「朱花(はねづ)の月」(河瀬直美監督。2011年)
大和三山に囲まれた飛鳥の村で「はねづ色」の染めを仕事としているらしい三十代後半くらい?の女性が夫か同棲相手かと二人暮らししているけれども、同じ村に住む木彫り職人らしい若い男と逢引する仲になり、妊娠したことが分かって、夫(あるいは同棲者の男)に好きな人がいる、と打ち明け、夫は唖然として言葉もない。また彼女は若い愛人にも妊娠を打ち明けるが、そのときに若い男が「ここで3人で暮らせばいい」と受け入れようとすると、彼女は、「もう堕ろしたからいい」と言い、唖然とする男に「(あなたは)待っているだけじゃないの」みたいな捨て台詞を残して雨の中を自宅へ戻るが、夫に、赤ん坊はまだ(おなかの中に)いると打ち明ける。
昔、畝傍山をめぐって香具山と耳成山と争った、という万葉集に歌われたような~そして冒頭からこの万葉の歌が繰り返し何度もナレーションでつぶやかれるのですが~三角関係だけ取り出せば、ただそれだけのことで、男女がくっついたりはなれたりのゴタゴタは都会だけじゃなく、こんな田舎にもあるよ、というだけの話になってしまいますが、そこへ、かれら登場人物とつながりがなくもない戦中派である祖父母の世代の話、好きな人と一緒になれなかった祖母の逸話が、現実の祖母や相手の男が現代の人間のそばに一緒に登場させられたりするのと、背景になっているこの飛鳥の自然にまつわる、先に述べた万葉集の歌に詠まれた伝説の大和三山の三角関係を重ね合わせて、いまのこの三人の間の関係が古代から繰り返される人間の普遍的なありようであり、苦悩であり、面倒くささであり、といった奥行きをもったものとして描きたい、といった作品です。
しかし、こうした二世代前のエピソードも、古代の大和三山の伝説も、みな作品世界の外部から作者が外挿した意味づけであって、作品世界の内部で生きる登場人物たちの間から自然に立ち上がってきたものではないので、まったく作品世界のありようにとって必然性がなく、作り手の外在的な意識がつくりあげた厚化粧にすぎないために、わたしたち観客は鼻白むしかないものになっています。
ボヴァリー夫人だってアンナ・カレーニナだって、ヒロインの行為だけを取り出せば、浮気女の不倫の話にすぎないけれども、彼女たちがそういう生き方を選びとっていかざるを得ない背景が社会的な広がりと心理的な深みをえぐる鋭利さ、緻密さをもって豊かに描かれて説得力があり、したがって彼女たちが滅びの道へ転げ落ちていく必然性も完璧な必然性をもって描かれています。
でも(とあんな巨匠と比較しちゃいけないでしょうが・・・笑)この作品の女性には自分をそんなところへ追い込んでいく必然性も何も感じられず、ただ不倫ありき、浮気ありきで、妊娠してしまって右往左往して混乱した告白の仕方で、夫(あるいは同棲相手)をも愛人をもただ巻き込んで苦しめるだけ、どこにも古代のおおらかさもなければ、戦中派の祖母らの潔さもない、まぁそこが現代的だと言えば現代的ではありますが、それならとてもこれらを重ねてみせることなどできないでしょう。
古代の大和三山の三角関係を重ねることなどまるでできないのに、無理に外から手をつっこんで重ねようとするので、冒頭からの万葉集の朗読なんかが、まことに大仰でペダンティックなパフォーマンスにすぎないものになってしまうし、祖母の世代の結ばれない恋愛も一体何の関係があるの?という感じで、そんな過去の亡霊が現実の姿をして現れたりすると、おいおい無用の混乱を引き起こすだけの無関係な亡霊はひっこんでいてくれよ、と言いたくもなります。
ここらは生真面目な観客は、河瀬さんの映画は難解だけれど、なんて一所懸命その混乱を見ている自分のせいだと思って解きほぐそうとしていたりするのですが、それはあまりに気の毒で、混乱している、あるいはあえて混乱させて単純な話を単純でなく見せようとしているのは作り手のほうではないか、と思います。
古代の三山の伝説も祖母のエピソードも、作品世界の登場人物たちが必然的に招き寄せる過去の物語ではなく、作り手が世界の外から手をつっこんでこの世界に生きる登場人物たちの言葉や行動の意味はこうだ、と付加したものであるために、観客も、じゃなぜ作り手はそんなことをしなければならなかったのか?という問いの答を、作品の内部にではなく、外部に求めざるを得ないのは自然なことで、河瀬さんは自分が愛する故郷を強く印象づけたかったから無理に大和三山の伝説など重ねようとしたのかな、とか、外国人向けにエキゾチズム効果をねらったのかな、とか、とりたてて面白みのない展開に時間軸のひろがりがあるような錯覚を与えたかったのかな、とか、つい作品外の戦略的な思考なり「政治的」な姿勢なりを問う方向へ行ってしまうのも、あながち責めることはできないでしょう。
もし本気で古代の大和三山の伝説を、作品世界に持ち込んでヒロインたちの三角関係に二重写しに焼き付けたいのであれば、ヒロインたちの生きている世界がおのずから招き寄せるものでなければどうにもなりません。そのためには、もっとヒロインたち一人一人の暮らしや生き方を深く、緻密にとらえ、その意味を剔抉しなければ、大和三山とも祖母ともつながりようがないでしょう。
たとえば、ヒロインが手仕事にしている、タイトルの「朱花(はねづ)」色の染めのことをもっと掘り下げて、こういう土地柄の中で真剣にそんな仕事を内在的に探究しながら持続している女性の日常のうちに、自分の天職としてそれをきわめていく上での苦しみもその克服の過程も必ず内包しているはずですから、そのような女性の生きる姿勢やその天職のありよう自体を深く掘り下げれば、古代まで遡る時間軸が喚び起こされる可能性がそこに見いだされるに違いないので、もっとこの女性の生きざまを緻密に深く掘り下げていかなくては話にならないのではないか。
また祖母の世代のかなわぬ恋のエピソードを潜在的な三角関係としてヒロインの現実的顕在的な三角関係に重ねたいのなら、もっと祖母とヒロイン自体のつながりを深く掘り下げて、ヒロインが祖母のあたかも生まれ変わりというのか、化身のように見えるまでに描き込んだうえで、祖母の果たせなかった恋の成就(破綻するとしても)へ踏み出すかのように見える程度までは描き切って観客を納得させてくれないと、このままでは、いまじゃ田舎にもこんな不倫が浸透していろいろ周囲の人間を巻き込んでドロドロしてまっせ、というだけの話に終わってしまいそうです。
たしかに自然を撮った映像は美しいけれど、それも例えば妊娠を打ち明けられ、もう堕ろしたからいい、あんたは待っているだけやん、と言われて傷つき吠える若い愛人の男の映像を出したすぐあとに、強い雨風に揺れる豊かな緑の森の風景や、怒涛のようにほとばしる渓流の映像を出すところなどに観られるように、すべてこの種の重ね合わせが外挿法によるので、この場合はきわめて素朴な、荒れ狂う男の心理を荒れ狂う自然の像的喩で表現しただけなので、素朴過ぎて苦笑は誘っても、そう違和感はないけれど、万葉集の朗読が聞こえて来たり、兵隊帽のあんちゃんが繰り返し登場したりすると、おいおい、と白けてしまうところがあります。
同じ素朴に撮るなら、こういう美しい自然の中で、昔ながらの染めの技法を守り、これを天職として研鑽しながら、また古代からの時間軸を自分の生き方のうちに持続しながら、さらに祖母のしてきたことを自分のうちに継承しながら、静かに生きている女性が、同じように木を彫って生きることに命をかけているような若い男と心を通わせ、彼とまったく五分に渡り合える優しく寛容でまじめな夫なり同棲者なりとの三角関係を、肉体的な関係の有無はどうでもよいからきちんと描いて、その関係から自然に生まれてくる限りでの古代や祖母の恋を引き寄せる、というほうがよほどまっとうな作品の世界を実現できるのではないでしょうか。
そういう登場人物たちは、決して作品世界の外部から作者が付け足す「意味」など必要としないで、自分たちの行為や生き方の意味をみずから生み出していくはずです。
Blog 2018-6-23