早春(イエジー・スコリモフスキ)
昨夜は出町座のポーランド映画祭の一環で上映されていた、イエジー・スコリモフスキの代表作とも言われる「早春」(Deep End)を見てきました。
ポーランド映画といえば学生時代に見た「灰とダイヤモンド」(アンジェイ・ワイダ監督)くらいしか知らず、かろうじて比較的新しい映画、といっても2002年の「戦場のピアニスト」(ロマン・ポランスキー監督)くらいしかたぶん見ていないんじゃないかと思いますから、もう一人のポーランド映画を代表するといわれるスコリモフスキ監督についてはまるで知りませんでした。
今回出町座でポーランド映画祭として多くの作品が上映されていたのは知っていたけれど、自分になじみがないものだから、文博でやる古い邦画も含めて、暇があればほかのほうへ時間を割いていたので、同映画祭の企画作品では唯一、この「早春」を見ただけに終わりました。
どうもこの監督には日本にも熱烈なファンがいるのに、めったに上映されず、DVDにもなっていなかったらしくて、幻の、とか、20年待ってようやく、とかネットをちょっと見ると、そんな言葉で彼の作品を形容する投稿を目にして、そういう監督なんだな、と認識をあらたにしました。出町座に置いてあったパンフレットか彼を論じた本の帯だったか、ちらっと目にした中に、ゴダールが、「スコリモフスキの映画を観たことのないやつとは喋りたくない」というような言葉があって、おやおやそりゃイチゲンさん的な映画観客としても、一本くらいは見ておかないといけないかな、みたいな感じで見に行きました。
なにも予備知識を持たずに行ったので、ポーランド映画でポーランド語の映画だとばかり思いこんでいたので、登場人物たちがみな英語でしゃべり出したので、おやおや、と戸惑いましたが、私はアメリカ英語がさっぱり耳に入ってこないのに、おかしなもので、1年ちょっといたイギリスの話し言葉のほうは、分かろうが分かるまいが、ものすごく心地よく耳に入ってくるので、この映画も何が嬉しいと言ってその心地よい響きが一番嬉しかった(笑)。これはポーランド映画ではなくイギリス、ドイツの合作だそうで、監督が亡命してロンドンにいるときの作品らしいです。
舞台もロンドンで、主役の15歳の少年マイク(モルダー・ブラウン)も、彼の職場の先輩にあたる女性スーザン(ジェーン・アッシャー)も私のあまりよくない耳にも心地よい綺麗な英語でしゃべってくれていました。かなり蓮っ葉な下層階級に属するような女性だけど、私がこれまたさっぱりわからなかったコックニー(ロンドンなまり)ではなくて、実に教科書的な綺麗な英語だったように思います。決して英語が得意でもなく、もうとっくに完全にさびついている私にも、かなりわかる程度ですから(笑)。
映画そのものの印象は、なんかある種の「古さ」を感じさせるような気がしました。現代の先鋭的な素晴らしい映画だとみなしている熱烈なファンが聞けば怒るか、こちらの感性を馬鹿にするだろうような印象で申し訳ないけれど、実感的には正直な印象がそれでした。
でも古いというのは必ずしも古臭くてよくない、価値が低い、という意味あいではありません。なにも新しいこと自体が価値ではないので、新しさを気取ったような作品ほど一時は人目を引いても、消えていくのも早いものだと思います。古さという言い方が悪ければ、どこか古風とか、古典的な、と言ってもいいのですが、そういう印象をもちました。
映画を分析的に語る言葉を持っていないので、自分でそれがなぜなのかをうまく言葉にできないのですが、どういうところにそれを感じたかを振り返ってみると、例えばこの作品には笑えるところがいっぱいあります。マイクは15歳で本来はまだハイスクールに通っていなければならないはずですが、学校を中途で放り出して、この映画の舞台になっている公衆浴場に雇用されて、慣れない接客や清掃係として、先輩従業員の年上の女性スーザンの指導を受けながら、いろいろびっくりするような客とつきあっていきます。
まだ新米で仕事も客のあしらいも分からず戸惑うばかりのイケメンのマイクをつかまえては、いやがる彼の頭や首根っこをその剛腕でもって無理やり押さえつけて、自分の半裸になった胸に押し付ける、相当ボリュームのある女性(笑)‥あのシーンなどは声出して笑いたくなるような滑稽さです。
何度か登場してくる警官とのやりとり、マイクが恋心を懐くにいたったスーザンのおっかけをして、スーザンの婚約者の男に逆に追われるときに、うまく警官を使って遁れる場面の可笑しさ、あるいはまた婚約者と一緒に会員制の店に入ってなかなか出てこないスーザンを路上で待っていて、幾度も露店の1シリング9ペンスのホットドッグを頬張るシーン等々・・・こういう笑いの取り方自体が、とても古き良き時代の笑いの取り方のように感じられたのです。
もちろんそれらはみな、婚約者があっても平気でマイクのいた学校の妻帯者である教師と関係を持ったりしている蓮っ葉なスーザンに、主人公であるうぶな少年マイクがいろいろ仕事上の指導をされて居右往左往しているうちに女性として憧れを懐き、仕事に慣れず、客あしらいに不慣れな上に、スーザンへの純真な憧憬と自らの成熟途上の肉体から突き上げてくる性的欲望とがないまぜになった、スーザンへの関心と羞恥心が、ときに大胆な行動へ彼を駆り立てるかと思えば、面と向かえば勇気が持てずにうぶな少年の殻に閉じこもる、ちぐはぐなありようを面白おかしく描いているので、自分で自分がうまく制御できない思春期の少年の年上の女への「恋」を描くこの作品にとって不可欠なシーンではあるのでしょう。
ただ、その描き方には、私たちがかなり古い時代になじんだ、どこかほほえましい、古さを感じさせるところがあって、いまのもう少し若い世代なら、同じテーマで作品を作っても、こういう笑いのとりかたはしないんだろうな、と思いました。
こういう恋する少年の純情さと性的欲望のないまぜになった、自分で制御できない行動のちぐはぐさ、こっけいさを描くなら、本人は大真面目だけれど傍から見ると滑稽で仕方ないような彼の態度や行動を少し距離を置いた客観的な映像でとらえていって、映画の作り手と観客が一緒になってその滑稽さを笑うか、あるいはPOVというのでしょうか、カメラがその少年本人の目線になって憧れの女の姿を追っかけていって、女に拒否されたあしらわれたり、少年自身としては予想もしない事態に遭遇して落ち込んだり逆上したり、ということで始めて事態が客観化されて破綻か大団円かの結末を迎えるか、いずれかだろうと思います。その両方を同時に、というのは映像的矛盾だろうと思うのです。
ところがこの作品は、その両方を求めているように思います。最初に挙げた、とんでもないおばさま方のお客に翻弄される少年マイクやスーザンの前でいろいろどじなことをやらかしたりして笑わせたり、微笑ませたりしてくれるマイクをとらえるカメラは、距離をとって客観的にそんなマイクを描き出す、観客とともにそのマイクの姿をゆとりをもって眺め、ときにそのちぐはぐな行動に滑稽味を感じ、笑い、苦笑し、微笑ましく眺める、作り手の視線を感じます。
ところが、マイクがストーカーのようになってしつこくスーザンを追うようになっていくあたりから、スーザンやその婚約を見るカメラの視線がマイクの視線と重なっていくようにみえます。それはああいうラストにつながらざるを得ない、もはや常軌を逸したストーカーのような心境でスーザンに執着するマイクの視線のありようが行きつくほかない道であって、こういう転換がただマイクの心境の変化に応じてこう変わりました、というのとはちょっと違った、二種類の共存しがたい映像のありようを無理に共存させたような違和感が生じているのではないか、という気がするのですが、どうでしょうか。
もともとはマイクの姿を客観的にとらえて、その純真さとそれがもたらす彼のありようの滑稽さを描いて、観客と共に笑いつつ、思春期の甘酸っぱい、懐かしいような風味を出せればいい作品、というふうにはこの監督は考えていなかったと思うのです。でも前半はあきらかにそんなタッチになっているし、カメラがそんな視線になっています。
しかし、そうではなくて思春期の心の内側に入り込み、その視線でスーザンを追い、スーザンしか見えなくなっていくマイクの視線を通して物語って最後のシーンへ引っ張ってい行くような物語が企図されたからこそ、それ以外のものは実際上マイクの視野にはほとんど入ってこないか、入っていても実際上見ていない、意識していない、価値もないものでしかない、となるのが必然的なことであったはずです。
そうでなければ、マイクが共同浴場で働く場へなんと両親がやってくるのですが(これもなぜ両親がそこへ登場しなくてはならないのか、よくわからない)、その両親に対してマイクはまるでマザコン少年みたいに素直で、ぼくのパパとママが来たんだよ!とはしゃいでスーザンに報告に行き、特別歓待してくれることを期待したりするのです。
たぶん中学くらいの学校を15歳で放り出して、こんないかがわしい共同浴場などに雇われて、掃除をしたり、接客をしてマダムたちにからかわれたりしているような少年が、こんなにいいうちのお坊ちゃんのように素直に両親に接し、両親のほうも小言ひとつ言うわけでもなく、浴場を利用して、できのよい息子を讃えるような満面におだやかな笑みを浮かべて帰っていく、なんてことがあり得ましょうや?(笑)いったいどんな家庭なんや?
結局、この作品ではそういうことはどうでもよくて、ただただマイクとスーザンの関係、マイクのスーザンに対する想いとその行方、それにかかわってくる限りでの人物とその行動が意味をもつだけだ、ということなのでしょう。それなら、カメラは中途半端に距離をとってマイクの姿を滑稽なものとして突き放してとらえるべきではなく、マイクの目線に一体化して周囲の世界をとらえて進行すべきではなかったでしょうか。
また、そういうところだけではなくて、なにか物語の進行のテンポが速くないというのか、たしかに主人公マイクの行動は結構飛んだり跳ねたり、自転車で車をおっかけたり、職場の共同浴場の廊下を走ったり跳んだり、ある種の疾走感を感じさせるシーンは少なくないし、行動的変化は多いので、そういう演出や演技の問題ではないのかもしれません。むしろ物語の構成自体の古風さに、スピード感を感じさせない原因があるのかもしれません。
考えてみれば、こうしてああしてどうなっていく、という物語の展開そのものは、よくある思春期の若者の年上の女への精神的な憧憬と肉体的な欲望のありようがちぐはぐで自分で制御できないままぶつかっていく、ありふれたパターンで、なにもそこに新しいものはないように思えます。たしかに共同浴場だとかそこにあるプールだとか、背景は一味変わったものだけれど、そこで起きるできごとやマイクとスーザンの関係、あるいはそれに絡むスーザンの周囲の男も含めた人間関係の展開は、ごくありふれたもので、結末は鬼面人をおどろかせるところはあるけれど、それは映像的な新鮮さであって、ストーリーとしては想定範囲内のパターンにおさまっています。
だいたいこういう思春期な純情な少年から青年になりかけの若者が、年上のこういう蓮っ葉な女に片思いして自分のその思いと性的欲求とのちぐはぐなアマルガムを持て余してぶつかっていくときどうなるかと言えば、相手の女性がましな女性でうまく対応してくれれば、若者のほうが自身の姿を自覚して辛うじて距離を保ったまま別れて、その本来の身丈に合う別の相手のほうへいくか、双方が自分を誤解して、つまり大人である女性のほうも何らかの背景があって、未熟な若者の純情にほだされて関係を深めていって、結局はその誤解に気づいてすったもんだして別れがくるか、それがいつまでも自覚できない若者のほうが別れを受け入れられずに刺すなりなんなり常軌を逸した行動に走るか、さらには女性のほうが分かっていて若者をからかったりするけれども、ハナから対等な性的パートナーとみなしてはおらず、若者のほうはあるとき突然フラレて茫然自失の態になるか、あるいは逆上するか・・・
まぁそんなふうに幾つかのおきまりのパターンをのいずかをとるものだろうと想像できますし、この作品もその範囲を少しも出るものではありません。そこに物語として古さの印象を与えるところがあるのかもしれません。
ただ、この作品には映像的にはとても印象的なところがあり、そこは良かれ悪しかれ、「新しさ」を強く印象付けるところになっているように思います。
そもそも映画の最初のシーンから、どろりと鮮血のような真っ赤な色をした液体が垂れ落ちるシーンで始まり、まるで犯罪映画で惨劇の現場で被害者の血がしたたり落ちるシーンから始まるかのようです。そして、この「赤」色は、いろんな形で(たとえばスーザンが婚約者と乗る赤い車とか、それを追っかけるマイクの赤い自転車とか、施設の汚い壁を塗る赤いペンキとかも含めて)強調され、最後には悲劇の起きるプールの鮮血で一挙に画面に溢れ出すといった具合に使われていますし、それとは対照的な「白」色もまたいろんな形で強調されています。
例えばマイクがスーザンと男性教師の情事にイライラしてそれを邪魔しようと施設の火災報知器を鳴らすシーンで、この公衆浴場の会計兼受付みたいな係をやっている女が消火器を持ち出すのはいいけれど、いったん引っ込んでいた彼女が消火器を持って客たちが集まっている廊下へ出て来て、わざわざ床へ何の必然性もなく(操作がわからなかったから、ということにはしてあるけれど)白い液体を噴射させて、それが床に広がるシーンなんかは、ちょっとあざとい顔面噴射みたいな(苦笑)シーンです。
あるいはまた、スーザンがマイクが頭にきて破ってしまったぬいぐるみのまくらみたいなのを直しているところだったか、なにか衣服のつくろいをしているシーンだったか、椅子に座っているスーザンの背後にまわったマイクが、そばにあった糸玉をほどいては、白い糸をスーザンのちょっと赤味のある金髪にひっかけてくるくる蜘蛛の巣がからむようにかけていくシーンがあります。
スーザンがうるさそうに払おうとするのに、マイクはいやにしつこく白い糸をかけつづけます。スーザンの対応に不満なマイクが腹いせに冗談めかしたいたずらとして、スーザンをわざと苛立たせる、行き過ぎたいたずらをしているというシーンではありますが、これも本筋にとって必然性のあるシーンともいえないようなささいなエピソードですが、いやにしつこくて、明らかにメタフォリックな意味を担わされているようにみえます。
もちろんスーザンの身を包む白い衣服や最後に見せるプールの水中での白い女体自体もまた、そういう白なのかもしれません。しつこいシーンと言えば、ほかに、たとえばスーザンが仲の悪い会計係のおばさんの坐っている前に来てソフトクリームみたいなのを舐めていて、あんたもほしい?なんて声をかけるのですが、クリームを掬い取るスプーンをいやにしつこく舐めてしゃぶっているところなんか、ちょっと露骨な言葉で言うのははばかられますが、きっとこれも性的なメタフォーなんだろうな、と思わずにいられないシーンでした。あのソフトクリームももちろん白いですしね(笑)。
色と言えば、この監督はずいぶんカラーにはこだわりがあるようで、スーザンが来ていた黄色いコートも、ものすごく印象的で、彼女の存在と個性を際立たせるうえで、視覚的に大きな
こういういわばメタフォリックな小物の使い方というのは、ずいぶん古典的ではないでしょうか。最近の映画はもう少しそのへんはスマートにやりそうな気がします。
この監督を神様みたいに持ち上げて崇拝しているようなファンがいるのに、いろいろケチばかりつけてきたようで申し訳ないけれど、私もこの作品の中に、すばらしいシーンをいくつか見出して十分に愉しみました。
その一番素敵なシーンは、スーザンに夢中のマイクが、風俗の店みたいなのにあった、スーザンまたは彼女に瓜二つの商売女の誘惑的なポーズをとった立ち姿の写真を等身大の看板に仕立てたものを盗んできて、それをプールに投げ込んで浮かんでいるのへ、自分もプールへ飛び込んで水中で抱きしめる美しいシーンです。
このシーンで、マイクが看板の上にかぶさって「彼女」を抱きしめ、水中でともに一回横転してカメラが水中の足もとをとらえると、絡み合っている看板の女であるはずの脚が実際の生きたスーザンの脚になっていて、カメラが上半身へ移動していくとほんの一瞬ですが、マイクが、生身のスーザンと思える真っ白な美しい裸身を抱いている姿をとらえます。これはあ?目の錯覚かな?と思うほど瞬間的なシーンなのですが、たしかにやわらかな生きたスーザンの、しかもラストシーンで露わになる、水を抜いたプールの底で見せる彼女の裸身よりもずっと白い美しい裸身なのです。
このシーンで現れる看板のスーザン→生身のスーザンの変化は、どう考えてもマイクのPOVにあたる、マイクの脳裡の幻想が生み出すスーザンの姿に違いないでしょう。それがきわめて自然に感じ取れる実に巧みで美しい場面です。このシーンは(だけはと言っては語弊があるけれど)めったに見たこともないような、すばらしいシーンで、このシーンを見るためにだけこの映画をみても値打ちのあるシーンだと思いました。
あと、冒頭とラストに流れる、キャット・スティーブンスという歌手の歌だという"But I might die tonight"がとても印象に残るいい歌でした。
blog 2018-11-23