罪と罰 

白夜のラスコーリニコフ

(アキ・カウリスマキ監督)

罪と罰 白夜のラスコーリニコフ(アキ・カウリスマキ監督)1983


 ソクーロフの罪と罰の翻案みたいな映画を観て、じわじわと、あれはなかなか良かったな、という印象になったので、同じ原作を表題に掲げた作品をたまたま手にとった次第です。カウリスマキ監督の作品はかなり以前にも見たことがあって(靴磨きの話だったかな)、あまりピンとこなかったのですが、タイトルに惹かれて再チャレンジ(笑)。

 でも、この作品はドストエフスキーの原作から(ソクーロフとは違って)物語の骨格は借りているけれど、中身はまるで違いました。どこが「まるで違う」かと言えば、この作品で主人公の若い(でもちょっとわか禿みたいな)男は、たしかに冒頭でいきなりなぜ殺されるかもわからない男をピストルで射殺して、たまたまそこへやってきた家事手伝いか何かの派遣婦の若い娘に、なにをしてる、警察に連絡しないか、などと催促みたいなことを言う、ちょっとあたまのおかしいように見える、理不尽な殺人ではじまる点では原作のシチュエーションに見かけ上似ているけれど、原作のラスコーリニコフと殺される老婆との間にあった金を借りる学生と高利貸しのばばぁというふうな関係(あるいや無関係)ではなく、この映画では殺す若者と殺される男の間にはもう少しはっきりした関係があるわけです。

 ここからはネタバレになるけれど(私は映画の感想を書くのにネタバレは全く気にしません。推理小説じゃあるまいし、映画でもそういう作品はみないので、ネタバレを読んで見る価値がなくなるような映画はほんとに見る価値もないと思っているし、そういう作品はたとえ見ても感想なんか書かないでしょうから)殺された男は3年前に若い男の恋人を車でひき殺してひき逃げしたけれど、証拠不十分か何かで罪を免れたらしい人物なのです。これだと通常の犯罪劇なみに、殺した若者にはそれなりの犯罪者としての動機と論理があるわけで、なぁんだ、という感じです。

 ふつう私たちが犯罪の動機として思いつくような動機がないとき、こいつ殺してやりたい、とか、こんなやつ虫けらじゃないか、とこの男のように感じることがあったとしても、そのことと実際に手を下して殺してしまうこととの間には大きな隔たりがあります。犯罪者はそこを何らかの契機で飛び越えてしまうわけです。でもなぜ飛び越えたか、つながりの糸をたどれば、たいていの場合、私たちが納得するような理由にたどり着くでしょう。それが動機です。必ずしも人間の行動は、その動機と行為が一対一で物理学の法則みたいな因果関係でつながれているわけではないから、本当はずっと複雑で訳の分からないものを私たちはふだん、単純化して乱暴につないでしまうことで安心しているだけかもしれませんが・・・

 いずれにせよ、そういう安定した因果関係みたいな理解に揺らぎが生じると、不安になります。不可解なもの、自分に理解できないものに、私たちは不安を感じ、恐怖を感じ、どうしてもわからないときは狂気の沙汰ということにしてしまいます。でも人間はどう名付けられようと、ある種の予測不可能な行為をやってしまう、ということはあるし、それがそのまま描かれれば不条理劇ということになるのでしょう。原作のラスコーリニコフの殺人は、そうしたのちに不条理劇と言われるようなものの一種のようにみなすこともできるかと思います。

 そのかわりラスコーリニコフは、その飛び越えてはいけない深い淵を飛び越えてしまうことと引き換えに、罪の意識を背負うことになります。そしてその彼のありようが、少女への告白のあの緊迫感に満ちたあの場面を導くことになるので、その一番肝心の点は、ソクーロフはピンポイントで的確に描き出して彼なりのラスコーリニコフを創り出していました。

 でもカウリスマキのラスコーリニコフ君は、どうも反省が足りないようです(笑)。いやしくも、ひと一人を殺した重みが彼には最初から最後まで感じられないし、影も落とさないようです。むしろ原作で自首を勧め、神に祈る少女の代役であるエヴァとの男女の交情のほうへ、そういう心理的なものは疎外してしまうような印象があります。

 そのくせ、最後につかまって「塀の中」へ入った彼は、面会に来て彼の8年後の出所を待つというエヴァに、「虫けらを殺して虫けらになった。俺が殺したかったのは<道理>だ。お前はお前の人生を生きろ」みたいなことを言います。
 
 彼が殺したかったのがどんな「道理」なのか分かりません。汝殺すなかれというキリスト教的な倫理か、世間の常識的な道徳か、自分にも否応なく内面化されている倫理なのか、分からないけれど、とにかくそういったものに抗いさえすればいい、動機も理由も思想も何もいらない、そういうシラケた平板で無倫理的な個人の内面世界が一定のリアリティを感じさせるとすれば、そこに彼が抗うようなあるいは無視したような、この現実世界の様々な秩序、倫理が、既に揺るいで、ちっとも確固たるものではなくなっているということがあるのかもしれません。

 ただ、この主人公の男のシラケ方は、いかにも小さい。同じ「わからない」でも、ソクーロフの世界がドストエフスキーが描いた世界に匹敵する大きさの感覚を留めているのに対して、この作品の世界はいかにも小さく、貧しい。地下室のあなぐらにひとり閉じこもって生きることが考えることであるような生き方をしてきた人間の精神に宿る世界の奥行をまるで持たない、小市民的で精神の形が平板な二次元の乾いた板きれになってしまったような小ささを感じてしまいました。それは比べる相手が悪かったからでしょうか・・・

Blog v2018-10-25