大丈夫であるように -Cocco 終らない旅― 是枝裕和監督 2008年
これはフィクショナルな映画ではなくて、歌手Coccoに密着したドキュメンタリー映像記録です。
私はこの歌手をまったく知らず、この映画で初めて知りました。沖縄出身の、突き放した言い方をすればかなりエキセントリックな、若い女性歌手で、その感情的な起伏の激しさも、しばしば見せる涙も、世慣れた大人の引く境界線を時に乱暴に、時に軽々と踏み越える自由さも、自傷にいたるまで深く鋭く傷ついた心の生傷を観客の前でむき出しにしてみせる痛々しい姿も、すべてはこの歌手が幼い子供のように無垢な傷つきやすい繊細な心をもった人で、それゆえ自分の目に見え、耳に聞こえ、膚に触れる世界にいつも生まれて初めて出会うもののように新鮮な驚きと喜びを覚え、同時にまた、人々との、世界との出会いに言い知れぬ不安をも覚え、怯えもし、ときに深く傷つき、抗おうとする心をズタズタに割かれ、無力感と自己嫌悪の情に打ちのめされるのだと、それら一切を歌に、また自分を励ましながら歌う姿にあるがままに見せながら、ほとんどもう彼女のような人の行く場所が失われてしまったようなこの世界を、それでもここを開けて、私を解き放って、というパンドラの箱で最後に残されたもののかすかな声に耳をすまし、その声のありかを訪ねて行方さだめぬ旅をつづけて彷徨い、歌いつづける、そんな一人の歌い手の像が、この映像に鮮やかにとらえられています。
Coccoという歌手は、島尾ミホやいまNHK大河ドラマでやっている西郷どんの愛加那に通じるところがあるような気がします。巫女、シャーマンです。シャーマンというのは、元来、普通の人には聞こえない(聞こえなくなった)神の声を聴き、それを可視化ではない可聴化して、人々に伝え聴かせる媒体(メディア)なのでしょうし、共同体の「声」に同一化し、これを共感・共鳴する共同体のメンバーに聴かせ、共有できるような存在でしょう。そして、民衆の共感が得られるようなすぐれた歌手というのは、元来、神の前で歌い、神にささげる歌でもあり神の声でもあるような歌として、共同体の人々に聴かせ、共感によってそれを神の声=共同体の声として共有し、確認しあう仲立ちをするような者が歌い手であったはずで、そのような「歌う者」の原初的な資質が、この歌手をこれだけ傷つきボロボロになっても、自分の唯一の武器だからと歌い続ける宿命へと駆り立てているのだろうと思わずにはいられません。