ヒトラーと戦った22日間(コンスタンチン・ハべンスキー監督)2018
これも出町座で見てきました。
ロシア、ドイツ、リトアニア、ポーランドの共同制作作品で、ナチの収容所ソビボルにおけるユダヤ人集団脱走の実際に起きた事件を描いたドラマです。
戦争映画が嫌いでぜったい見たくないというパートナーとは違って、戦争映画にもいい映画があるぜ、と他の映画と変わらない程度には見て来ましたが、ナチのホロコーストものというのは、やっぱりどちらかというと敬遠したい映画で、一度テレビでけっこう長編(何回かに分けて放映されたと思う)の「ホロコースト」を見たときは、後々までガス室のシーンや幾つかの悲惨なシーンが記憶に焼きついて、映画は楽しむために見るという自分の原則からはやっぱりこういう映画(そのときはテレビドラマでしたが)は避けたほうが無難だな、と思ったものでした。
今回の映画も冒頭、貨物列車に詰め込まれて運ばれてくるユダヤ人の家族たちが、まず女子供と男に分けられ、男は労働力として、また女も手に職のある者はその技術を使うためにより分けられ、あとはシャワーを浴びさせるんだから何の心配もない、家族にもあとで会えるぞ、と行列をつくらせて全裸でガス室へ。そして扉が締められると、シャワーの吹き出し口からは毒ガスが出てきて、全員折り重なって死んでいく、それを天井の小さな窓越しに収容所長らしいナチスドイツの軍人が見ている・・・そういうシーンがあって、やっぱり何度見てもこういうシーンはショックで、それも実に淡々と機械的に、まるでモノを生産する工場のように、あるいは食肉動物をベルトコンベアー式に流れていく中で屠殺して綺麗な肉にしていくようなスマートさで、その惨劇が進行していく光景は、叫びや血しぶきを見るのとはまた違った背筋の凍るような怖さがあります。
ペチェルスキーという実際にいたこの集団脱走事件の首謀者でこの映画の主人公であるソ連の軍人は、最初ほかのところで脱走を試みて失敗し、大勢の仲間たちを殺してしまう結果になりながら九死に一生を得てこのゾビボルにきたときは、みなに指導者がいないからリーダーをやってくれと請われながら、過去のトラウマで拒否しています。でも(これは事実ではないでしょうが)ドラマ的には同じ囚人仲間の若くて美しい女性とのやりとりの中で、自分を責めないで、という女性の言葉に背中を押されるようにしてリーダーを引き受け、周到な計画を練り、最終的には収容所の将校たちを一人ずつおびき出して全員殺害し、蜂起して囚人全員で脱走します。実際に400人の囚人が脱走して、100人は逃走中に殺されたらしいけれど、それでも300人ほどが生き延びたようです。ペチェルスキー自身も生き延びて80歳をすぎるくらいまで生きていたようです。
でも、このソボビルの脱走劇もペチェルスキ―のことも、なぜか戦後になっても秘せられて、広く知られることがなかったらしい。戦後の米ソ冷戦が影響しているからでしょうか。西側にとってはソ連の軍人がヒーローというのが面白くなかったのかもしれないけれど、なぜスターリンのほうも大々的にPRしなかったのか不思議です。
最後には脱走を果たすわけだから、一定のカタルシスはあるけれども、なにしろそれまでの100分以上は全部ナチスドイツ兵たちの傍若無人、文字通りユダヤ人を人間とは思っていない連中のやりたい放題ですから、もう「同じ人間がそこまでやるか」の連続で、ドラマを見ているというより、そのドイツ兵の姿に、自分の中にある人間性のよりどころみたいなものを直撃されて、げんなりしてしまうところがあります。
とりわけ、誰か一人でも脱走を試みたりしたら、その囚人が殺されるだけではなく、「罰」として、囚人全員が広場に集められ、ドイツの将校が1,2,3・・・と頭を叩きながら数を数えて10番目ごとに、将校の後ろを銃を持ってついてくる兵士が頭に銃弾をぶちこんでいく、ああいうシーンや、将校の誕生祝いか何かで集まって酒をあびるように飲んで大宴会のドイツ兵たちが囚人の中から自分の「馬」を選んで、荷車に自分が乗り込み、それを囚人の誰彼に鞭を曳かせ、鞭をあてて走らせて競争し、大はしゃぎするようなシーン。なにかこう胃の中で朝食べて来た未消化の食べ物が沸騰してぐつぐつ沸き立って喉元まで溢れてくるような、たまらない状態になりながら目が離せないで最後まで見てしまいまし。
ペチェルスキ―を演じた俳優は、ロシアの国民的俳優コンスタンチン・ハペンスキーという人だそうで、理想化されたヒーローではなく、過去のトラウマをかかえて迷い、逡巡しながら皆に請われて有能なリーダーぶりを発揮して脱走を成功に導く、陰影のあるリーダーをみごとに演じていました。
収容所の所長というか非常な司令官役は、クリストファー・ランバート。最初のガス室で苦しみ折り重なって死んでいく全裸の囚人たちを天窓からガラス越しに見ている男ですね。彼もただ冷酷・残虐な獣人というのでなく、そういう自らが指示することで毎日起きている惨劇を目の当たりにすることで心を病んでいるわけで、もちろん鬼のような残虐・冷酷な人間ではあるけれども、あくまでもそういう弱さを持ったもともとは普通の人間であったようなものとして描かれていて、そういう人間像を存在感をもって演じています。だけど、そういうかすかな陰影さえなく、もっぱら元気いっぱい精力的に囚人をいたぶる他のドイツ兵たちの姿のほうが、見ているこちらを直撃するところがありますね。状況によっては人間があそこまで完全に獣になれる、ということ。
おそらく第二次大戦中に中国などへ出征していた我々の親の世代や今の若者たちの祖父の世代の中には、そういういまからみればアブノーマルな状況を生き延びた者も少なくはないでしょう。戦後は彼らもそんなことまるでなかったかのように、家族に囲まれ、古カバンなど持って出かけては電車にゆられて通勤し、近所の人に出会えば穏やかに挨拶するような何の変哲もないいい親父さんになりおおせてきたのでしょう。
この映画で描かれたようなドイツ兵の姿をいまのドイツの若者たちは、どんな気持ちで見ることができるのでしょうか。私はこれに類した映像が例えば南京を舞台に、日本兵たちの姿がこういうタッチで描かれたとしたら、どんなに作品としてすぐれた映画だと言われても、ちょっと映画館へ足を運ぶ気にはなれそうもありません。
塚本晋也の「野火」だって、ジャングルで死と向き合った敗残兵たちが、現地の子供を「猿」と称して「狩り」に行き、射殺して人肉食をする、という場面がありますが、この映画のようにそういう行為におよぶ人間性を追い詰めるような映像化がなされているわけではありません。むしろいまにも自分たちどうしで殺し合って人肉食に及びそうなハラハラ感とか、銃弾の飛び交う第一線の戦場で頭や腕が吹っ飛び血が飛び散り画面にあふれる、そういう戦争で破壊される肉体の映像はすさまじい形で描かれていますが、そこには加害者も被害者も敵への憎悪もない。へたをするとどちらかと言えば個々のジャングルをはい回り逃げまわる敗残兵が被害者にみえてしまうようなところさえあります。
でもソボビル収容所の人間関係はそんなものじゃない。自らも精神を崩壊させながら、ユダヤ人の無抵抗な囚人を虐殺し、あるいは道具として、モノとして扱い、虐待するドイツ兵には、この世でもあの世でも未来永劫どんな弁明も不可能な絶対悪とでもいうべきものが体現されています。
おそらく同じような視点で描けば、南京の日本兵もこういう存在になるでしょう。それを私が正視できるかと言われるとちょっとたじろいでしまいます。おそらくそういう映画がつくられても日本では公開されないのではないか。
そこがこの映画を観て一番考えさせられたところです。ドイツもこの映画の制作にかかわっているわけです。米英仏がつくるならわかる。ソ連やポーランドがつくるのもわかる。でもドイツがよくつくれたな、と思います。やっぱり私たちはまだ歴史がまともに正視できないのかもしれません。自分たちの親や祖父のしてきたことを、まだ私たちはほとんど知らないままなのです。
Blog 2018-12-1