Playback (三宅唱監督) 2012
これは数日前に出町座のスクリーンで、三宅唱特集の最終日に見ました。見てすぐに、「しまった!」と思ったのは、この映画は1度観たんではなにがなんやらさっぱり分からないままだな、と思い、きっと2度、3度観る方がよさそうだと思ったからです。
出町座の三宅唱特集のEプログラムとして数回上映されたはずですが、ゲストに監督を呼んだ日の特別プログラム以外はA~Eのすべてを1回ずつ見たので、それでいいかと思ってEを見るのが最終日になってしまったのが失敗でした。またどこかでいつか市内で上映されるときにはぜひ見てみたい。
なぜそう思ったかというと、この映画はいわゆる物語性を取り出して要約的に言ってしまえば、もうアラフォーにさしかかったうだつのあがらない、でも或る程度名が知れているらしい男性俳優が、中国人の若い監督が指示する映画の音声吹き替えをやっているシーンからはじまって、なんかこのひと疲れているようで、遅刻はするわ、監督がキレてしまうほどやる気がない仕事ぶりで、叱られても蛙の面に小便的な態度。「先に帰るわ」みたいな感じ。この人が故郷へ帰って友人たちと、或る友人の結婚式に出て、いろいろあって帰ってくる、というだけの、どうってこともない話です。
ところがどうもその結婚式前後の彼もその式に一緒に参列して彼にからむ友人たちも、いつの間にか、いまの40男の彼らではなくて、学生服姿の若いときの姿になっていて、回想場面か夢の中かというふうな場面になっています。しかも、学生服姿になったからといって、彼らの顔がメイクとかで若返っているわけでもなければ、別の若い役者が演じているわけでもなく、40男がそのまま学生服を着て演じています。
これは1回見ただけだと、どの場面からどう変わったのか、あれ?と思っている間に進行していて、よく分からなくなります。おまけに面白いことに、観ていると、一度あった出来事が、もう一度そっくり繰り返されます。それもまったく細部まで同じではなくて、ちょっとした順序や喋る人が違っていたり、あきらかに「繰り返し」でありながら、少しバグが入って、ものごとが継起的に生じるのを記録したデジタルデータの一部がズレたようになっています。そこが面白いといえば面白いけれど、何が起きたか観ていてもよくわかりません。
ただ「繰り返し」であることは明らかなので、当然ながら、デジャヴュというのか、一度この場面は見たよな、こういうセリフは誰かがいってたよな、という強い既視感があります。そしてほんとうに目覚めて画面を注視しているのに、まるで非常に明晰な夢の中の世界にいるみたいな印象をおぼえます。
私たちが眠っている間にみる夢でも、その夢の中ではちっとも曖昧でも朦朧としてもいないし、変だとも思わずに、自分はいまの自分なのに、出て来て「おうおう!」と言葉をかわす友人は高校や大学のときの友人のままの若い姿だったり、それとは違う最近の時期につきあっている会社の同僚なんかが今の年齢で一緒に登場したりして少しも変だと思わずにしゃべったりしています。過去と現在、こちらかあちらか、といった時間や空間が、夢の世界では相互に融通がきくみたいで、現実の世界のように見えない壁で仕切られてはいないようです。
なにかそういう不思議な世界をまざまざと見ているような変な映画(笑)でした。ただ、確実なのは、最初だらしない「いま」のままの恰好で結婚式に(彼だけがそういう恰好をして)出ているのが、2度目に同じシーンで登場して式に参列する彼は、ちゃんと背広だかモーニングだかの正装で、心なしか表情も生き生きしています。
そして、そういう変化のままに、別の世界から戻ってきた彼は、冒頭と同じ仕事をする光景の中で、最初のように投げやりなやる気のない表情をしておらず、なんだか正気に戻ってやる気を出したような顔をして仕事をしていました。
たぶんこの冒頭とラストの変化は、先ほどの夢に似たような世界を経験することで生じているわけです。それが昔の友人たちとの触れ合いの中にあったことは分かります。きっと彼はその世界にあった若いときの友人とのやりとり、気持ちの触れあい、疾走感みたいなものを、一種の幻想の世界で再体験して、今現在を生き生きと生きていく感触というのを取り戻したのでしょう。
それを象徴するような映像として、主人公の彼がローラースケートに乗って、子供たちにまじって走るシーンがあり、2度目のときは、子供だけではなく、もっと大勢の人がローラースケートに乗って湧き出してくるような感じのシーンがあって、あの湧き出てくる感じ、疾走感のようなものが、彼がその世界で触れたかけがえのないものであるかのように印象づけられます。
主役の男を演じた村上淳、友人の中で一種の狂言回しの役割をしている渋川清彦、女性の友人河井青葉らが非常に存在感があって、一人一人の表情が映されると、夢の中で登場するだけで、「あ、誰某じゃないか!」とすぐにわかってしまうその顔のように、夢の中なのにリアルに感じられます。いや夢の中だからこそ、と言うべきか、現実にはそばにいても、意識して見ないと見ていない、見えていない人の顔が、夢の中だからこそ一挙に全部あまりにも鮮やかに間近に直観できてしまう、そんな顔のように見えてきます。
この物語には、菅田俊が演じる先輩の演劇人みたいな人がいて、またみんなで集まって、いっちょやらんか、みたいなことで、そういう役者としての生き方みたいな話も主人公の役者である彼に絡む一本の筋になっています。彼が疲れて今の生活や仕事にいくらか嫌気がさして、故郷へ帰るなかで、そういう自分の役者人生のスタートを確かめ、そのときの自分を再現することで、今の彼が変わっていったということなのでしょうか。
おおまかには、そういう映画だと思うのですが、なにせ細部はあれ?あれ?と思っているうちに通常、現実では起こり得ないことが進行してしまったので、これは1度ではわかりそうもありません。
時間・空間が融合というのか変容して、現実の私たちの世界では目に見えなくても確かにあると思っている境界線が消えて自分が自分のままでいつのまにか別の時空に存在しているといった夢の世界のようです。
ただ、よくある映画のように、「これは現実でここからが夢です」とか、「ここまでが彼が生きているいま・ここという現実で、ここからは彼の回想です」みたいな境界線は引かれていません。そこがわかりにくさであることは確かですが、或いは人はいつもこんな風に過去を現在として生き、現在を過去として、デジャヴュにとらわれながら生きているものなのかもしれません。
私には「やくたたず」よりは感覚的にはわかりやすく、同化しやすいところのある映画でした。
個人的には小説でも、方法意識が先だったような作品は好みではありません。学生のころ流行したフランスのアンチロマンなどは、日本でもてはやされて翻訳をたくさん読んだけれど、ほとんど面白い作品に出会ったことはありませんでした。
イギリスにいたころは背伸びして、この種の現代小説の方法的意識の権化ともいうべき先駆者だったジョイスをかじったりして、ダブリンへ行ってブルーム氏の住まいに比定されている住居跡まで訪れたりしたけれど(笑)、ジョイスが自分の著作の理解にはその人の一生を要求する、なんて言ったのは、冗談でしょ、と思ったし、彼の冗談みたいな多言語的な記述に意味があるとも、その解読に一生を捧げるようなことが文学にとって意味があるとは少しも思いません。
でもジョイスが世界中の作家に影響を及ぼしたことは事実だし、彼の影響下で明らかに方法的な意識を強くもった作家で、唯一「方法」がその作品にとって必然的で、これならばもろ手を挙げて、すごい作品、と思える、と私が感嘆したのは、フォークナーの「響きと怒り」だけでした。
「Playback」を見て、あの小説の冒頭のベンジーの目で見られた目の前の光景と、その文章の中に境界を設けずに挿入された彼の脳裏に浮かぶ光景、キャシー!キャシー!キャシー!という彼の切ない叫びを聴いた時の感じを何十年ぶりかで思い出しました。
Blog 2018-10-30