チャン・リュル監督「慶州(キョンジュ)~ヒョンとユニ」
久しぶりに出町座で「嵐電」をみて予告編やチラシに接すると、またすぐ映画が見たくなって、きょうはその想いを晴らしに、先日から終日電動ノコで硬くて太い木の枝を切った報いで痛めた腰をものともせず、朝から夕方まで、カフェのフレンチトーストを頬張りながら、3本連続で見てきました ^^;
最初は、チャン・リュル監督の「慶州(キョンジュ)~ヒョンとユニ」です。これは素晴らしかった。
チャン・リュル監督の作品は、「キムチを売る女」(2005)というのを、ビデオで以前に一本だけ見ていて、感想をこのブログで書いたことがあります(2017年8月28日記)。中国の辺境地域で、厳しい差別を受けながら社会の底辺に逞しく生きる朝鮮族の女性を描いた、すぐれた作品で印象に残っていました。
それで今回チラシを見て、ぜひ見たいと思ったのですが、今回の作品ですっかりこの監督のファンになりました。「キムチを売る女」が直球勝負といったところだとすれば、「慶州」はカーブもシュートも交え、一見肩の力を抜き、少し対象から引いた目線で、自然にその目に映るのは現在と過去が二重写しに重なって見える、といった多層性、多元性を内包した、繊細で奥行きを感じさせる、実に豊かな作品に仕上がっています。
2014年の作品らしいので、「キムチを売る女」から10年近くたって作られているわけで、監督は1962年生まれだそうですから52歳の作品ですね。やはりそれだけの人生の歳月を経なければつくれない作品だという気がします。
主役の パク・ヘイルとシン・ミナがほんとうに素晴らしい演技をみせてくれます。
パク・ヘイルが演じるのは若くて優秀な北京大学の教授チェ・ヒョンで、権威ぶったところなど微塵もない、どちらかといえば学生の延長みたいな、柔和な印象でカジュアルなライフスタイルをもついまふうの若い大学の先生です。ただし、既婚者の彼ですが、旅先でかつて関係を持った後輩の女性を呼び出したり、なかなか隅におけない先生ではあります(笑)。
彼は、自殺して亡くなった先輩の葬儀に出て、そのままその先輩といっとき過ごした過去の記憶に引き寄せられるようにして慶州へ赴き、その先輩ともう一人の先輩と3人で訪れた茶屋を訪ねて、3年前からそのオーナーをつとめる美しい女性ユニの接待を受け、彼が確かに見たという壁に貼ってあった春画の行方を尋ねます。
ユニはちょっと不思議な印象の美しい女性ですが、その不思議な印象というのはうまく説明できないけれど、たとえば日本でこういうところにたまたま美しい女性がいて旅先で出会っても、彼女に受けるような印象は受けないと思うのです。それはこの物語りの設定がそう感じさせる雰囲気なのか、それとも日本の女性と韓国の女性との精神文化みたいなものの微妙な違いがまるで異なる雰囲気を醸し出しているのか、私にはよくわからないところがあります。
彼女は訪れる客に、たとえばこの作品に登場する日本の韓流ファンみたいな二人のおばさまに対する接し方にみるように、サービス満点で愛想よく温かく客に接しているけれど、決して受身ではなく、客に媚びたりへつらったり、もてなす側として合わせていくような印象がなくて、最初から自立した一個の人間として客と対等な存在感をもって登場しています。この女優さん自身がそういう存在感を備えている、というべきなのでしょうか。
だから、或る意味でこの二人に何かが起こらないはずがない、という予感をおぼえるけれど、それは必ずしも二人が男女として惹かれ合って、恋愛感情を持つにいたる、というふうな通俗メロドラマ的予感ではないのです。むしろこの女性はそういう女性とは異なる自立した存在感をもっているようなのです。男性のヒョンのほうも、彼女のその不思議な魅力、存在感をまざまざと感じているけれど、それは逆に、男女のことではすみにおけないところのあるこのイケメンの若手教授ヒョンが、すっと通俗的なひとめぼれみたいな感情に滑り込んでいかない要因にもなっているような気がします。
けれども、それが見ていくうちに、私たち観客がふと気づくと、男女以外のなにものでもない親密な距離感に転じていて、その転換の自然さに舌を巻くようなところがあります。その流れのままに或る夜、ヒョンはユニを送って彼女の部屋に上がり込みます。「こうなるような気がしてたわ」とユニは言うのですが、結局二人は抱き合うこともないまま、ヒョンは彼女のもとを去って行きます。
セックスも殺しも暴力もなく、小さなこだわりをめぐるヒョンの不思議な過去と現在が重なる場への旅を淡々と描く、その手つきが非常に抑制のきいて洗練され、繊細で、心をゆさぶられます。慶州の青々とした墳墓の連なる光景が実に美しい幻想的な背景をかたちづくっています。
Blog: 2019/06/29