嘘をつく男(ロブ=グリエ監督) 1968
冒頭から、林のようなところを逃げてくる男(ボリス)を、大勢の軍服に鉄兜のドイツ兵たちが銃を撃ちながら追ってくる場面から始まります。
ただ、逃げる男はきちんとした背広にネクタイみたいな姿で、兵隊の恰好をしていないから、あり得るとすれば、これはフランスのレジスタンスか何かで、ゲシュタポに見つかって追われているんだな、くらいの想像ができます。
実際、このボリスという男は、村でレジスタンスのリーダーであり英雄とみなされているジャンの仲間で、彼自身が村へ逃げ込んで語るところでは、ジャンを助けて逃げてきたということです。
しかしこの男はどうにも胡散臭くて、彼がジャンの妻、妹、父親、下女たちに語る物語には幾重もの嘘があり、何度も訂正されては同じエピソードが違ったふうに繰り返され、一体彼が本当にジャンの同志なのか、あるいは逆にジャンを死へ追いやった裏切り者なのか、判然としなくなってきます。
確かなことは、彼が何だかんだ言って、ジャンの妹なんかをものしてしまう、つまり彼の性的欲望の対象にしてしまう、というような目の前で起こるできごとだけです。そこではボリスは口八丁手八丁の女たらしです。
女を好きに支配してしまうばかりか、彼に疑念をもったジャンの父親を殺してしまったようです。
最後は死んだはずのヒーロージャンが現れて、ボリスを射殺するのですが、ジャンや妹たちがみな室内からいなくなるのを見計らったように、死んだはずのボリスはむっくりと起き上がり、再び本当のことを語ろう、と語り始め、実は自分がジャンなのだ、と言い始めたりするのでした。
パラドックスの例を言うのに、或るクレタ人が「クレタ人はみな嘘つきだ」と言った、というのがあって、さてこのとき真実はどこにあるのか。あるいは「わたしは嘘つきだ」と語る人の言葉は嘘か真か、というのがあるけれど、そんな話を聞かされるごとく、この映画の観客は、ボリスの語る話が嘘か真か判らなくなるような話で、いくら彼の語る話の道筋を分かってそのそれぞれを丹念にたどろうとしても、そういう推理劇的な思考自体をはぐらかしてしまいます。
「真犯人」も「真相」なるものもなく、ただボリスの語る嘘か真か分からない語りが見る者、聴く者をひっぱっていく、そのプロセス自体は存在することが可能なので、それでも映画は可能なんですよ、どう?と得意顔をしているような映画(笑)。
冒頭のゲシュタポに狩り立てられているボリスという構図にしても、逃走するボリスは銃弾が飛んでくる中、ちっとも必死の形相でも一目散に逃げるでもなく、けっこうのんびりしています。
背広にネクタイなんかきめこんで、逃げてはいるようだけれど、なんだか本気じゃなくて、ふらふら逃げている感じ。鉄砲玉の飛んでくる音はするし、木の幹や石にあたったりしているから、真直に迫っていることは迫ってきているようだけれど、追う者と追われるものは交互に映されていて、同じ画面にあらわれないので、ほんまにゲシュタポは近くまで迫っているのかいな、とちょっと疑わしかったり、これって合成画面みたいで、ほんとは全然別の場所を交互に嵌め込んでいるだけの映像かもね、なんて思ったりもします。
というか、これは現実に追ったり追われたりしているものを映しとった映像ではなくて、「まぁこういう連中が追う側で、追っていることにしましょうか。そして追われている側は、このへんでこういうかっこうで逃げていることにしておきましょう」なんて感じのなれ合いで、さしあたりこうしておこう、みたいな監督のいい加減な指示でつくられた構図のような気がしてきます。
こうやって追う者と追われる者、ヒーローと裏切り者、生きている者と死んだ者、嘘とまこと、などを切り離し、また曖昧化し、相互転化させ、同一視し、相対化してしまいます。
Blog 2018-12-22