はるか、ノスタルジィ(大林宣彦監督 1993)
大林監督の映画をみるのは久しぶりでした。この映画の制作着手が「ふたり」よりも早くて、完成したのは「ふたり」より後になった、という重なる時期に撮られたことは驚きでした。ただ、完成まで長い月日を要した、というのは分からないでもありません。
なにしろ難しい作品なのです。「ふたり」は作品としての完成度が高くて、大林作品にはむしろ珍しく破綻のない、まとまった、作品として自立した世界を形づくっているすぐれた作品で、高い評価を受けているのも当然の作品です。
私も彼の作品で一番すぐれているのは?、と問われれば「ふたり」を挙げます。ただ、大林作品にとって、ここでいう「破綻」はほとんど必然的なもので、たぶん彼の映画の作り方そのものに根差しているところがあって、除去して済むというものではない、とかねがね思っています。
それで、すぐれた作品としてなら「ふたり」を挙げるけれど、私が最も愛する大林作品は?と問われれば、絶対に「さびしんぼう」を挙げるでしょう。それを説明し始めると長くなるので、ここでは「はるか、ノスタルジィ」に戻りましょう。
「はるか、ノスタルジィ」は成功作か失敗作かと二者択一の平凡な問い方をするなら、私は明らかな失敗作だと思います。これは頭でつくった作品で、理屈っぽくて、過去と現在が併存して、主要人物の胸のうちでのその過去と現在のかかわりが錯綜していて、とても分かりにくい。
しかも、観客は、これらの登場人物の気持ちになってフォローしていくことがとてもじゃないが難しいよな、と思うほど、これは監督の思い入れで非常に不自然にデフォルメされた少女像が扇の要になっていて、演じた石田ひかりでさえDVDに収められている後年(だったと思う)のインタビューで、事実上さっぱり分からないまま毎日苦しみながら撮り終えた、というような意味のことを喋っていました。ヒロインの気持ちに女優としてどう努力しても同化できなかったのだろうと思います。
本来はとても単純な話で、舞台は小樽。主人公佐藤弘(松田洋治)は、多感な思春期に、売れない純文学作家だった父と家計を支えるために売春宿で春をひさいでいた若く美しい義母と3人の極貧の生活を過ごす中で、同じように悲しみの底にあった少女三好遥子(石田ひかり)と出会い、惹かれ合い、互いの素性を決して聞かず、知ろうともしない約束で逢引を重ねるうち、つい少女のことをもっと知りたくなってあとをつけ、少女が学習塾に一人で入っていって、塾の講師らしい若い男と二人でいるのを見て激しく嫉妬します。見られたことを知った少女はそれから逢引の場に来なくなりますが、弘は、義母が父や自分を捨てて出ていこうとしたとき、父に知らせに売春街へ駆けていくと、ちょうど父がみじめに売春宿を叩き出さるところを目撃しますが、そのときに女郎屋から出てきた女があの少女で、少年は彼女が売春婦だと思い込み、少女への強い思慕と、義母と重ねて見ざるを得ない「売笑婦」たる少女への侮蔑の念とに引き裂かれます。
義母は去っていき、家は焼け、父が亡くなり、少年はすべての過去を忘れようと、小樽を去り、親戚を頼って東京へいくことを決意します。東京へ行く前日、あの少女・三好遥子が、父を弔った寺の坊主に弘が翌日東京へ発つと聞いたと言って、訪ねてきます。少年は彼女を乱暴に抱きながら、遥子を「淫売!」と罵るのでした。
まずこういう過去があって、その過去を潜在的にひきずりながら、その過去を完全に忘れ去ろうとしてきた中年男、綾瀬慎介(佐藤弘の成人した姿で、作家としてのペンネーム。勝野洋が演じる)が歳月を経て小樽を訪れるところから、この映画は始まります。従って、彼がなぜ小樽へやってきたのか、どんな過去を持っているのか、彼が忘れようとしていることが何なのか、それは見ている私たちには最初は分かりません。語り手である彼自身が、忘れようと努力して、実際に忘れてしまっているからです。
こうして何十年ぶりかで小樽へやってきた彼が、偶然のようにして出会う少女が、かつての三好遥子に似た、石田ひかり演じる「はるか」という少女。偶然を装って彼に近づくのですが、実は彼女は綾瀬伸介の少女小説の類の熱心なファンで、彼を知っていて近づいたことをあとで白状しますが、その上で、みずから小樽の案内役を引き受けます。彼らを車で運んでくれるアッシー役は、少女がお兄さんと信頼するクリーニング屋の無口で不愛想な若い男「のぼる兄さん」です。彼は、はるか以外の人間ではまともにコミュニケーションがとれない人間ですが、彼女の頼みにはいつも淡々と応じ、彼女がどうしていようとわれ関せずの姿勢で干渉しないけれど、いつも「転ぶなよ」と口癖のように彼女に声をかけ、さりげなく彼女を見守るボディ・ガードのような存在で、彼はいつもドイツ語の文庫本など読んでいて、ときどきそんな書物の中から拾い出すようにドイツ語で箴言めいた言葉をつぶやくのです。
こうして彼は自分が思春期を過ごした場所を訪れ、はるかに過去を話すうちに、無理に忘れ去ってきたことをだんだんと思い出し、われわれ観客も上述のような彼の思春期の時代の悲惨な暮らしやそこで起きたことを知るようになります。
ところで、はるかと綾瀬がたちまわる場所には、いつも旧制中学か旧制高校のような学帽にマント、下駄履きという古典的な学生姿の若い男が見え隠れして、どうやら二人のいくところ、いくところへつきまとっているらしいことが明らかになります。
綾瀬が自分の過去の記憶を取り戻していくにつれて、やがてその若者は二人の間近に姿を現し、二人に語り掛けて自分が何者かを明かします。それが実は小樽で暮らしていたころの思春期の綾瀬自身である本名佐藤弘という若者であったのです。
綾瀬が忘れ去ろうと努力して忘れて来たことを、はるかに問われ、はるかに心を開いて語り、徐々に思い出すにつれて、少年時代の自分である佐藤弘も現実によみがえってくるのです。こうして三者のやり取りを通じて、次第に彼の過去が明らかになっていく。
それにつれて、目の前の少女はるかと、かつて自分が心無い言葉を吐いて別れ、忘れようとしてきた少女遥子とが重なり、遥子に対する切ない想いがよみがえってくるのと、目の前の遥子に瓜二つのはるかに対する想いが、現実のはるかへの想いなのか、彼女の中に遥子の姿を見ているだけなのか、自分でも曖昧でわからなくなったように、綾瀬は混乱をきたし、或る夜、はるかを送っていく途中で、はるかに「おとなとして扱っていいか」と言うのでした。はるかは首を横に振って、「いまはまだ・・・」と(そういったように聞こえましたが、実はよく聞こえなかった・・・笑)拒んで去るのです。
綾瀬は自分がかつて愛した少女三好遥子が売春婦ではなく、ただ売春宿の置屋の娘にすぎなかったことを、佐藤弘の言葉によって知ります。
綾瀬の若き日の姿が現実化した佐藤弘とはるかが二人だけで語り合うとき、佐藤弘は、もうすべては遅すぎると涙しますが、はるかは、綾瀬慎介はあなたの未来なのだから、まだ間に合うのよ、と言います。ここではるかが現在の中年男綾瀬を単なるファンとしてではなく、いまでは愛していることが示唆されます。
はるかは自分を育ててくれた母親だと思っていた女性が、実の母の親友で、自分の本当の母親が三好遥子であったこと、遥子は若き日の綾瀬≒佐藤弘と別れて後、あの塾の講師だった親切な男と結婚してはるかを生んだが、火事で二人とも死に、幼いはるかだけが生き残ったと聞かされます。彼女を育てたのは長年母だと思って来た、実母の親友の女性だったのです。
はるかは、小樽を発とうとする綾瀬慎介のいる旅館へ訪ねていき、いまは一人の女性はるかとして、あなたを愛している、と言って綾瀬に抱かれます。ちょうど数十年前に、まだ少女だった彼女の実母三好遥子が、小樽を発とうとする佐藤弘に会いに来て抱かれたように、です。でもいまの綾瀬とはるかは慎介と遥子の不幸な出会いと別れの深手を消し去り、彼らの果たせなかった夢をようやく成就することができたのです。
そうして綾瀬は翌日小樽を発って東京へ戻っていき、はるかはクリーニング屋ののぼる兄さんと結婚して幸せに暮らします。それからまた長い歳月が過ぎ、いまや白髪の老人となった綾瀬が再び小樽を訪れ、かつて父と訪れ、その思い出をたどってはるかとも訪れた、海の見える丘へやってきます。そこには、はるかにそっくりの少女が一人座って海を眺めています。そして、その少女は、むかし綾瀬がはるかに語った話、自分が父から聞いた話を繰り返すのでした。
・・・ざっとそういうお話です。佐藤弘の登場の際には、思い出を喚起する要素として、弘が遥子のために書いた自作の詩がうまく使われていたり、弘の義母が春をひさぐ売春街の水路、橋、安宿みたいなのが並ぶ古い街並み(セットらしい)にとても雰囲気があったり、小樽の季節の異なる風景が美しかったり、いろいろと細部に観るべきところもたくさんあります。
それでもやはりこれは、ちょっと脚本が理屈っぽすぎ、ややこしすぎるでしょう。けれどもだからと言って切って捨てられないのは、やっぱりこの作品に大林監督のずぶずぶに入れ込んだ感傷がぎっしり詰まっているからです。これはやっぱり大林監督しか作れない作品で、石田ひかり演じる二役の少女像はもう全く大林さんならではの「古典的」な少女像であり、大林さんならではの「現代的」な少女像であって、現実的にどちらの時代にもこんな少女なんかいやしないので、これはもう大林さんの過剰な思い入れの現実性だけが見る者にとってのリアリティを支えているのです。
もはやこの世にいないはずの過去の人間が生身の肉体をもって現在に現れ、いま生きている人間とまったく対等におしゃべりし、行動を共にし、感情を交わし合うのは、大林作品ではお馴染みの世界ですが、こういう或る意味で洗練されない、泥臭く古典的な手法なのに、逆にそれゆえに手触りのきく世界というのか、過去の失われたはずの人間とも言葉をかわし、感情移入して、たまらなく切ない感傷に涙せざるを得ない世界をつくりあげてしまっています。そして、もし人を死に誘うような甘美な香りというものがあるとするなら、いつも大林さんの作品世界からはそんな甘美な死の匂いが漂ってきます。それは幾分か頽廃的なものを含んでいるような気がします。うまく言えないのですが・・・
主演の石田ひかりは「ふたり」で中嶋朋子と共にすばらしい演技をみせてくれましたが、今回の作品では自らインタビューで語っているようにヒロインに感情移入しにくい困難な演技を強いられたのだろうと思います。それでも彼女の魅力は十分にこの作品の中に焼き付けられています。
自分が消してきた過去を覆ったヴェールを剥がしていくのを怖がる臆病な綾瀬慎介を先導して、明るく跳ねるように躍動する姿で彼の過去と同時に今の自分と重なり、自分と連なる過去の世界へ怖れを知らずに踏み入る少女の姿を魅力的に演じていますし、はるかのうちに三好遥子を見つつ、同時にはるかへの想いも芽生えて混乱する綾瀬に向き合いながら、次第にそんな綾瀬に惹かれていく「おとな」(になりかけ)の少女の姿を見せる石田ひかりはとても魅力的です。「おとなとして扱っていいか」と綾瀬が夜道で彼女に迫る場面では、思わず「ダメ~ッ!」(笑)と言いたくなりますよね。彼女が首を横に振ってくれて、ホッとした(笑)。
彼女が東京へ発つ直前の彼を訪ねるシーンは、私としては認めがたい(笑)けれども、彼女が自立した「おとな」の女性として自らの気持ちに正直になって決意したことだから、何も言いません(笑)。あんまり見たくはなかったけれどね。その直前の、「のぼる兄さん」(尾美としのり)とのやりとりは、すごく良かった。
大林監督の作品はいつも思うけれど、この作品も、往きがけの目ではなくて、帰りがけの目で撮られた世界という気がします。そうでなければなぜ私たち観客がこんなずぶずぶの感傷を詰め込んだような作品に惹かれるのかよくわからなくなります。往きがけの目で作られる作品なら、そんな感傷は全部そぎ落とし、棄てていくでしょう。それによって作品は洗練され、もっとずっと鋭利にとんがったものになるに違いないのです。だって往きがけにそんなものをどんどん入れていけば、ただただ大甘のメロドラマにしかならないことは明らかですから。
けれどもこの作品のように、大林さんの作品は帰りがけの目で、人生のいたるところにある感傷のカケラまでみんな拾っていくのです。割れ茶碗のカケラやガラスの破片、雨に打たれた端切れの色や舞い落ちる枯葉、そんなものが輝いて見えるのは、きっと一度死の淵までいくように、遠くまで行ってしまった帰り掛けの目で拾っていくからでしょう。いまでは誰も拾おうとはしないだろう古典的な貧しさ、卑しさに満ちた世界、純情すぎる恋の神話、中年男の身勝手な少女幻想やいわれない過去の世界と現在との接続、すべては感傷に塗りつぶされた大甘のメロドラマの素材にしか見えないガラクタを、彼は帰りがけの目で丹念に拾い集め、丁寧に組み立てていきます。そして、私たちは自分の中の一番弱い部分、できれば人前で見せたくない弱みのような、感傷の巣をかき回されるようにして、この作品の世界に入り込んでいきます。
blog 2018/07/02