ワンダフルライフ (是枝裕和監督1998)
この作品も二、三日前と今日と、2度観ました。「ディスタンス」と同じように、でもたぶん少し違った意味で、私にとって分かりにくかったからです。
役柄も役者さんも一人一人明確に区別できたし、撮影の照明が暗くて見えにくいとか、声がほとんど拾えていないというような技術的な(故意にせよ)問題もありません。
分かりにくかったのは、それぞれの人生の最良の時を記憶の中から選んで旅立っていく人たちとその人たちをまだ成仏しきれない現世から成仏してあの世へいくまで、生から死への橋渡し役をつとめる施設のスタッフたちとのやりとりの場面が細切れにされて編集されているので、一人の主人公なり物語の糸を時間を追ってたどっていくことが難しいからです。
或る人の或る人生の側面がちらっと明かされたと思うと、そのコンテクストが明らかになる前に、したがっていま見たエピソードがどんな位置を占めるのかもわからないまま、突然別の人の人生の一コマが明かされ・・・というのが延々と続き、その間にそれらの人々の記憶の中の一コマを施設のスタッフたちが映画化した映像や、その映像をつくるために、あるいは人々が最良の思い出のシーンを選ぶために持ち込まれた現実の過去を映し出したビデオ資料が挿入されるので、一層わかりにくくなります。
終わってみれば、スタッフである「しおり」の、同じスタッフで50年も施設にいる若い時の姿のままの「望月」への片想いがある程度の軸を形成していて、これに施設へ送られてきた「渡辺」という老人とその思い出の中の妻がからんで中核をつくってはいるのですが、必ずしもこの人たちに焦点がしぼられたり、この人たちの行動をたどることで一筋の明確なストーリーを際立たせる、というふうではなくて、施設のどのスタッフも、また施設へやってくるどの死者も、ほぼみんな対等にとらえていくような視線で撮られています。
だから分かりにくいのでもあるけれど、そういう視線は、この作品の場合必然性があるというのは理解できました。つまり別段「しおり」の「望月」への片思いが描きたいわけでもないし、「望月」がこの施設で過ごした年月によって自分の人生の意味を見出すという、「望月」の人生再発見を描こうとしたわけでもない。また「渡辺」の妻「京子」が実は「望月」の許嫁であったという設定で一人の女性をめぐる二人の男の潜在的な三角関係とその顛末を特殊な状況で描きたかったわけでもありません。いうなれば、そういうのはどれも、兄の買ってくれた赤いワンピースを着て踊る少女を自分の最良の思い出とする婆さんや、パイロットを目指して高翼のセスナで飛行訓練したときの綿菓子のような雲の間の風景を見た時を最良の思い出とする男等々の記憶とほとんどまったく対等であって、どれもその記憶をもつ人にとってかけがえのない人生の時間だった、ということが伝わってくるような視点で描かれています。
どんな死者もこの施設に一旦送られてきて、1週間をここで過ごす。月曜から水曜までの3日間のうちに、自分の過去の記憶から、最も自分が幸せだった時をひとつだけ選び出し、その時間を施設のスタッフたちが映画化し、土曜日に本人に見せ、その人生最良の時を鮮明に思い出した瞬間にその死者はその最良の時の思い出だけを携えてあの世へ旅立ち、その最良の思い出だけをもって永遠の時をすごす、という仕組みが最初に設定されます。
しかし、中にはどうしても最良の時をひとつだけ選び出すことができない人がある。また、あえて選ぼうとしないことを選ぶ、という者もいます。「選ぶ」ことができなかった者は、やむなくこの施設のスタッフとして残り、働くことになる、というわけです。だから、スタッフの望月やしおりも、いまだ「選ぶ」ことができなかった死者ということになります。「望月」にいたっては、今次の戦争で若くして戦死してから50年(以上)、自分の人生にはそうした最良の時はなかったと思い、自分の人生に意味を見出すことができぬまま、姿・形はもとのままの若者としてこの施設のスタッフにとどまってきたのです。
そして、偶然この施設に送られてきた「渡辺」老人の妻が、「望月」の生前のフィアンセだったことが明らかになるのです。それは「望月」が「渡辺」に、自分は大正12年生まれで、フィリピンの海戦で負傷して昭和20年5月28日に22歳で死んだので、いま生きていれば75歳だと語ったからです。それで「渡辺」老人は、「望月」が自分の妻のかつてのフィアンセだったことに気づくのですね。
「渡辺」老人は、この施設へやってきたとき、「選ぶ」ことができませんでした。それは、妻が自分と出会う前に最愛のフィアンセを戦争で失っていたことを知っていたためでした。しかし、彼は最後に妻と映画を見に行った日にベンチで座って夫婦で話している思い出の時を選びます。
彼が旅立ったあとに残した「望月」宛ての手紙には、「望月」が、自分の妻のかつてのフィアンセだった男だと知り、「望月」本人に出逢うことによって思い出の時を選ぶことができたと書かれています。
「望月」に想いを寄せるスタッフ「しおり」は、「望月」のフィアンセだった「京子」が死者として施設へやってきたときに彼女が選んだ人生最良の時の映画を探し出して観ます。そこには、軍服姿の「望月」と並んでベンチに座る「京子」の姿がありました。それは「渡辺」老人が選んだ思い出のシーンと同じ場所でした。
「しおり」は「望月」に、嫉妬心から、あなたは「京子」が選んだと同じ思い出を選ぶのでしょう、と言い、自分は選ばない。選んだらここでのことを忘れなきゃいけないから。私は「望月」さんのことを記憶しておきたい、という意味のことを言います。
これに対して「望月」は、自分は他のスタッフらとともにここへやってくる色んな人の人生と関わってきたこの施設での50年の経験によって、自分も人の幸せに参加していることが分かったのだと語ります。
そして彼は旅立つ決意をし、映画を撮り、それを他のスタッフたちと一緒に観るのです。その映画には、彼が今の姿で一人ベンチに坐って人生を顧みて思い出を探すようにみえる姿と、その彼を撮影するこの施設の同僚であったスタッフたちの姿が撮影されています。上映が終わって、私たちこの映画の観客の視線が同一化しているカメラは観客席に坐って「望月」の思い出映画を見ていたスタッフたちをとらえますが、そこにはすでに「望月」の姿はありません。彼はこの施設の仲間たちとああして死者の思い出を撮影する光景を自分の人生の唯一最良の思い出として携え、向こう側の世界へ旅立っていったのです。
この作品に登場する、この奇妙な施設を訪れる死者たちの人生には、必ずひとつくらいは「人生で一番楽しかった思い出」があり、死者はそれを選び出しそれだけを携えてあの世に旅立っていきます。不幸にして自分の人生にはそんな思い出となるようなものは何もない、と考えている人も、たいていはスタッフたちの助けをかりれば、選ぶことのできる人生最良の時がみつけられます。
それでもやっぱり見つからない人は、旅立つことができず、いわば成仏しきれずにこの施設でスタッフとして働くわけですが、そうして次々にやってくる死者たちの人生につきあい、彼らをあの世へ無事に送る手伝いをしているうちに、「望月」のように、自分の人生には何の意味もなかった、と考えている自分も「ひとの幸せに参加している」ことが分かってきます。ここがこの映画のポイントでしょうね。
映画の作り手は、無意味な人生なんてない。どんな人の人生にも、きっとひとつくらいはかけがえのない最良の時間があり、素敵な物語があるものだ、そして、そんなものは何一つない、と思える人も、意識してもしなくても自分が他者と接し、その人生にかかわっている限り、「ひとの幸せに参加している」んだよ、と言いたげです。
荒唐無稽な設定で、すべての登場人物が死者ですから深刻になればいくらでもなれる世界ですが、実際にはその中途半端な死者をこの世からあの世へ送って無事成仏させるこの施設が、なんだか古めかしい学校の事務室か昔のお役所の老朽化した木造のがたがたの部屋みたいなところで、ちっとも抽象化されたこの世ならぬ雰囲気の場所なんかではなくて、入口の光に満ちた抽象的な空間を除けば、妙に現実感のある場所であったり、登場人物が小さな役場の職員か零細企業の社員みたいな立ち居振る舞いをしたり、コメディ的な性格をもっている映画ですが、そのコメディ・タッチを通して人生の切なさみたいなものや喜怒哀楽が丁寧に描かれ、上記のようなメッセージがクリアに聞こえるような作品になっています。
死者ばかり登場させても、へんに暗くも重くも湿っぽくもならず、観る者に励ましと希望を与えて、前向きな一歩へむけて背中を押してくれるような作品と言っていいでしょう。
blog 2018/06/16