ少なかれこういうことになるのではあるでしょうけれど・・・
また、そんな父親に強いアンビバレントな感情をもっている遠馬の姿を見ていると、「千年の愉楽」の路地の青年である主人公を連想します。さらに、彼の母親「仁子さん」(田中裕子)を見ていると、中上の小説中の路地の世界の主のような「オリュウノオバ」だったか、ああいう母系社会の根源に居座っているグレートマザー(太母)みたいな存在を連想します。
そして、全般に主人公やその父親のような男性陣よりも、仁子さんにせよ、仁子さんが別居したあと家に入って円や遠馬と暮らす「琴子さん」(篠原友)、さらには遠馬の恋人である千種(木下美咲)でさえも、これら女性陣のほうが実は強く、したたかに、しっかりと生きているという存在感を与えるのですが、そういう女性の姿は、中上が母を描いた「鳳仙花」を連想させます。
あまりにも中上健次の世界の雰囲気に似ているものだから、思わず原作を再確認しましたが、もちろんこの映画の原作になったのは、中上ではなく、田中慎弥の「共喰い」でした。私はほかの2,3の田中の作品を読んでこのブログに感想を書いたことがあって、「共喰い」も読んだとばかり錯覚していたのですが、実は読んでいなかったようだったので、映画をみたあとで文庫で出ていたのを読みました。
最後の方の重要な部分で映画は原作とは違うところがありますが、それまでの、つまり同じところは、こまごましたエピソードもそこでの登場人物たちのセリフも、この映画は細部まで原作に忠実で、ほとんどそのままです。遠馬が覗き見る父親と琴子さんとのセックスの場面のあと、立ち上がった円のペニスがまだ突っ立っているのまで生真面目に再現しているのには、おぉーっ!と感心?してしまいました(笑)。
原作にない部分で私が気付いた最も重要な点は二つ。一つはもちろん、円を見捨てて出て行った琴子さんを遠馬が見つけ出して訪ねていくシーンで、琴子さんは、遠馬に私とやりたかったんでしょ、と遠馬を抱くという場面ですが、遠馬が彼女を抱くことを躊躇するので、どうしたんね?と琴子さんが訊くと、遠馬は、琴子さんのおなかの中にいる赤ん坊のことで、おなかんなかにおる自分の弟か妹をつっつくと思うて・・・と言うのです。これを聴いた琴子さん、いかにも可笑しそうに笑って、「そんなこと心配せんでもええがね。おなかん中の子はあの人の子じゃないけぇ」(笑)。
これには遠馬だけではなく、私も一本やられたぁ!という感じでしたね。逞しい女性!円という男はセックスの際に女性に暴力をふるわないと快感が得られないDV男で、仁子さんから、腹の中に赤ん坊がおる間だけは殴らない、と聴いていた琴子さんは、防衛のために赤ん坊を宿していたというのでした。女は強し・・・^^;
もう一つ私が気づいた違いは、この話が現在進行形で(遠馬を語り手として)語られるメインの部分は昭和63年後半から64年つまり平成に切り替わった年のできごとなのです。小説では冒頭にその年月が明記されていますが、映画の中でもラジオの放送などでそのことがはっきりとわかります。そして、たしか原作にはなかったけれど、映画では仁子さんのセリフの中に、「あの人、血ぃ吐いたてね」という場面があります。
ちょっと唐突だったからか、遠馬が、え?というようにいぶかると、「新聞に毎日載っとろうが」というように答えて、それと名指すことなく、あぁ・・・とすぐその場で何が言われているのかが分かるような場面になっています。
「あの人」をめぐる会話は、ラスト近くで、円に義手でとどめをさして殺し、刑務所に入っている仁子さんを遠馬が面会に行った面会室で交わされます。仁子さんは続いて「判決まで生きとってほしいと思うとるんじゃが」というようなことを言います。
なして?と訊く遠馬に、仁子さんは、「あの人」が亡くなったら恩赦で減刑があるかもしれんというようなことを言い、続けて「あの人が始めた戦争でこうなったんじゃけぇ、それくらいはしてもろうてもええじゃろう・・・」と言います。戦災で右手を焼かれて切断し、手首から先がなくなったことを言っているわけです。「あの人より先には死にとうない、と思うてきたんよ。あの人より先には逝かんぞ、と思うてきた・・・」と繰り返しつぶやくのです。
私は昔、吉本さんの本を愛読していたころ、彼の誰かとの対談記録の中だったかと思いますが、「あの人より先には死にたくない、ってのはあるでしょ」みたいなことを言っていたのを記憶しています。それを読んだときは、あぁ、そういうものなのかな、と思ったのですが、正直のところ純戦後生まれ(といっても敗戦日から幾日かしか隔たっていないのですが・・・笑)の自分としては、実感的にはよく分からなかった。
でも、戦争で身内を失ったり、自分が傷ついたりして戦後を生き延びて来たごくふつうの人たち、ひとたび戦争となれば何の特権もなく一兵卒として駆り出され、あるいは銃後を守れとすべてをお国のために差し出し、犠牲にし、何もかも奪われ、心身ともに深く傷を負いながら命ながらえた、圧倒的多数の私たちの親や祖父母の世代の心情の中にはそういうものがあったのかもしれないな、と思います。
以上の二つが私にも見つけられた原作になくてこの映画にだけある重要な部分です。二つとも、付け加えられて決して蛇足にならず、むしろいっそう原作の世界を深め、強めた変更だと思います。
父と息子の血のつながりをベースにした葛藤とその二人に関わる女たちとのできごとを思春期の男子高校生の側から彼を語り手に描いているので、原作もその兆候はあったけれど、さらに一層、性的なものがエピソードの隅々まで溢れています。小説でも映画でも冒頭に彼らの住む地域(その名も「川辺」)を流れる川、円に言わせれば女の「割れ目」のような川が置かれ、ラストにもその川が水を湛え、高速度でとらえられる映像は大きな幅での時の流れを感じさせ、いまにもその「割れ目」からあふれ出そうな、水面の震える川の表情がとらえられています。それは円の言う通り、そこにすべてが宿り、そこからすべてが生まれ流れ出してくる性の根源のようにみえます。これはまさに性を描いた作品です。
近視眼的にみれば目に見える男女の交合やそれに近い男女のくっついたり、離れたりという意味での狭い「性」だし、それは四六時中やりたいやりたいと「そのことばかり考えちょる」と自分でも口にするほど自分の肉体の欲望を持て余し気味の遠馬の目線でこの作品が男女の直接の肉体的な交わりやそうした性的渇望の色合いに埋め尽くされているようにさえ感じられます。
しかし、この作品はそういう目に見える性だけではなく、父と子、母と子の時間軸上の性を正面から描いていて、一対の夫婦の性がどう次世代に引き継がれていくか、いかないか、そこにどういう葛藤があり、どういう親和があり、どんな不協和音を奏でるか、そこのところが丹念に描かれる大きな器になっています。
仁子さんを演じた田中裕子の演技が光る作品でした。
Blog 2018-12-10