『日蝕』(平野啓一郎)
読んでいるうちに、これは前に読んだ作品だったな、と思い出した。『葬送』で脱帽した作者の文壇デビュー作と思えば、なるほどなぁと若さに関係なく腰の据わった反時代的な作風、骨太な思想性、プロフェッショナルな作品づくりの細部の徹底性、重厚な想像力などを見ることができるけれど、最初に読んだときは、こういう擬古典の文体がぺダンチックで鼻についた。
スコラ学僧だから、こういう日本語になるわけ?時代と場所が中世のラテン世界であっても、神学僧の内面を通して描かれる世界であっても、すなおな現代日本語で書いていいんでないの?と感じた。もともと西洋ものを日本人俳優が赤毛鬘に付け鼻なんぞつけて演じるようなのをいくら名演だの名演出だの言われても好きになれないので、いかにもつくりものめいたこの作品の文体にも違和感をおぼえたのだ。
いま読むと、そういうノイズを取っ払ってみて、「私」が錬金術師ピエェルに強烈な磁力に吸い寄せられるように惹かれ、光輝くアンドロギュロスを目撃する場面から、それが焚刑に処せられるとき天変地異が起こり、「私」がアンドロギュロスと一体になるクライマックスの異様な迫力が、「異端」の抗し難い魅力(魔力)のように感じられる。
作者は文学史に意識的な作家だから、たまたま読んだ新潮文庫版の四方田犬彦の解説のようにこの作品を「通過儀礼の物語」であり、その反復であるとして、部分部分にそれぞれ反復してみせた当のものを充ててみせるという、これもまたまことにぺダンチックな、文学史的知識をひけらかしながらの解釈が、ふ?ん、そんなものかね、といちおうは納得できるようにみえるけれど、ルビの使用に意味の撹乱を図るエクリチュールの戦略をみる、とまで言われると、なんだかこの作品のスケールと密度に釣り合いのとれない深読みに思えてくる。
blog 2007年11月01日